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ヒストリー

出身地

埼玉県南部

幼少期の暮らし、体験

少し病弱なことを除けばごく一般的な男子でした。
男子より女子と遊ぶ頻度の方が多く、小学生のノリでいじられていた(虐められていた?)記憶があります。
成績は今振り返れば優秀、漢字記憶テストを除けば100点は当たり前で、これは今でも「自分にはある程度の才能はある」と言う自信の土台になっています。

しかし、小学校中学年から起立性調節障害と言う病気で学校に行けなくなり、家でゲームやパソコンをする機会が多くなりました。
後にeスポーツと呼ばれることになるゲームタイトル達と出会ったのもこの時期です。
当時は動画投稿サイトが少しずつ知名度を伸ばしている時期で、中でも「ゆっくり実況」と言う機械音声がゲームプレイ動画を実況するジャンルを面白いと感じた私は親のパソコンに動画編集ソフトを(勝手に)インストールし、動画を作っていました。
この頃からパソコンを使った職業に就きたいと思い始めるようになりました。


中学・高校時代

親の都合での保育園の転園、小学2年生の時の大地震など、メンタルが不完全で育った私は小学校6年生の時の担任に「お前は皆と同じなんだから朝起きて学校に来い」と繰り返し叱られた(病気が判明したのは中学1年生)ことにより止めを刺され、学校に対しての意欲をほぼ失いました。
この状態は中学の3年間続いたため、私には友人がとても少なく、後に対人恐怖障害と診断されました。
しかし、「ネットが友達」と言わんばかりの私はネット上で大人たちに囲まれた会話・生活を行っていく内に高校進学前に一般教養が足りてないことに気が付きました。

気合を入れ勉強をし直しました。
進学先の通信制の学校は自分のペースで登校・学習できるため気は楽で勉強は進み、最終的に3年間の平均評定は4.7を記録しました。
改めて「環境があれば並以上の成果が出せる」自信が付いたと思っています。
また、文化祭で副リーダーを務めて成功させたり、バスケットボールクラブに所属して指を骨折したり、一番学生として楽しんでいた時期だと思います。


大学・専門学校時代

専門学校東京クールジャパン
小学校から趣味として続けていたパズルゲーム「ぷよぷよ」は高校生中盤辺りから負ける方が珍しいレベルにまで成長し、当時名前の出始めた”プロゲーマー”の職を目指せるかもしれないと思いました。
ゲームの実力は十分だけどプロのなり方が分からない。そう思った私は当時日本ではまだ数の少ないプロゲーマーを目指すことが出来る専門学校東京クールジャパンに入学し学びました。
授業はほぼ全てゲームを遊ぶものでしたが、この時「好きが仕事になると義務感が生まれて好きで無くなる」と言う自分の性格に気が付き、プロゲーマーを半分諦めて大会運営などのサポート側を学ぶ専攻に移動しました。
小学生の頃趣味で行っていた動画編集も学び直し、ゲームを実況する事はゲームをプレイする事とは別である為ゲーム自体を嫌いにはならず、今後の活動にも活かせる勉強をしていると思います。