よっしー
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ヒストリー

幼少期の暮らし、体験

水に恐怖を覚える(幼稚園)

我が家は、父と母と私の3人家族です。

父は私に甘く、母は私に厳しく。この関係性は今も昔も変わっていません。

小さい頃から大事に育てられた私は、幼稚園に入ってもずっと父に頭を洗ってもらっていました。まさに、甘えです。

そのせいもあってか、いつしか水が大の苦手に。幼稚園での夏のプールではいつも号泣し、先生の手を煩わせました。

私の甘えは、もう体にこびりついていました。

優しさを理解する(小学校)

小学校にあがると、母の厳しさは加速し、低学年の頃から書道の稽古が始まりました。

なまじ勉強もできてしまったため、先生からの信頼も厚く、友達にも恵まれていました。

言い方は悪いですが、「何をやっても許される」子供でした。自惚れてましたね。それが如実に現れたのは小学校5年生です。

当時1番仲の良かった友人が不登校気味になりました。そんな彼に私は、「早よ学校来いや」などと悪態をついてしまいました。

結局、その友達とは中学校1年生になるまで口もききませんでしたから、相当傷つけたのでしょう。

この件について、母にもこっぴどく叱られました。

「お前みたいに根本が優しくない奴はな、努力して優しくなるしかないねん、優しさは努力や」

この母の言葉、特に『優しさは努力』。これは私の座右の銘になりました。

中学・高校時代

人をまとめる困難さを知る(中学校)

私の通った中学校は公立で、地元の子はだいたいそこへ行きます。ただそこは、神戸市で子供に通わせたくない中学校ランキングでは常にワースト3に入賞しているような荒くれ中学校でした。

しかし、母の厳しさは続いていたので、勉強は欠かさずやっていました。学年では常に5本の指に入っていた記憶があります。

それもあってか、先生には気に入られていましたし、ヤンキーたちも私をガリ勉だと毛嫌いせず仲良くしてくれました。

そこへ、生徒会副会長の話が舞い込んできます。当時の生徒会は、先生の犬というより、先生や校則に立ち向かう立場でした。

人前に立ったり、人をまとめたりするのは嫌いでしたが、これを機にこういう立場になることが増えます。

たしかに大変でした。ですが、それと同時に達成感も大きなものでした。特に、校則にあった「マフラー使用禁止令(3個上の先輩が喧嘩の時にマフラーで首を絞め、救急車で搬送された事件がきっかけ)」を覆した際は、何とも言えない嬉しさが込み上げてきたものです。

初めての挫折を経験する(高校)

私の通った高校は、電車で登校する北区民(キタクミン)と、下町から自転車や徒歩で登校する地元民(ジモミン)の2種類の生徒で構成されています。私はジモミンでした。

入学して気づきました。ジモミンの学力は、キタクミンの半分にも満たないと。特に私はワースト3圏内の中学校でしたから、入学と同時に落ちこぼれました。これが生まれて初めての挫折でした。

しかも、うちの高校は進学校なので、1度落ちこぼれると這い上がることはほぼ不可能でした。逃げるように私は硬式テニス部に所属し、部活に没頭しました。

気付けば私は、部員50人を抱えるテニス部の部長になっていました。私はテニスの腕前も部内で5番手と、微妙な立ち位置で、しかも自分より賢い部員をまとめられるか不安でした。

部活を辞めたいと思っている部員、団体メンバーから外されて腐った部員、強い相手がいないと不満を漏らす1番手の部員。彼らを束ねるのは本当に骨が折れました。

ですが、冷静に周囲を見渡すことで、誰々のサーブミスが増えたとか、誰々のラケットの手入れができていないなどの細かな変化から、先手先手を打つことができました。

「部長」という肩書きが、私を育ててくれました。

ちなみに、3年間勉強から逃げ続けた私は、当然全ての受験した大学に落ち、浪人一択となりました。

大学・専門学校時代

視野が広がる(大学)

一浪して入学した大学は、正直第一志望ではありませんでした。始めは仮面浪人しようと思っていましたが、大学に通ううちに、政治学の面白さにハマり、友達に流され、今に至ります。甘えですね。

具体的な将来の展望がなかった私は、たくさんのアルバイトを経験しました。カラオケ、個別指導塾の講師、競馬場のビギナーズセミナー、某有名アイドルの警備、ビラ配り、コンサートの裏方、ドラッグストアの品出し、鉄板焼、コールセンター、アパレルなどその他諸々、多くのことを学ばせてくれました。

しかし、結局はこの、日中韓子ども童話交流に参加経験者として参加できたことが1番の収穫です。これによって、より世界に目を向けることで視野が広がり、今自分に何ができるかを考えることができました。

思い返せば、私が政治に興味を抱くようになり、この学部を選んだのはこの日中韓に参加したからでした。フィリピンに語学留学しようと思ったのも、他国の人たちともっとコミュニケーションをとるため。

この経験なくして、今の私は存在せず、です。