言語化

言語化が上手ですねとよく言われるので、言語化が得意という状態を言語化しようという試みである。※言語化=「感覚を理論的に理解し、相手に分かるようにアウトプットすること」(weblio)。また言語化力というのは外に見える形で思考力をアウトプットした表裏一体のものであり、思考力から言語化力というものについて言及したい。
  • 私の思考力を鍛えたフレームワーク
普段使っている思考のフレームワークが私の言語化力を鍛えているだろう。 まず一つ目に、具体化と抽象化による共通点と相違点の分析である。簡単な例で言えば、リンゴとミカンは果物という点で共通しており、リンゴと共産主義は赤いという点で共通している。ミカンと共産主義はどう違うのか…と考えていく。これをそのまま人と人の意見、感情、思想についても行なっていく。この人とあの人の考え方は何が同じで何が違うのか。この人と自分は何が同じで何が違うのか、とやっていく。 二つ目に何事も疑いあらゆる可能性について考えてみるというやり方である。例えばそれは自身の感じていることに向く。例えば、そりが合わない人との会話でなんとなく居心地が悪いとしよう。次にはその心地が悪いというのはなぜだろうかと考える。話し方なのか、匂いなのか、距離感なのか、自分が興味のない話をしているのかなど色々な可能性が浮かんでくる。そして一つ一つ検証していく。心地悪さは何に起因しているのか、そもそも心地悪いというのも気のせいなんじゃないか、洗濯物を取り込み忘れて心が落ち着かないだけかもしれないなんてことも。そうやってああでもないこうでもないと自分の感覚を疑っていくと考えは尽きない。これを例えば周囲に向けてみると、例えば、大学生のうちは遊んでおいた方がいいという人がいたときに、でも大学生のうちにハードワークをしておけば大人になってもある程度お金や時間に余裕を持って遊んだりできるんじゃないかとか、そもそも大人になって自由な時間が取れなくなる日本の社会構造そのものに問題があるんじゃないかとか、大学を遊ぶ時間と捉えるのはアカデミアの場にふさわしくないのではないかとか思いつく。このように自身の意見や社会通念に一旦疑いの目を向けてみるのは面白い。
 三つ目に弁証法を使うというやり方である。ジンテーゼ(正の命題)にアンチテーゼ(反の命題)をぶつけてジンテーゼ(合の命題)を生み出すというあれである。先ほどの大学生は遊んでおけの例で言えば、ジンテーゼとして「学生のうちに遊んでおくのがいい」のではなく、「めいいっぱい遊べるような友人は大人になっては作りにくい」であったり、「社会に出ると抱えるものが多くなり責任が大きくなる」であったり、「単純に体力がなくなる」というところに行き着く。これは二つ目とかなり近いが、二つ目が可能性の範疇でまた新たな可能性を生みうるのに対し、三つ目は一つの命題としてある程度効力を持つ点で異なると言える。
  • 言語化力を鍛えるマインドセット 
 言語化力を鍛えるために、辛抱強さは重要である。大抵の場合、少し考えた位では的確な言葉というのは出てくるはずはなく、じっくりと考え続けなければならない。それは例えば、水中に深く潜っていくようなもので徐々に苦しくなってくるが、毎度自身の限界を少し越えられるようにじっくりと考えるのである。その結果として肺活量が多くなり、辛抱強く思考し、適切な言葉を選べるようになる。それはまたデッサンのようなのとも言える。事象を適切に描けるように何本も何本も線を引いていく。ああでもないこうでもないと。そしてやっとの思いで一本に線を決め、これだと思う言葉を発しても、全体としては不恰好であるという場合もしばしばある。そうしたらまた言葉を探しにいくのだ。いずれにせよ、自分の感覚に沿った言葉が出ないという状態に耐え続けることなくして言語化力の獲得はありえない。
  • 言語化力と思考力の間の落とし穴
 言語化力と思考力は表裏一体だとして話を進めてきたが、思考というのはそれだけでは形を持たないものであって、言葉で輪郭を与えて初めて認識することができる。それは言葉を話すことにとどまらず、頭の中で思考するにも我々は言葉を使って思考している。
 言語化力と思考力は互いに影響し合うものであって、シナジー効果を生み出し、両輪で我々の知性を磨くものである。反対に言えば落とし穴にはまり、一方が磨かれなければアナジー効果(負の相乗効果)によってなしくずし的に駄目になってしまうものでもある。
 言語化を妨げる落とし穴の一つは万能語に頼ることである。例えば、ヤバいという言葉は万能で、すごいとかひどいとか色々な意味を含む。これを日本語の奥ゆかしさというのは詭弁に過ぎず、日常のコミュニケーションにおいて、その場のノリが優先された結果の産物だとしても、言語化力を鍛えるのであれば避けなければならない態度である。言語化をあくなきまで探求するという活動は、それそのまま言葉を大切に丁寧に扱うということであり、うまく言い表せない自分の鍛え方不足で安易な語彙に逃げるというのはそのまま言葉に対する不誠実として揶揄されても仕方がない。だからたとえ拙くても、「すごい」とか「やばい」とは距離を置くことをお勧め​する。                小林
 


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