幸福などというもの

 私たちはなぜ生きているのだろうか?生きる意味・目的は?
 20歳前後の血気盛んな私は、一方で腹をいっぱいにすることもできず、ただ一方で心をいっぱいにするかもしれない問いについて試行錯誤する。生きる目的は?と聞かれたらまあ大抵の人は幸せになることと答える気がする。幸福でないことは嫌だし、できれば幸福でありたいという感じがする。
 ではその幸福に至るルートはどんなものがあるのか?一つに現状を認める・現状をありがたがるというのがある。手元にないもの、例えばそれはお金であったり、友人であったり、恋人であったり、そうしたものを数えるのではなく、今自分の置かれた状況は稀有であり、貴重であると解釈を変えていくというやり方だ。だが人生に対するこうした態度は一方で、何も変わらないことを良しとする態度と密に関わっているように思う。そもそも人間の本能として安定しているならそのまま特に変化せずに生きていきたいと思うものだ。一方で人類が築いてきた文明は、安定というにはほど遠く、否応なしに変化を生み出し変化に適応してきたことを物語っている。現状維持は後退という既に使い古されたような言葉がここにきて意味を持ってくる。だから今を全肯定する態度というのは長期的に見ると結局のところ時代に取り残されることを促し、時代に取り残された人間は人間関係やお金といった資産を手元に残すことが困難になるように思える。よって、今が幸せであるという態度を貫くことを目指すならば、すべてを失ったことを受け入れられるくらいの解釈力を磨くべきだとさえ思う。 
 私なりの幸福に至るルートについて書こうか。私にとって幸福とは状態である。水が沸点に達したときにポワーっと蒸発するようなそういう状態である。ひとつ前の段落に書いたような態度は、水を沸騰させるためにアルコールランプを持ってくるような無理やりたきつけて、幸せですと自分で主張しなければならないよな主体的な営みであって、私はあくまで、私がふと幸せだなと思えるような、そんな受動的な営みの中にこそ静かな幸せを感じられると思う。
 未来は何が起こるかわからない。全く未知である。未来を不安で埋めたなら、予測できないことによって傷つかないように、未来の自分に期待せず、安定した行動を選択し、手元にあるものに幸せだなーと言って生きていくのかもしれない。一方で未来は何が起こるかわからないからこそ面白い、予測できない出来事には深い意味があるのだと確信して、傷つくことを受け入れながら生きていくこともできる。前者には諦めて仕方なく認めるハードルを下げた満足が待っていて、後者にはヴィクトールフランクルがいうところの「それでも人生にイエスという」の真髄が隠れている。私にとっての幸せとは後者の生き方を選択し、ふとしたときに静かに、だが確かに感じるものなのである。  小林

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