馳物語 ~少年・青年期~

養子として

1961年(昭和36年) 5月 5日 富山県小矢部市の農家の三男として生まれる。

地元は石川県金沢なのにナゼ?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、実は、小学2年生の時に親戚の馳家より跡取りにと望まれ養子となり、以来地元金沢のために尽力しております。
生家はお世辞にも豊かとは言えなかったこともあり、当時の馳少年はおさな心に考えました。上に兄が2人いることから、このまま家にいてもパッとしない、、、跡取りではないため、家はおろか田んぼも分けてもらえないだろうと、幼いながら家族とご自身の将来を考え「家もあり、小さいけどもリンゴ畑もある」それをチャンスと捉え養子を決めたそうです。それからは小学校が終わると毎日リンゴ畑の手伝いをする日々、小学生にはもちろん大人でも重労働ですが、その後の馳少年の人生を大きく左右する体作りの基礎が知らず知らずのうちに出来ていったそうです。


学生時代

運動はというと、小学校から剣道を始め中学に上がった後も剣道部に所属していましたが、中学2年生の時、当時廃部となっていた相撲部の復活と共に電撃移籍。相撲部では格闘家の片鱗をみせていたそうです。高校へ進学後も相撲を続けたかったそうですが、当時進学先の高校には相撲部がなかったため、再度剣道部に入部しようと2Fの剣道場に向かう途中1Fでレスリング部の先輩達の勧誘を受け、「面白そうだな。ちょっとのぞいてみよう」と見学だけのつもりで行ったところ、その場で名前を書かされ、次の日から玄関まで馳先生を先輩が迎えに来るようになり、剣道部には行きづらくなってしまい、そのままレスリング部に入部したそうです。ちなみに高校はあの元メジャーリーガーの松井秀喜さんを排出した星稜高校です。実は野球部の名将山下監督からも「キャッチャーをやれ」と勧誘を受けた事があったそうです。しかしレスリングを選択した判断は正しく、高校三年で国体優勝。専修大学へ進学後はレスリング部の主将を勤め、社会人一年目の1984年ロサンゼルスオリンピックに日本代表として出場。大学で国語の教員資格を取得していた馳先生は母校の星稜高校で教鞭をとりながらオリンピック出場を果たしており、オリンピック出場は教員として大きな財産になるだろうと考えての出場だったそうです。