だいすけ
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ヒストリー

出身地

神奈川県横浜市

幼少期の暮らし、体験

サッカー漬けの毎日だった。放課後は毎日友達とサッカーをして遊ぶか、練習をしていた。地元のクラブチームではエースでキャプテンを務め、高学年では選抜チームにも選ばれていた。

勉強面では、公文式を極めていた。進度上位者として表彰されたこともあり、最高で学年全国8位の成績を収めた経験がある。公文式創始者が設立した私立中学校「公文国際学園」を受験、合格した。

中学・高校時代

【中学校時代】
部活動ではサッカー部に入部した。入部当初こそ先輩の試合に出させてもらうなど自分の力を示せていたが、身長が小さかったためにフィジカルで勝てなくなり、次第に序列が下がっていった。人生初めての挫折を経験した。
3年生になり自分達の代になると、副キャプテンに就任した。自分はムードメーカーとしてチームを盛り上げ、後輩の面倒見の良い、縁の下の力持ちのような役回りでチームに貢献した。

【高校時代】
中高一貫校であるため、そのまま高等部に進学した。

部活動では、引き続きサッカー部に所属した。中学校時代よりもフィジカル不足に苦しみ、自分の代で初めてのレギュラー落ちを経験。そのまま引退までレギュラーに返り咲くことは無かった。人の何倍も努力をしているつもりだったが、どこかで妥協はあった気がしており、レギュラーになれなかった事と120%頑張れなかった事がとても悔しかった。それでも1人目の交代カードとして毎試合途中出場しており、チームの雰囲気を盛り上げる事と誰よりも走るという自分の役割を最大限活かすよう努めた。

学園祭のステージで3年間トリオでお笑いを披露した。後半の2年では優勝し、全校生徒の前でネタを披露させていただいた。完全オリジナルのネタにこだわり、本番前にはメンバーのうちに何晩も泊まり込み、ネタ作りに努めた。自分が作り上げ、披露したものが初めて社会に認められるという経験をし、とても嬉しかった。

第一志望を筑波大学に決め、一生懸命勉強した。十分準備をして挑んだセンター試験であったが、得意の数学でマークミスをして大幅に減点してしまった。あまりのショックに泣き崩れ、筑波大学を諦めようとしたが、口数少ない父親に「こんなところで諦めるな」と激励され、結果的にE判定からの逆転で合格を果たした。努力は報われること、自分は周りの人に支えられていることを実感した。

大学・専門学校時代

【大学時代】
筑波大学理工学群社会工学類に入学。都市計画を専攻した。のんびりとした空気感の地で、時間に縛られることなく、夜通し遊び、夜通し勉強した。大学3年生の時に学部時代の集大成の実習「都市計画マスタープラン実習」において班長として優勝に導いた。土浦市のまちづくりプランを分析・提案する提案であり、現地に何度も足を運び、班員と夜通し議論を交わした。提案相手である土浦市民の投票により得た優勝であったため、ニーズに一番寄り添った提案ができとても達成感があった。

修士2年、大学生活の集大成として、日々研究生活に勤しんでいる。都市×ITをフィールドにドローン配達、自動運転などの最新技術が都心部・地方部の人々の生活をいかに向上させるか、数学的アプローチを用い分析している。研究だけでなく、企業・自治体とのプロジェクトにも多数参画している。


大学2年生の春には、子供の頃からの夢であったリヴァプールFCの試合を観に現地へ。2試合を観戦し、試合後には屈強な欧米人を押しのけ出待ちゾーン最前線を確保し、選手・監督のサインを入手。夢のような時間で、人生最高の1日だった。

サッカー×社会貢献を軸に活動する学生団体「WorldFut TSUKUBA」に所属している。国内でサッカーのイベントを企画・運営し、参加者からいただいたお金でカンボジアの小学校にグラウンド建設や大会・サッカー教室の開催といったサッカーを通した支援を行なっている。チャリティーフットサル大会において会場チームのリーダーとして団体初の試みを多々打ち出したり、今では団体内でも当たり前になった「e-sports大会」を初めて企画したり、サッカー元日本代表中田浩二さんとのコラボを実現したりと、団体にとっての「初めて」の中心として活躍した。