ダウン症などの先天性異常を調べる出生前診断。
医師に告げられた診断結果は「陰性」。だが、出産した我が子はダウン症だった。
検査結果を主治医が見落としたのだった。
そして、我が子は、ダウン症に伴う数多くの合併症を併発し、苦しんだ挙句、3か月で逝ってしまった。
「検査結果を医師から正しく伝えられていればおそらく中絶していた」
母親は主治医を提訴した。
本書は、この実話を軸に、人の命を「選ぶ」ことの意味を問う。
ダウン症だと分かっていたら、中絶を選んだと思う、という母親の主張。
苦しむためだけに生まれてきた我が子に詫びてほしい…。
そもそも、今の日本では、「障害があること」を理由に堕胎することは許されていない。
母体の身体上の危険か、経済的な理由、のみが中絶の理由として許されることになっている。
だが、現実には、出生前診断でダウン症と診断されたケースの9割が中絶を選択する。現状は黙認されている。ルールはグレーのまま。
出生前診断―科学の進歩は福音か、それとも暴走なのか。
知らずに済んだことが分かる時代になるほど、人間の悩みは深まる。
「ダウン症を理由に中絶するのは、障がい者は生きる意味がないと言っているのと同じ。許されない。」
「そもそも、なぜダウン症だけが対象となるのか。差別につながる。」
「家庭状況や経済力を考えてダウン症の子どもを育てるのが無理と判断する人がいるなら、親の死後を思うと心配でならないという人がいるなら、中絶を認めるべき。」
人として、または論理的に「正しい」という解はない。人それぞれ、個人の選択だ。
そういう結論になりがちである。
その身になってみなければ、本当に「自分ごと」として感じられないのも、人間の限界。
当事者の方々もまた、中絶するか、裁判を起こすか、いずれも、断崖で、最後の”指一本“のところで選択をしている。選択できるということは残酷でもある。
こうした悩みに無縁で、“好調”な人生を送る人は、重苦しい話題を好まないこともある。
体験したこともない“他人”が語れば、炎上することもある。社会的批判をおそれて口をつぐむ人も多い。タブー視する向きもある。視聴率が取れなければメディアも進んで取り上げない現状。
だが、それで終わらせていいのか。答えのない課題としても、思考を諦めて、個人の価値観にゆだねるだけでいいのか。
考えることが重い課題、容易に社会の合意が得られそうにない課題から目を背けず、粘り強く、考え抜くことが必要なはずだ。答えは善悪の先にある。
同時に、この問題は、私たち全員に還ってくる課題でもある。
「意味のある生とは何か。」
普遍的な問いを自分なりに突き詰めておかないと、私たちがいずれ人生の幕を降ろすとき、自分の人生の意味は何だったのか、確信が持てなくなるかもしれない。
人生を振り返ったとき、経済的社会的に世俗的に成功すれば価値が大きくて、失業して貧困に喘いでいれば、その人生は価値が小さかった、と言うことになっていいのか。
あるいは、認知症になって、介護が必要になって、経済的に価値を生み出さない、むしろ社会や家族に負担を負わせる立場になったら、その生には価値がないということになるのか。
これらの問題はすべて同根である。
昨今、「生産性」という名のもとに、少ない労力で高い成果を出す人間、「健康寿命」が長く、社会や経済に貢献できる人間には価値がある、とみなす時代の流れが強くなっている。
だからこそ、もう一度、「生」の価値、意味合いをいったん考え尽くしておかなければならない。
私自身、色んな方策で、何年もかけて、我が子をようやく授かった。
だから、出生前診断はしようとは考えなかったし、仮にしても揺らぎはなかっただろう。
ただ、この本に出てくる当事者となったら、どう判断するか、判断しきれるか、断言はできない。
やはり、どんな生でも、肯定される、肯定したい日本でありたいと考える。
障がいでも、認知症でも、後顧の憂いなく、社会の中で過ごせる、その生に感謝できる、そういう日本にならなければ、私たちは時代に流されてしまうだろう。
障がいを負っても、周囲の人が、社会が、全力でサポートする、だから生きてほしい、生まれてきて「おめでとう」と言える環境をつくることが本筋だ。それをコストで考える発想に与してはならないだろう。
本当の意味で、選択できる環境を整えることが大事だ。
それこそが、少子高齢化で世界の先頭を走り、災害の中でも共生の範を世界に示すことのできる日本が、一歩一歩と創り上げていく新しい世の中の姿、文化となるはずだ。
深く、強く、胸を衝く著作だ。