6月29日の感想

629日の感想
若者ジャック
大西史恵(おおにし ふみえ)さん
 「癒しの保健室」を立ち上げられ、
また新卒採用の若者の支援にもお力を
注いでおられるとの事。

 今回は山近代表の鞄持ちの中から
素敵なお話しをご披露頂きました。
 山近代表は内定の決まった親子さんの所に自ら足を
運んでご挨拶されるとの事。そこに同行した方は
子供が巣立つ喜びと寂しさを感じいって涙する
事がお話しする事が苦手の中にも
豊かな感性が備わっている事が感じ
られ山近代表との関わりを通して
心がほぐれ言葉数が増えていく事を
微笑ましく思いました。

 秋田犬の大きな飾り物をみて屈託の
ない笑顔がとても印象的でした。
現在どうしておられるのか。
気になりました。^_^

 若者に体力をつける為の研修として
ただ歩かせるというもの。
 映画ベストキッドのように形や
答えのないものに素直な心で取り組む
事で自らの気づきで得心する価値は
とても大きなものだと思いました。
 
 心技体も大切ですが、何かもやもや
する時はプロゴルファーの青木 功
(あおき いさお)さんの言われる体技心でもいいと
思います。動く事でわかる事も沢山あると思います
ので悩むのではなく考える事を心がけて
いきたいですね。

 障がいを理由になかなか決まら
なかった。と言われて鹿児島知覧
(かごしまちらん)そして伊能忠敬(いのう ただたか)の
碑の前で歴史は覚えるものではなく現地に
行き想いに触れて五感で学び自分の
人生に活かしていくものと言われて
いたのがとても嬉しくなりました。

 歴史は後世に役に立つものとの
思いを持って先人達が残していった
もの。
 例えのちに真実と違うと分かった
としても日本を暮らしやすく豊かに
する為に後世に何が伝われば良い
のかに心を配る事が自分自身の
学びなると思いました。

 大西さんの癒しの感性で前を向き
素晴らしいご縁に恵まれる若者が
沢山おられる事でしょう。
ありがとうございました。

加藤将司(かとう しょうじ)さん
 100キロウォークで3人の
お子さんと関わる中で末っ子との
心を葛藤を心のコロコロストリー
をお話し頂きました。

 末っ子というのは私もそうですが
甘えん坊とか。泣き虫。根性がない。
とか。上と比べだとか。言われる
事が多々あると思います。苦笑。
 
  平成17年からのハガキ道で沢山の
ご縁を作られた中で100キロウォーク
に練習なしに参加した方が感動が
大きいとの助言を受けて29時間51分で加藤さんご自身は完歩されました。
 
 今回はコロナ対策との事で時間
確認地点での手当てや豚汁、おしるこ
などの提供がなく、自分と周りの参加者との触れ合いを力に変えての競技
参加となったとの事でした。

 手書きのスケッチブックで競技の
経過や心の葛藤をお話しされる雰囲気
がとてもわかりやすく、温かみを
感じられるのでとても嬉しく思って
いました。

「上の二人と比べない。」
「(自分で)根性なしとは思わない。」
「辞めてもいい。自分の気持ちを
尊重する」

世の中努力して目標を達成できる人は
どのくらいいるでしょうか?

間違いや挫折をしなかった人が
どれだけいるでしょうか? 
 

親や上司からでも半強制や嫌嫌聞いた耳にタコのできる言葉が後から一番の
有り難さを感じることや知らず知らずのうちの良い習慣になっている事を
実感する事は多々あります。

目標が達成できるから幸せなのでは
ありません。一生懸命取り組むから
周りのお陰様という幸せを感じる
事が出来、生き切る事ができるのだ。と思います。

 挫折をした時に自分を許し、周り
からの落胆や必要以上の励ましを
乗り越えて再度挑戦するのか。
別の道を選ぶのか。
 自分が納得する方を選びどちらも
正解だという事を知れば少しは
いろんな事に挑戦できるように
思いました。


 本当に100キロを完歩する自分の
決意も痛みや疲れという逃げ出したい気持ちとゴールしたい気持ちのせめぎ合いの中で周りの人は勿論、お天道様が背中を押してくれる事で新たな
経験として完歩する奇跡を経験する
事になると感じました。

最後の奇跡とも思えるような追い込み
は色んな葛藤を乗り越えきたご子息への贈り物だと思いました。

 日常は変わらずの甘えん坊にもどる
との事ですが、100キロウォーク完歩の経験は今後の自分を励ます大きな
力になる事と思います
完歩おめでとうございました。
お話し頂き有難うございました。

井上翔太郎(いのうえ しょうたろう)
さん
郷土山形の偉人「斎藤茂吉」(さいとう もきち)についてお話し頂き
ました。
 1882(明治15)年に山形県上山市
(やまがたけんかみやまし)に農家の
三男として生を受ける。
仏教信仰に篤く、養蚕(ようさん)
[絹糸の生産地]が盛んな土地で
自然の中で育ち宗教と書家の
素養が育まれた。

 15歳で医学を学ぶ為、同郷で後に
養父となる斎藤紀一(さいとう きいいち)を頼って上京した。

また一方で幸田露伴(こうだろはん)
で文学に興味をもち正岡子規(まさおか しき)の「竹の里歌」に衝撃を
受け伊藤左千夫の元に入門する

 1913年第一歌集「赤光」(しやっこう)
を発表。
1917年〜1921年命を受けて東京から
長崎へ移り精神科医として働く。
1921年第二歌集「あらたま」発表。
1921年〜1924年オーストリアのウィーンやドイツのミュンヘンに留学し
博士号を取得した。留学時に
学生のキスシーンを長時間見ていた
という青春の逸話が残っているのも
親しみやすい雰囲気を感じました。
実際にはかなり怪しい人物と思われても仕方がないかもしれませんが。
苦笑。

帰国の途に着くも養父の医院が全焼しこの後再建に尽力する。

1926年「アララギ」を編集

私生活において悲しみや落胆を
バネにするかの様に永井ふく子さん
との出会いを書いた「暁光」(ぎょうこう)を発表。

1927年柿本人麿(かきのもと 
ひとまろ)の研究において日本学士院賞を受賞。など精力的に活動した。

戦争の色が強くなるにつれて戦争詠
(せんそうえい)などの作品を世に
記した。

1945年4月郷里の山形県へ疎開
し蔵王(ざおう)や最上川(もがみがわ)の自然に触れ赴くままに歌を詠み
秀れた作品を多く残した。

1951年に文化勲章受賞
1952年には斎藤茂吉全集を発表
ようやく明るい日々を過ごせる
様になるも翌年1953年2月25日
東京新宿(とうきょうしんじゅく)
の自宅にて病歿。享年70歳

ご子息の斎藤茂太(しげた)さんは
モタさん愛称で癒しの言葉を
沢山残されていますし、萩原さん
に教えて頂いて次男が「ドクトルまんぼう」シリーズの作者北杜夫
(きた もりお)さんだった事は
嬉しい驚きでした。
有難うございました。

365人の日本道
蓮 徳香(はす のりか)さん
 「性」男女がむつみ合い産まれる
命をどんな形であっても大切に慈しみ
育む事に心を寄せていた日本人。

昨今の社会的性別の問題や
性同一性障害の問題について
海外よりも遅れていると言われて
いますが。

先人の知恵、文学そして風習などを
紐解いてみると性に対しておおらかで
傷つけない性への教訓を伝えて
いるものが多い事が分かります。

人の間の始まりである世の中は
男女という理解出来ぬもの同士が
心を寄せ合い補い合う事で創られる
ものだと教えて頂きました。
有難うございました。

















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