ミシェルオバマは、1964年1月17日に、アメリカのイリノイ州シカゴで生まれ育ったアメリカ合衆国の法律家、また元大統領夫人、ファーストレディーです。
シカゴ市水道局職員で民主党の選挙区幹事である父とシュピーゲル・カタログ・ストア社の秘書である母の間に誕生しました。彼女の家系は南北戦争以前のアメリカ南部に住んでいたアフリカ系アメリカ人であり、彼女の父方の高祖父はサウスカロライナ州の黒人奴隷でした。ロビンソン家ではオートミールが主に食され、一緒にボードゲームをしたり、読書をすることが一家の楽しみだったようです。シカゴの黒人貧民街であるサウス・ショア区で、労働者階級の娘として生まれ育った彼女ですが、家族に愛され、教育熱心な家庭で生まれ育った彼女と2歳年上の兄のクレイグは、2年の飛び級をしました。6年までにミシェルはブライアン・マウア小学校の優秀クラスに在籍し、その後シカゴで最初のマグネット・ハイスクールであるホイットニー・ヤング・ハイスクールに在籍し、4年間成績優秀者として、飛び級クラスに在籍するほど成績優秀で努力家だったようです。それ以外にも、全国優等生協会のメンバーでもあり、学生会議の会計を務めていました。
先ほど言った、マグネット・スクールとは、アメリカ合衆国発祥の公立学校の一種です。魅力的な特別カリキュラムを持つため、郡や市、学区あるいは周辺地域に至るまでの広範囲から、子供たちを磁石(マグネット)のように引き付ける学校という意味で命名されたので、マグネットスクールといいます。発祥地アメリカにおけるこのマグネットスクールの『目的』は、発祥当時も現在も存在している児童・生徒の人種均等化、人種のドーナツ化による児童生徒の人種偏り防止です。
住む地域によって人種が偏り、教育の質が変わってしまう地理的人種差別を防止し、有能な人が人種に関わらず十分な教育を受けることができるように作られました。
そのマグネットスクールであるホイットニーヤングハイスクールを卒業した後、努力家だった彼女は見事名門プリンストン大学に入学し、社会学を専攻しました。そして彼女はそこで、周囲の学生のほとんどが白人男性。教室の中では自分がたった1人の黒人という経験をし、自分がマイノリティであることを初めて強く自覚したそうです。大学では、フランス語の教育方法論はもっと会話重視的なものであるべきだという彼女の考えから、教育方法の研究に取り組みました。卒業論文は、「プリンストンにおける教育を受けた黒人と黒人コミュニティ」という題目のものを書き、黒人という自分のアイデンティティについて興味を持ち、研究したようです。白人男性が多いという環境に身を置き、また身近な人々の人種差別経験を目の当たりにしていたからこそ、彼女は人種差別や人種的マイノリティについて調べより意欲的に取り組んだのではないかと思われます。
マグネットスクールという比較的人種差別や人種的マイノリティになる機会が少ない学校に通ってはいましたが、やはり小さい頃から人種差別を目の当たりすることはよくありました。その中でも、近しい兄の人種差別経験というのは彼女をとても悲しませました。彼女の兄であるクレイグさんはある日、自身の所有物である自転車を「盗んだ」容疑にかけられ、2人の黒人警官に呼び止められたそうです。彼らはクレイグさんの自転車を強く掴んで離さず、クレイグさんを次から次へと質問攻めをされました。クレイグさんは「何かの間違いです」「これは僕の自転車で、盗んだものではありません」と何度も訴えたのですが、一向に信じてもらえず、そのことで「本当に心が折れてしまった」「警察は僕達の味方で、真実を語れば信じてくれる、そう教えられて育っただけに、本当におぞましい体験だった」と当時を振り返って話されていました。それでもクレイグさんは最後まで屈せず、「それなら僕を家まで連れて行ってください。この自転車が自分のものであることを証明しますから」と警官に伝え、母マリアンさんの待つ自宅に戻ったそうです。このような人種差別による経験が、将来のマイノリティに対する活動に繋がったのではないかと思われます。
その後、ハーバードロースクールに進学し、法務博士号を取得しました。彼女は在学中に、マイノリティに属する教授の雇用を求める政治デモに参加したこともあるようです。
プリンストン大学とハーバード大学法科大学院で学んだ後、成績優秀だった彼女は、米国を拠点とする会社法専門の法律事務所としては6番目に大手のシドリー・オースティン法律事務所に就職し、地元シカゴで企業法務弁護士として働きました。そしてその法律事務所で、将来夫で第44代大統領にも選ばれたバラクオバマと出会い、のちに結婚する事になります。彼女が就職した翌年から、夏期学生インターンとして事務所に来たのが、当時ハーバード大学に在学中のバラクオバマでした。彼女は彼のメンター、指導役を務める先輩だったのですが、初日に早速遅刻した未来の夫であるバラクオバマの第一印象は最悪だったそうです。ですが、社会を変えたいという大きな理想を持つ彼に惹かれ、人生をともに歩むことを決意しました。初め彼がミシェルをデートに誘ったとき、彼女は2人がデートをするのは不適切だと考え、断ったそうです。そこでバラクが食い下がると、ミシェルは兄のクレイグ・ロビンソンに、バラクとバスケットボールの試合をするよう頼みました。後に兄がスレート誌 に語ったところによると、それはバラクが良いバスケットプレーヤーかどうかを見るためではなく「ミシェルが父や私から、バスケットのプレーを見ればその人間について多くのことが分かると聞かされて育ったからだ」と話されています。ミシェルの兄ロビンソンは「バスケットボールによる評価では、バラクの性格に問題」は見つからなかったとミシェルに報告しました。そしてその兄によるバスケット審査の後、バラクオバマがアイスクリーム屋に誘ってようやく実現したデートをきっかけに2人は交際を開始し、1992年に結婚する事になります。
二人三脚で家庭を築き、バリバリ働いていたミシェルは夫よりも高収入だった時期もあったのですが、社会の役に立ちたい、社会貢献をしたいという強い思いから、1993年に長年働いた法律事務所を辞めて、シカゴ市長の補佐や全米規模の社会奉仕プログラム「パブリック・アライズ」シカゴ支部事務局長などを務めました。彼女は自らの転身の理由について「自分の人生だけではなく、周囲の人たちの人生も豊かにする力があると、若い人たちに気付かせることほどやりがいのある仕事は他にあまりない」と述べています。
その後、1998年に長女、2001年に次女が誕生しましたが、この子供を授かるということはミシェルにとって簡単なことではありませんでした。今回のリーディングアサインメントであるマイストーリー でも語られていましたが、ミシェルは不妊症を患っていました。不妊治療を行なってようやく授かった子供を、数週間後に流産してしまいました。そんな辛い過去を抱えていたミシェルですが、不妊治療の辛さ、自分の体の状態などを夫のバラクオバマに詳細に相談し話し合い辛いことや話しにくいことをシェアすることで、より2人の仲を深めて行きました。
2人の子供を授かった数年後、バラクオバマは大統領選挙に出馬する事になりました。
ミシェルは、オバマ氏が大統領選に出馬する際スタッフに予備選・本選に勝てる根拠や資金についてデータを求め、納得するまで承認しなかったそうです。また教育に力を入れているミシェルは、2008年アメリカ合衆国大統領選挙期間中に、夫に対し二人の娘のために「一晩中家に帰らないのは週に一日のみ、選挙運動は一週間に二日のみで、二日目の夜には家に帰るという約束」をさせたそうです。
その後、見事にバラクオバマが大統領として選ばれ、ミシェルは大統領夫人、ファーストレディとなりました。
なるほど。知らなかった。