私は誰か?どこから来て、どこへ向かうのか?それはなぜか?

LAPでの学びを通してどうなりたいか?

あなたは誰ですか?

 私が誰なのか、どこから来て、どこへ向かうのか、それは何故か。わからない部分もた くさんある。しかし、それでも今の自分なりの最大限の考えを述べる『勇敢さ』と、この 問いを考え続ける『謙虚さ』を持ち続けたい。私は、尊敬する先輩が教えてくれたよう に、「謙虚かつ勇敢に」この問いと向き合おうと思う。
 私は、今のところ「凸凹が生き生きとする まち(社会)」を目指してカメの歩みを進め ている。私にとって凸凹は、苦しくて辛い存在だった。凸凹すなわち違いや個性は、学校 で仲間外れにされたり、下手したら劣っていると思われたりするものだった。しかし、高 校生の時に対話に出会って、凸凹は楽しくて素敵な存在に変わった。凸凹さ、多様さを否 定せずに、受け止めてくれる場所に出会えたのだ。対話は、ありのままの自分に頷いてく れる場所、自分を損なわない場所、私から大切な何かを奪っていかない場所だった。対話 の場では、違うということが苦しくなかった。居心地がいいとは、似たような人がたくさ んいるということじゃないのだと気づいた。対話の場では、私じゃない誰かがいてくれる ことに、たくさん感謝した。私だけじゃ辿り着けなかったような考え方を知れたし、一緒 に新しいアイディアを創れた。対話した人との差異から自分に気づけた。 私たちは、無理に凸凹を削って丸くなる必要なんてない。
 私たちは、凸凹だからこそパ ズルのピースのように補い合って、繋がって生きていけるのだ。「違うことは、苦しいこ と。」「違う人とは関わりたくない」そんな声がたくさん聞こえる。その思いもわかる。悪 いことだと全く思わない。けど、凸凹を削るのはもったいない気がする。違っても繋がっ て、一人じゃたどり着けないところに行けるということも知っておいてほしい。「ありが とう、私にはできないことをしてくれて。」こんな風に言って、言われる社会になったら いいな、と今日の私は考えている。
 私は、そんな社会を創るために、頭を悩ませながら社 会学分野を学び、まちづくりや対話、森林(環境)について考えている大学生である。 私は誰で、どこから来て、どこへ向かうのだろう。それに“気づく”ために旅をしてい るのかもしれない。私たちは、それぞれ違う、実に多様な存在だ。それならば、それぞれ 自分なりの答えがあるはずだ。それは言い換えれば、生まれつき自分の中に自分だけの答 えをもって生まれてくるということじゃないだろうか。答えを求めて、自分探しの旅に出 る。でも、きっと答えは自分の中にある。得るものでも、待つものでもない。答えは、気 づくものだ。しかし、このことに気づくためには、自分探しの旅に出なければいけないの だろう。 だから、私は旅に出る。


なぜLAPで学びたいのですか?

 「あなたは誰ですか?」で述べたように、他者と繋がり対話して自分なりの答えに気づきたいと思ってい る。なので、LAP のように様々な人と繋がり対話をしながら考えられるというプログラ ムに魅力を感じた。私は、他者と出会うことは自分と出会うということだと思っている。
 また、プログラムの名前にもなっている Liberal Arts というものにも、とても惹かれ た。私たちは、気づかないうちに「あたりまえ」という鎖に縛られている。自由を思い描 くことのできる選択肢の数だとするならば、自由に生きていると思っているようで、実は 不自由な洞窟の囚人だと思う。学び、鎖に気づかなければ自由になれない。自由になれな ければ、自分なりの答えを持つことはできないと思う。私は、LAP で学べば自由に考え られるようになれる、そのために努力ができると思った。
 そして、様々な分野に触れられるということも私にとって重要だった。多様かつ複雑な 世の中で生きるために必要だと思ったのもあるが、それだけではない。私は、即戦力や効 率を求められる世の中に疑問を持っていた。何かしようとするたびに、それは役に立つ の?と聞かれるたびにグッと喉に何かが詰まる感覚があった。純粋に色んなことを知りた いという気持ちや、面白そうだからやってみたいというシンプルな感動を大切にしたかっ た。役に立つかどうか、今の私の尺度で全ての物事の価値を決める恐れがあった。振り返 った時に気づく、かけがえのない時間もあると思う。
このような理由から、私は LAP で学びたいと考える。




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