感性を磨くもの

 芸術と一口に言っても色々あって、絵画、彫刻、映像、文章、ダンスなどなど、手段には色々あるのだが、表現方法といったことにはさして口出しする気はなく、ただ芸術的な何かを創作するにあたっては結局どれだけ美しいものを見てきたかに終始しまうのではないかと思われるのだ。例えば田舎で育った私は自然の美しさを感得することに関しては都会の坊ちゃんより長けているのだろうとは思われるが、それは人生を賭けた大きな作品を作る上では瑣末な差であって、結局のところ小さい頃から美しいものを見るように、汚いものをできるだけ見ないように生き育てられた人間には敵わないのではないかと諦観を抱いてしまう。例えばそれは100坪の家にギャラリーがあって、まさに芸術作品と言われるようなものを大量にinputした場合には、彼/彼女の見る世界には美しいものが際立って見えるであろうし、汚いものは知りさえもしないことだってある。この世のものとは思えないおぞましい芸術を生み出す人間だって、それは美しいものを見た結果から逆照射した結果としての汚さだったりする。
 これは見たものと思考の関係性を指摘しているが、言葉と思考の関係性についてもまた同様に考えられる。大概の新生児はパパやママと言った言葉をはじめに教えこまれ、極小の社会へと放り投げられる。しかしふと思う。はじめて話す言葉が「綺麗」であったなら、どう育っていくのか。もちろん綺麗という抽象概念は具体的な名詞と結びつけて初めて機能するものであり、具体物のイメージが脳内にない幼児にはその概念を理解するのは困難に思われるが、しかしこれから構築されていく彼/彼女の世界には綺麗なもので満たされていくのではないかと思うのだ。
 そしてある程度歳を重ね、自身の世界観を自身の芸術(表現方法は問わない)で表せるようになったとき、職業としてではなく、一人の芸術人であるわたしやあなたの世界観が相対化され、自身がこれまで見てきたものが美しかったのか、はたまた汚かったのか浮き彫りになる。
 そうした世界観、感性ともいうべきものを歳を重ねても養っていくために、わたしは読書をし、人と話し、旅をし、言語を学ぶ。4つに共通しているのはそこに他者の視点、世界観、感性、思考体系が存在することだ。そうしたものを吸収することは単純に知識的に知っているという次元にとどまらず、より根本的に自らの中に異なる価値観を同居させることになる。
 乳幼児の成長速度は著しい。それはタブラ・ラサを懸命に埋めようとすべてを吸収しているようにも思える。しかし私たちはある段階から見たもの聞いたものに慣れ始める。子供の頃に思った分からなさと同じ感慨をもって世界を見つめられなくなる。一方で、昔にできなかった他者の生に思いを馳せ、自身の生を省みることが、今になってできるようになっていることに気付く。何も知らずこの世界に産み落とされた赤子が当たり前のように懸命に自分を形作っていくのと同様に、私は本を読み、人と話し、旅をし、言葉を学ぶことで青年期を超えて懸命に自分を形作っていくわけである。
 そうすることで、いやそうすることでしか、生まれてから美しいものを体験してきた根っからの芸術人に対抗することが、初めて可能になる。
 これは芸術、artの世界の話に限定しているが、おおよそ人間の深みみたいなものも同じことが言えるのだと思う。                        小林

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