小説 『幻想アリス』

学内コンクールのinitiationに出した作品です。
有名な童話である『不思議の国のアリス』を元に執筆しました。このお話の設定を考えたのは中学生の頃で、掃除をしていたらそれが出てきたためちゃんとした形に起こしてみました。
15000字ほど(ページで言うと恐らく38くらい)ありますので、お時間のある時に是非。



 昔から、本を読むのは好きだった。色んな世界観があって、登場人物はみんな魅力的で。いつも時間を忘れるように没入した。
 今回もそうだ。途中で邪魔されたくないからと、途中のコンビニでおにぎりやお菓子を買って、いつも通り川辺にある大きな木の下に来た。喧騒が遠くに感じられるような落ち着く場所でとても気に入っていたのだけれど……まさかそれが仇になろうとは。
「やぁ、アリス」
 そう言って、不思議な恰好をした男の人はふわりと微笑んだ。
「あ、アリス?」
 突然話しかけられたことに加え、よく分からない内容に戸惑っていると、その人は近くに寄ってきて目線を合わせるように屈む。
「久しぶりだね、僕のこと憶えてる?」
「憶え、てる?」
 記憶にある限りでは、こんな知り合いはいなかったような気がする。それとも妙にクオリティの高いコスプレで分からないだけだろうか。
 デザインの凝った緑のジャケットに、首に下がるのは細かい装飾の施された懐中時計というテーマパークを彷彿とさせる恰好。それだけならまだ、恐らくそこまで気にならなかった。ただやっぱり……うさ耳が付いているとなると話が変わってくる。一気に場違い感が出るというか、寧ろ怪しくも見えるというか。
 不審者、だろうか。その可能性は無きにしも非ずだけれど、こんなにも目立つ格好をするもの? それとも最近テレビで見るような、わざと派手な恰好をした誘拐犯か。
 どうしよう。逃げる、大声を出す……どうするのが正解だろう。
「アリス? 大丈夫?」
 ウサギの人は心配そうに顔を覗き込んでくる。私を気遣うような、本当に心配する表情だった。
 それだけなのに、何故だか悪い人ではない気がして。とりあえず話してみることにする。
「あの、申し訳ないのですが、私アリスじゃないです。多分人違いだと思います」
「えっ、な、なぁにその敬語。アリスだよ、間違ってないよ~⁉」
 あわあわしながら訴えられるけれど、本当に誰だか分からない。それより、今。
「み、耳が曲がった……?」
 今まで立っていたうさ耳が、へなっと一人でに曲がった。なんだか生きているようなそれが少し怖くて、警戒心が増す。
「そりゃあ曲がるよー」
 何言ってるの、と言わんばかりに笑われても、そんなにリアルな動きをするうさ耳なんて知らないんだもの。
「と、とにかくアリスじゃないの。私は鈴木遥(すずきはるか)、あだ名でもアリスとは呼ばれたことはないです」
「でもアリスだよ?」
「ん? アリスって何かの別名なんですか?」
「アリスはアリスだよ」
 驚くほど話が通じない。本当にどうすればいいのだろう。
「それより敬語やめてよ~。他人行儀で泣いちゃいそう」
 口調は冗談めかしていたものの、隠しきれていない寂しさを含んだ笑顔に何故だか罪悪感が募った。
 年上に見えるけれど、良いというのなら良いのかもしれない。
「というか、本当に僕のこと憶えてないの?」
「そうね……存じ上げないかも」
「あ、そっか、この姿だからか」
 突然ぽふっと風が来て、つい目を閉じる。次の瞬間目に入ったのは、一メートルも無いほどの二足で立つ本物の白いウサギだった。
「これなら分かる?」
「…………分からないわ」
「分からないの⁉」
 しゅーんと落ち込む様子は非常に可愛いのだけれど、更に混乱してしまう。だって、人間がウサギになるなんて、どう考えても有り得ない。どういう原理なのだろう。二足で立っているのも、喋っているのも普通に考えておかしい。私は夢でも見ているの?
「待って、ごめんなさい、本当に分からない。あなたは誰? 一から説明して」
 いい加減訳が分からなくなってきて、まくし立てるように言う。するとウサギさんはもう一度人型になってから、何故か正座をする。
「分かった、説明するね。僕は白ウサギ。本当はさっきの姿なんだけど、君といるときは人間の姿が多いかな」
「どうして?」
「君が小さい頃、動物が喋るのは怖いって言ってたから」
 つまり、子供の時にこの人に会ったことがあるということ?
「前に会った時も、ウサギのお兄さんって感じだったの?」
「違うよ、前はもっと幼い感じだった。小さい子にとってこんなに背が高かったら怖いでしょ?」
「それじゃあどっちみち初見で分かるわけがないわよ」
「だ、だって猫が、アリスはカッコいい……あ、あいどる? が好きだって前話してたから、そんな感じが良いんじゃないかって言ってたんだもん」
 その詳しい猫は何なのかと突っ込もうとして、一つ頭に浮かぶ。
 これは、不思議の国のアリスに近い気がする。白ウサギも猫もいた気がするし、何よりアリスという呼び方がそうだ。
 もしかして、本当に夢なのだろうか。でもそう考えれば、突飛な現状も説明ができる気がする。
「一体、私に何の用なの?」
「えへへ、あのね、みんな君に会いたがってるんだ。だから久しぶりに僕達の世界に来ないかなぁと思って」
 それでね、と明るく言った次の瞬間には、彼は真剣な目をしていて。
「君を助けたいんだ」
 透き通った赤い目が、こちらを射抜く。それに気圧されながらも、なんとか言葉を返す。
「わ、私は別に困ってないわ」
「困ってるよ! ……多分」
「え?」
「こ、困ってるって顔してるもん。ね? だから行こうよ~!」
 先の言葉を考えていなかったのか、そんな大雑把な言葉に拍子抜けしてしまう。ただ、彼がすぐにさっきまでの表情の豊かさを取り戻したことにほっとした。
 アリス~! とまるで駄々っ子のように体を揺すられる。そんなおよそ年上とは思えない行動に呆れてきて、つい頷いた。
「分かった、分かったから。行くわ」
「ほんと⁉ ありがとうアリス~!」
 きらきらした嬉しそうな笑みを向けられ、なんだか一瞬泣きそうになってしまった。
「じゃあ早速行こう、穴を開けるね」
 その言葉に疑問を持った時、地響きも何もなく……ぱっと大きな穴が現れた。思わず足がすくみそうなほどに深く、底が見えない。
「ぴょーいって飛び降りるだけだから大丈夫だよ」
 白ウサギさんは笑顔で言うけれど、そんなぴょーいなんていうテンションで飛び込める穴ではない。
 思わず息を呑んだ。飛び降りたら、死ぬだろうか。下が見える場所と、見えない暗闇では……どちらの方が怖いだろう。
 そうぼんやりと考えていると、僅かに頭の痛みを感じ、目の前がくらむ。そして半ば倒れ込むように穴に落ちた。
 
   *   *   *
 
 ふっと目が覚めて、体を起こす。
 ここは、どこだろう。まるで地下洞窟のような場所ではあるものの、壁一面の本やおしゃれなテーブル、空間全体を照らす明るいランプで、不思議と怖さはない。
 穴の底だろうか。気絶してしまったみたいだけれど、生きているし怪我もない。もしかしたら白ウサギさんが助けてくれたのかもしれない。
 そう思い、辺りを見回してみたものの……彼らしき姿はどこにもなかった。
「えっ、白ウサギさん? ちょっと⁉」
 あのウサギどこに行ったの? 置いて行かれたのだろうか。
 あんなに熱心に頼んでくるものだから案内してくれると思っていたのに、急に独りにされたら不安になる。ここがどこかもどう進めばいいかも分からないのに。
 十五分くらいは部屋の中を見て回ったり本を読んだりして待っていたものの、戻ってくる気配はなく。そろそろしびれが切れそうというか、待ち飽きてきた。
「……行くか」
 このままいつ帰ってくるか分からない人を待っているより、その方がいい。本当にアリスの世界だというのなら他にも登場人物はいるはずだし、白ウサギさんが言っていたように私に会いたがっている人達がいる可能性もある。
 ドアノブに手をかける。鍵が閉まっていたらと思ったけれど、ノブはすんなりと回った。
 ドアの先には薄暗い森が広がっていた。枯れたくねくねと曲がっている木に、紫や黒の葉を付けた木もある。根っこの部分には赤や黄色のキノコが生えていて、食べてはならないと主張するような模様を持っている。
 怪しく、不気味な雰囲気。意気込んだはいいけれど、一人で歩くのかと思うと身震いがした。
 辺りを見回して最大限警戒をしながら歩く。すると突然、ガシャン! と音がしてつい変な悲鳴が出た。更に恐怖が増した時、
「ごめーん!」
 聞こえてきたのは呑気な謝罪の声。誰かがいることが嬉しくて、走ってその方向へ向かう。
 そっと木陰から覗いてみると、いたのはぼろぼろになったチョッキを羽織る二足歩行のウサギと、明らかにサイズの合っていない大きな帽子をかぶった七歳くらいの男の子、でろーんと溶けたように平べったくなって眠るネズミだった。お茶会でもしているのか、テーブルにはティーセットやスイーツが乗っている。
 話しかけてみようかな。
「こんにちは……」
 木陰から出て、恐る恐る声をかけてみる。すると森に響き渡るほどの大きな声が上がった。
「えっ、あ、アリス⁉」
 その一言で、やっぱり私は彼らにとってのアリスなのだと改めて認識する。
 目の前のウサギさんは、白ウサギさんと同じようにぽふっと人間の姿になると、慌てて駆け寄ってくる。
「な、何でここにいるんだよ⁉」
「えっ、駄目なの?」
 つい突っ込んだ。だって、会いたいって言ってくれていたのでは。
 まさか責められるとは思っておらず僅かに傷ついていると、違うけど! と抱き着かれた。
「駄目じゃない、めちゃくちゃ会いたかったよ! 久しぶり、アリス!」
 何故か耳もぼろぼろでツタが絡まっているのが気になるけれど、ぴょこぴょこと嬉しそうに動いているのが可愛い。
 なんだか純粋な少年って感じがする。こんなにも真っ直ぐな好意を向けてくれるのに、全然憶えていないのが申し訳ないと思う。
「えっと、名前なんだっけ」
「忘れちゃったのか⁉ 酷いなぁ。三月ウサギだよ」
「そう、だったわね」
 本当に忘れてしまったと言ったら、傷つけてしまうだろう。心苦しいな。
「それで、何でここにいるんだ?」
「白ウサギさんに連れられて来たのよ」
「白ウサギが⁉」
 三月ウサギさんは、酷く驚いた反応を示した。予想外で思わずこっちも戸惑ってしまう。
「う、うん。私を助けたいとかよく分からないことも言っていたけど」
「そんなの嘘だよ! 今連れてくるなんて助けるどころかアリスを……!」
 と、そこまで言いかけて、彼ははっとしたように口をつぐむ。
「……ごめんアリス、何でもない」
 先が気になるけれど、そんなにしゅんとした顔をされたら問いただすこともできない。
 どういうこと、だろう。白ウサギさんの話は一体なんだったの? どっちの話を信じるのが正解?
「もしかして、白ウサギに脅されたのか?」
「い、いいえ、一応自分で選んで来たの。明るくて優しい笑顔だったし、大丈夫かなって」
 すると三月ウサギさんの首が九十度に曲がる。
「それ、本当に白ウサギなのか?」
「えっ? 白ウサギさんって白い毛、赤い目で緑のジャケットを着たウサギじゃないの?」
「うーん、確かにそうだけど……」
 彼は怪訝そうな顔をして。
「あいつ基本は無表情で、特に最近は笑ったところなんて見たことがないよ」
 その時、ずきっと頭の奥が痛んだ。落ちた時に打ったのかもしれないけれど、今はそれどころではないと必死に頭を回転させる。
 さっきから何、どういうことか分からない。騙されたということだろうか。白ウサギさんは表情豊かで、笑顔だってどう見ても偽りだとは思えなかったのに。
  自分でも分かるほどに混乱している。三月ウサギさんの反応も嘘には見えないためより一層、どちらが本当でどちらを信じればいいのか決められない。
 何故だか裏切られたような感覚に陥って、一気に不安になる。
「だめだよ、三月ウサギ。アリスに泣きそうな顔をさせちゃ」
 少し拙い声と共に走ってきたのは、大きな帽子を被り、スーツのようなきっちりとした服を着た男の子だった。目が合うと、にこーっと可愛らしい笑みを浮かべる。
「ねぇアリス、なぞなぞだよ」
 今? と言葉を挟む暇もなく、彼は続ける。
「ハートの女王のおしろがあります。それは東西南北どのばしょにあるでしょう?」
これは勘で答えるしかない気がする。
「え、えっと、西?」
「ぶー」
「じゃあ南」
「ぶぶー」
「東!」
「ぶっぶー」
 四分の三で外した。
「帽子屋のなぞなぞは毎度のごとく訳わからん」
 三月ウサギさんのその呟きで、男の子の呼び方を知る。
「じゃ、じゃあ北!」
「ざんねん」
「えっ? どこでもないじゃない」
「せいか~い!」
 どういうことだろうと考えていると、隣で三月ウサギさんが呆れたように息をついたのが分かった。
「こたえはどこでもない、だよ。だって自分がおしろに立っていたらどの方角でもないもんね」
 それはなぞなぞとして成り立っているのだろうか。でももしかしたら、泣きそうだったからと励ましてくれたのかもしれない。
「ふふ、なるほど。ありがとう」
「アリスは笑顔がいちばんだよ」
 思いきり抱き締めたくなってしまうような笑顔。うん、可愛い。
 ちょっとまってて、と帽子屋さんは走って戻っていく。そして再度こちらに駆け寄って来た時には、その手に爆睡しているネズミが乗っていた。
「ねむりネズミが何か言ってるよ」
 眠りネズミさんはぽふっと人間の姿になると、ゆっくりと目を開けた。
 この子は人間になっても小さいようで、三十センチくらいしかない。ブラウスのような服も丈が余ってだぼだぼだ。
 ただそれでも帽子屋さんにとっては軽くないようで。目線が近くなるようにだろうか、腕を震えさせながら眠りネズミさんを掲げている。そのためそっと受け取って抱き上げた。
「あ……りす……」
 今にも寝そうなとろんとした目と、途切れそうな声。
「迷子になった……なら……チェシャ猫に、会ってみて……。彼なら……白ウサギとの親交がある、から……何か…………」
 寝た。
「おぉい! 大事な話の途中に寝るなよ!」
 三月ウサギさんの全力の突っ込みを以てしても、眠りネズミさんが起きることはなかった。
「駄目だ、起きない。アリス、眠りネズミの言う通りチェシャ猫に会ってみて。犬猿の仲だけど、白ウサギと関わりがあるのも事実だし、何か知っているかもしれないし。知らなくても、彼は頭がいいから何か分かるかも」
「でもあまり姿を見せないんじゃないの?」
「だいじょうぶ、アリスなら会えるよ」
 そう笑ったのは帽子屋さん。
 確かに得策と言えばそうなのかもしれない。チェシャ猫は、恐らく白ウサギさんに私がアイドル好きだと言った猫。だとすれば、白ウサギさんが私を連れてくることを事前に知っていた可能性が高い。話を聞けば何か分かるかもしれない。
「分かった、会ってみるわ。チェシャ猫さんってどこにいるの?」
「この森のどこかだよ」
 範囲が広過ぎる。無理な気がしてきた。
 でも行くしかないのだ。ここにずっといるわけにもいかないのだから。
「じゃあ私行くわね。色々教えてくれてありがとう」
「気をつけてなー!」
「がんばってね」
 眠りネズミさんをそっとテーブルに置き、手を振ってその場を離れる。
 森を更に奥に進んで行くと、分かれ道が現れた。どっちに行けばいいのだろう。選択を間違えれば、落とし穴とか針に刺されるとかそんな危険なことがないといいけれど。
 考えたって仕方がないため、勘で左に行ってみる。それが合っているかも分からないまま、また分かれ道が現れる。次は右に。そして三回目の別れ道も右に、四回目を左に。
 景色が全く変わらないため、迷って出られなくなったらという不安を抱えながら先に進む。そして七回目の分かれ道に差し掛かった時だった。
 道が三つに分かれている。それを真っ直ぐ行こうとすると。
「残念。良い調子だったのに」
 今までに聞いたことのない低い声がして、驚いて辺りを見回す。けれど、どこにも声の主らしき姿がない。
 ふっと後ろを向いた時、男性が目の前に音もなく着地した。
「な、何⁉」
 紫の髪で、頭には尖った耳が付いている。まさか。
「チェシャ猫さん⁉」
「だったら何」
 その人は不愛想に返事をした。
 やっと会えた、良かった。迷ったかいがあったかもしれないと思うほどには嬉しい。
 彼はブラウスにズボンというシンプルな格好をしていた。ただ、むすっとしているというか、硬い表情なのが気になる。あまり詳しくは憶えていないけれど、チェシャ猫ってにやにやした猫じゃなかったっけ。
「残念ながらその道は右だ。その次が真ん中、左、右、右、左、右、真ん中の順」
「お、憶えられないよ! 出口まで連れて行って貰えないかしら」
「はぁ」
 歩き出す彼についていく。右、真ん中、左とくねくね歩いていると、ふと何かに躓いてしまう。危うくこけそうになり、息をついて目線を上げる。するとチェシャ猫さんがにやにやしながらこっちを見ていた。
「何もない所で躓くとかやば」
「い、いいじゃない!」
 にやにやってそっちのにやにや? なんだかこの猫さんはあまり性格がよろしくない気がする。
 無言で歩くのも気まずいため、本題を持ち出す。
「ねぇチェシャ猫さん、聞きたいことがあるの」
 すると目線だけを向けられる。
「白ウサギさんがどこにいるか知らない?」
「知ってる」
「えっ、どこ⁉」
 つい詰め寄れば、ぺしっと尻尾ではたかれた。近いってことだろうか。
「ハートの女王の城。あいつは女王の配下だから」
 それは初めて聞いた。だとしたら確かにいる可能性は高い。
 変化のない景色を右へ。一人じゃなくて良かったと心底思う。でも彼は声をかけてくれた時「良い調子だったのに」と言った。つまり最初から見ていたということだろうか。
 ふと、さっき三月ウサギさんに訊けなかったことを思い出し、チェシャ猫さんに訊いてみることに。
「もう一つ聞いてもいい?」
「内容による」
「さっき三月ウサギさん達に会って来たの。会いたかったとは言ってくれたけど、私が来たのを良く思っていないみたいだった。どういうことか分かる?」
「あいつらは、現実に向き合わせたくないから」
「現実って、どんな?」
 その返事は帰ってこなかった。言いたくないということだろうか。
「えっと……じゃあ、あなたは白ウサギさんに私がアイドル好きだって言った猫さんよね? つまり白ウサギさんと仲間ってこと?」
「まさか、あいつと組むわけがない。俺はただ、選ぶにしても入り口に立たないと始まらねぇから手を貸しただけ」
「選ぶ? 入口?」
 またしても答えは返ってこなかった。
 彼の的を得ないような、核心に触れないような話し方も相まって、余計に分からなくなってしまった気がする。
 つまり、三月ウサギさん達が現実に向き合わせたくない派なら、白ウサギさんは現実に向き合わせたい派ってこと? だから二人の言っていることが違うのだろうか。
 でも、言葉の向けられる先が私ということは……私に向き合わなければならない事実があるということ?
「う……」
 再び頭痛がする。さっきよりも痛い。
「どうした」
「ごめんなさい、ちょっと頭が痛くて。ここに来た時に打っちゃったのかも」
 返ってきたのは声に出さない「ふーん」だったけれど、向けられた目線が気になった。
 分かれ道の真ん中を進む。するとうっそうとしていた木々が開け、出口が見えた。ここからでも大きくて真っ赤なお城が見える。
「次はお前に質問だ」
 彼は立ち止まり、こっちに振り返った。ここに来る前に見た、白ウサギさんのような真っ直ぐな目線と合う。
「謎を解決する気満々のようだが、帰りたいとは思わないのか?」
「そりゃあ帰りたい気持ちはゼロじゃないわ。でもさっきから気になることばかりで、このまま帰ってももやもやするだけだもの。だからとりあえず行けるところまで行ってみようかなって」
「結果、知らない方が幸せな事実でも?」
「何とも言えないわね。だって知らなければ、知らない方が幸せだったとも言えないもの」
 チェシャ猫さんの目が、僅かに和らいだ気がした。
「まぁ、頑張れば」
 行ってみようとは思うけれど、確かハートの女王様って不思議の国のアリスで言う悪役だった気がする。白ウサギさんも悪役かもしれない今、そんなところに単身乗り込んでいくのは怖い。
「あの、一緒に行ってくれたり……しない、よね?」
「別にいいが」
「本当⁉ ありがとう!」
 さっき性格悪いなんて言ったことを取り消そう。とても良い猫さんだ。
 森を出て、お城に伸びる一本道を二人で歩く。近付くにつれお城の外観がよく見えてくると、つい声を上げてしまった。
 色は赤と黒でまとめられていて、至る所に可愛らしいハートの模様がついている。庭には赤いバラが沢山咲いていて、これこそ童話を象徴するような建物。
 童話やお姫様に憧れたことのある女の子なら、みんな感動するのではないだろうか。
 門の前に来ると、二メートルほどの大きなトランプが二枚立っていた。棒人間のような手も足もあり、槍が握られている。
「ここからはハートの女王様の領分、許可なく立ち入ることはできない」
ハートのトランプは女性のような高い声でそう言った。
「お尋ねしたいのですが、白ウサギさんはいらっしゃいますか?」
 機嫌を損ねない様にと恭しく尋ねれば、何故か槍を向けられる。
「お前、名は?」
 一瞬迷ってしまう。この世界の人達はみんな私のことをアリスだと思っているけれど、私にはまだその実感がない。本名を言っても伝わらない可能性が高いものの、この世界やみんなのことを少しも知らない私がアリスを名乗っていいのだろうか。
「アリス」
 答えたのは隣に立つチェシャ猫さんだった。するとトランプは曲がるほど大きく反応し……何故か後ろ手に拘束される。
「えっ⁉ ちょっと、何なの⁉」
「遅刻だ! 裁判が始まる、急げ!」
「裁判⁉ 私何かした覚えなんて」
 紙とはいえ抵抗できないほどに力が強く、雑に連行される。お城の中、大きく木でできた扉を開け、突き飛ばされるように中に入ると、そこはドラマで見るよりだいぶ派手な裁判所だった。
 黒で塗られた弁護席と、赤で塗られた検察席。西洋の建物にあるおしゃれな手すりを思わせるかのようなあれは証言台だろうか。そして高い位置、こちらを見下ろすような位置にあるのは恐らく裁判官席。裁判所というより、パーティー会場と言われた方が納得のいく装飾だ。
 全員が、揃っていた。
 検察側に立つのは、三月ウサギさん、帽子屋さん、眠りネズミさんの三人。傍聴席にはいつ移動したのか足を組んで悠々と座るチェシャ猫さんがいる。そして裁判官席にいるのは真っ赤なドレスを着て、長い髪をハートのアクセサリーでまとめたなんとも美しい女性だった。
 あの人がハートの女王様? とても綺麗な人だけれど、つい身震いをしてしまうほどにこちらを見下ろす目が冷めている。
 証言台に立つのは、ずっと追いかけてきた白ウサギさん。彼もまた、さっきまでの私と同じようにハートのトランプに拘束されている。
 これは、白ウサギさんの裁判なのだろうか。どうしてお茶会をしていた三人が検察側にいるの。どうして弁護側には誰もいないの?
「被告人、白ウサギに判決を下す」
 無機質な声で言ったのは、女王様。
「死刑」
「は……?」
 そう、意識もしていないのについ言葉が漏れた。
「よって、白ウサギの首を刎ねることとする」
 死刑? 首を刎ねる?
「どうして⁉」
 厳かな雰囲気の中、もう決まった結果の中、邪魔をすべきではないと、口を挟むべきではないと分かっている。でも声を出さずにはいられなかった。
 女王様の目線がこちらに向けられる。冷たかったその目が心底嬉しそうに、それでいて不気味に細められた。
「やっと会えたわね、アリス」
 すると白ウサギさんは弾かれたように振り返った。
「アリス! 駄目だ、逃げ」
「勝手な発言は即刻打ち首よ、白」
 女王様にそう制され、白ウサギさんは悔しそうに押し黙る。それを女王様は満足そうに見てから、こっちに可憐に微笑んで見せる。
「良いわ、理由を述べましょう。白はね、現実に向き合わせようとしたの。それは許されざる行為、そのため死刑なのよ」
「現実ってどんな現実なの?」
「これ以上は言えないわ、だってわたくしは貴女が大事ですもの」
 つまり、女王様も現実に向き合わせたくない派なのね。だから三月ウサギさん達が検察側にいるのか。
 女王様は木槌を二回鳴らした。
「さぁ白、覚悟を決めなさい」
 貴女が大事。言葉の先はやっぱり私に向けられている、つまり私に関係があるのだろう。
 みんな言葉の先を言ってくれない。それがじれったいと同時に腹立たしくなってくる。私が大事って何なのだろう。大事なら、ちゃんと向き合わせてほしい。私を、部外者にしないで欲しい。
「待って! そもそも向き合わせようとしたなんて、まだやってもいないことで死刑なんておかしいわ!」
「どうして白を庇うの? アリス」
「そうだよ」
 同意を示したのは帽子屋さんだった。
「アリスはこれ以上きずついちゃだめ、んむ」
「バカ! それを言っちゃダメなんだって!」
 一瞬くらっと視界が揺らいだ。同時に何度も感じた頭痛に襲われる。でも少しずつ痛みが強くなっている気がする。
 その時、すぐ隣をチェシャ猫さんが歩いていき、弁護側に立った。
「何のつもりかしら、猫」
「原告は被告人の刑に疑問をお持ちのようだ。お前らが本当に愛するアリスがそう望むなら、利益より真実を優先すべきじゃねぇの」
「勝手なことをしないで頂戴。首を刎ねるわよ」
「好きにすれば。出来るものなら」
 チェシャ猫さんはすーっと下半身を消した。なんだか女王様に見せつけるようで、彼女は苛立たし気に木槌を握りしめたのが分かった。
「アリス」
 名前を呼んだチェシャ猫さんはさっきと同じ真剣な顔をしていて。
「全てはお前の望むままに。お前は今、どうしたい?」
 どう、したい。
 裁判の内容を知りたい。知らなければならない気がする。そしてそれを知ることは向き合わなければならない現実に向き合うことになるのだろう。帽子屋さんの言っていた傷付くという言葉が気になるけれど、ずっと目を逸らしているわけにもいかないから。
 だって私が目を逸らすということは、白ウサギさんを見殺しにすることと同義。それで傷ついても、同じように後で後悔しても、それだけはしたくない。自分の意志だけは曲げたくない。
「私は、裁判の内容を知りたい。白ウサギさんに訊きたいこともいっぱいあるの。だから話を聞きたい」
 そう言えば、チェシャ猫さんは検察席に目を向けた。三月ウサギさんはぎこちなく、帽子屋さんはこくっと軽く頷く。
 手招きをされて私も弁護席に立つ。現実とは程遠いようなデザインと空間なのに、汗をかいてしまうほど緊張する。自分の一挙一動で、誰かの人生が変わる。それを改めて思い知った気がした。
「証言しろ、白ウサギ」
 チェシャ猫さんの言葉に、白ウサギさんは小さく頷く。ふと女王様に目を向ければさっきまでの苛立たしさは消え、底冷えするような失望した冷たい目で白ウサギさんを見ていた。私の目線に気付いたのか、女王様と目が合う。怖い、と思った。
「猫、絶対にアリスから離れないで」
 チェシャ猫さんが頷いたのを確認して、彼は話を始める。
「ごめんね、アリス」
 こちらを見る白ウサギさんの表情は、三月ウサギさんの言った通り初めに見た笑顔が嘘のように無表情だった。けれどその顔にはどこか既視感があって、胸の奥を掴まれる感覚がした。
「初めに言った言葉は嘘じゃない。僕は君を助けたかった。昔あんなにも愛して、大事にしてくれた恩返しがしたかったのに、結果的に君を危険な目に合わせてしまうなんて」
「何が危険なの?」
「女王は君を守りたいんじゃない。殺そうとしているんだよ」
 ガタっと派手な音を立てたのは、正面の席で酷く驚いた顔をした三月ウサギさんだった。
「どういうことだ……⁉」
「そのままの意味だよ。最近女王が荒れていたのは、アリスに異変があったから。そしてそれが女王にとって許しがたいものだったから」
「じゃあ尚更、お前はなんでアリスをここに連れて来たんだよ⁉」
「落ち着け」
 チェシャ猫さんが制する。
「知らなかったんだよ、まさか殺そうとしていたなんて。僕は女王にアリスと話して欲しかった。平和的解決ができるならそれがいいと思ったから。そしてそれを女王にも伝えたけど、否定されなかったしね。でもこの世界に戻ってきた時、トランプ達はアリスを敵意を持って捕らえようとしていた」
 気が付けば、チェシャ猫さんが私を庇うように立ってくれていた。白ウサギさんの話を聞きながら、私も精一杯周囲を警戒する。
「だからアリスをこのまま連れて行っちゃいけない、まずは自分で確かめた方が良いと思った。女王に詰め寄ってみれば殺すつもりだと言われて、裏切ってアリスを元の世界に返そうと思ったらそのまま捕らえられ、裁判にかけられるというこの状況になったんだ」
 だから一人置いて行かれる状況になったのか。
 すると三月ウサギさんが手を上げる。
「意義、というか質問。ちょっと矛盾してないか? お前が向き合わせたい派だったなら、なんでアリスと会った時点で言わなかったんだ。そこを伝えてないから、アリスは混乱したままここまで来てる」
「確かにそうだね。僕は初めに言い淀んでごまかした。久しぶりにアリスの顔を見たら、このままでいて欲しいって、傷つけたくないって思ってしまったから。変だよね、正しいことをしていると思っていたのに、傷つけようとしていると自覚してしまったんだよ」
 彼は彼なりに私のことを考えてくれていたのだろう。あんなに疑って、文句を言っていたのが申し訳なくなる。
 そっと、挙手をする。その手は無意識のうちに震えていた。
「そもそも、向き合わせたい現実って何なの……?」
 訊きたいと思った。だってこれが話の核となる部分なのに、私だけが分かっていないから。でも、何故だかどこかで知りたくないと思っている。知るのが、怖い。
 頭が痛い。さっきまで断続的な痛みだったのに、ここに来てそれが止まない。
「アリス、君は死のうとしたんだよ」
「……」
 あたまが、われる。
「あーあ」
 声を挟んだのは女王様だった。恐る恐る見上げてみれば、彼女は笑っていて。
「疑われないように、なんて裁判とか言いくるめるとか面倒なことをせずに、さっさと処刑しておけば良かったわ。トランプ、白を離して構わないわよ」
 彼女の言葉でトランプは拘束を解き、室内から出て行く。
「憶えていないのなら教えてあげましょう。ねぇ、アリス」
「な、何?」
「なんで学校に来られるのかマジ分かんないよね。友達だったんじゃないの? まさか、嫌でも一緒にいるしかなかっただけだし」
「……!」
 その、言葉。その何度も見た蔑むような目。
 やめて。その目をしないで。信じていたのに、親友だと思っていたのに。
「舞(まい)……?」
 あぁ、思い出した、全て。ずっと忘れたいと願ったこと。
 今まで感じていた頭痛が、嘘のように消え去っている。忘れていたかったはずなのに、どこかすっきりした心境であるのが、何とも言えない気分だった。
 そうだ。私は死のうとした、ビルの屋上から飛び降りて。原因はいじめと親友――舞の裏切り。
 高校二年生に上がり、小学校から仲の良かった親友と同じクラスになることができた。嬉しくて一緒に帰りながら二人で喜んだ記憶がある。
 それから二、三か月経った辺りのこと。舞からいじめに遭っていると相談を受けた。物を隠される、仲の良かった友達にすら無視されるようになった、合ってもいない噂を広げられる、と。確かにその変な噂は聞いたことがあったのだ。否定はしたけれど、まさかいじめだと深くは考えなかった。
 翌日、いじめているという子達が偶然舞の物を隠している場面に遭遇した。見て見ぬふりをしたくなかったのだ、してしまえば私も同じことをしていることになると思ったから……言った。どうしてこんなことをするのか、もうやめて欲しいと。
 その次の日から、標的は私になった。引き出しに入れていた教科書がなくなり、昨日まで話していた友達に挨拶をしても無視をされて。それでも、一人ではないと思っていた。舞がいると思ったから。でも親友は、向こう側だった。あの時の感情は、きっと一生忘れないだろう。
 仕方ないのかもしれない。親友が傷ついていたことに暫く気づけなかったのだから。でも、何が間違っていたのだろう。言い方? 言ったこと自体?
 それとも、舞を親友だと信じていたこと?
「思い出したみたいね」
 女王様は笑う。
「……えぇ」
 これと裁判の何の関係があるのだろう。変に冷静だった。絶望した気分で、今にも泣きそうだということを除けば。
「証言台に立ちなさい、アリス」
 異論はなかった。寧ろ女王様に首を刎ねられても構わなかった。それで、死ねるなら。
 頷いて、素直に証言台に向かう。すれ違った際に見た白ウサギさんは、今にも泣きそうな顔をしていた。
 つい笑ってしまう。あなたは思い出させたかったんでしょう? でもそんな優しさすら、今は嬉しくて。だからそんな顔をしないで欲しい。白ウサギさんのせいではない。全て、私が望んだ故のこと。
「何か言いたいことはあるかしら」
 純粋に気になったことを訊いてみる。
「あなたはどうして、私を殺したいの?」
「わたくしを裏切ったからよ」
「裏切った?」
「……何も覚えていないのね」
 そう呟いた彼女の声は揺れていた。そして立ち上がると同時に、一気に感情が爆発する。
「貴女が死のうとしたからよ! だったらわたくしが殺しても問題はないでしょう!」
「どういう、こと?」
 どうしてそれが裏切ることになるのか分からなかった。でもすぐに、訊いたことを後悔する。
「貴女は昔、死のうとした私を止めた。そして約束してくれたじゃない、私はあなたのことが大事だって、私だけは絶対にあなたの側を離れないって! あの時ずっと一緒だって言ってくれたのに、貴女はわたくしのことなんて憶えてもいない。あまつさえ約束を破って死のうとしたのよ。裏切られて、約束を破られて……許せないのは当然でしょう!」
 女王様の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「わたくしは貴女のことをずっとずっと大切に……愛してきたのに……」
「……」
 これは、私が悪い。
 憶えていないのが、酷く申し訳なく思った。裏切られて辛い気持ちが、今は痛いほどに分かるから。この世界が何なのか未だに分からない。でも彼女の言葉は全て本当のような気がして。
 彼女は私の鏡。大切で大好きだった人に傷つけられて泣いている。でも傷つけたのは、私。
 大切。愛している。この数か月、私とは縁遠かった言葉。私をこんなにも大事に、大切に思ってくれていたなんて。それだけで涙が出る。
「ごめん、なさい」
 頭を下げる。
「正直私は未だに、昔会ったことを思い出せない。だけどこんなにも大事にしてくれる人達が、あなたがいるのに、私は忘れて勝手に関係を切ろうとしたのね」
 白ウサギさんは、私を最優先に考え背中を押してくれた。そして三月ウサギさん、帽子屋さん、眠りネズミさんは、私が傷つかないように行動してくれた。チェシャ猫さんも多分そう、私の意見や行動を否定せずサポートして、守ろうとしてくれた。
 そして女王様。殺そうとしたことは愛情の裏返しのような気がする。ずっとずっと、私を大事にしてくれていたからこそ許せなかった。
「本当にごめんなさい」
 すると白ウサギさんがそっと隣に来て、ハンカチを渡してくれる。
「仕方のないことでもあるんだよ。なんせ君が八歳の頃の話だから」
 検察席にいた三人もこちらに走ってくる。眠りネズミさんは三月ウサギさんに抱えられているけれど、ちゃんと起きていた。
「まさか全部がすっぽり抜け落ちてるとは思わなかったけどなー」
 三月ウサギさんはくすくすと優しく笑う。
「でもアリスが幸せなら、ぜんぜん大丈夫だったよ」
 にこーっと可愛らしい笑顔の帽子屋さん。
「……笑顔が……いちば、ん…………」
 眠りネズミさんは、起きていてもやっぱり眠そうで。
「女王様、降りてこられてはいかがですか?」
 白ウサギさんがそう言うと、女王様は涙を拭いながら立ち上がる。
「今更白々しいわよ、白……」
 女王様は気まずさの拭えない、ぎこちない動きで降りてくる。そして向かい合って数秒、再び涙を溢しながら抱き着いてくる。
「ごめんなさい、アリス……っ」
 身長は私とほぼ変わらなかった。裁判官の席にいた時は、美しい顔と振る舞いできっとかなり大人の女性なんだろうと思っていたけれど、こうやって見ると親近感が湧く。
「謝るのは私の方よ」
 だって彼女は何も悪くない。悪いのは、忘れて約束を破った私の方。
 抱き返せば、更に腕に力を込められた。
「いいえ、わたくしも悪いの。だって貴女を怒りに任せて殺そうとしたんだもの。ここであなたが死んでしまえば、精神も壊れてしまうのに。死にたいほど辛い気持ちは分かるのに、貴女のことより自分のことを優先した。本当にごめんなさい、また会えて……嬉しいわ」
 心からの安堵が見て取れた。
 あんなに死にたいと思ったのに、生きていて良かったって言葉がこんなに嬉しいなんて。
「アリスは女王にとって、初めてで唯一の友人だからな」
 そう口を挟んだのはチェシャ猫さん。弁護側の机に脚を組んで座っている。
「喧しいわよ、猫。貴方は別に首を刎ねたっていいんだから」
 この二人はあまり仲が良くないみたいだけど。
 女王様は離れると、赤くなってしまった目で真っ直ぐにこちらを見る。
「仲直り、してくれるかしら」
「うん、勿論」
「ふふ、ありがとう」
 優しく美しい笑顔だった。
 良かった、本当に。でも私は彼らのことを忘れたままだ。思い出したいのに分からない。
「僕も置いて行ってごめんね」
 白ウサギさんは申し訳なさそうに言う。
「気にしないで。私を守ろうとしてくれたんでしょう? 寧ろ、ありがとうだよ」
 そこまで言って、ふと思ったことを訊ねてみる。
「白ウサギさんって基本は無表情なのね。会った時はとっても笑顔だったけれど」
「猫に無表情と笑顔じゃ相手に持つ印象が違うって言われたんだ。一緒に来てくれる確率も変わるって」
「単にアリスに会えて嬉しかったのよ。白が表情を変えなくなったのは、アリスが私達を忘れた辺りからだもの」
 からかうように女王様は笑う。
 そうだ。忘れたことで傷つけたのは女王様だけじゃない。
「みんなもごめんなさい、忘れてしまうなんて」
 すると、三月ウサギさんと帽子屋さんが抱き着いてきて、起きていたらしい眠りネズミさんにぽんぽんと肩を叩かれる。白ウサギさんには頭を撫でられて、チェシャ猫さんは流石に来なかったけれど優しい顔をしていて……気にしなくていいと、本当に愛されているのだと表してくれた。
「ありがとう……」
 みんな許してくれた、笑顔を向けてくれた。
「こうやって話していたいけど、そういうわけにもいかないね」
 寂しそうに言ったのは白ウサギさんだった。なんだか少しずつ表情が豊かになっている気がする。
 アリス! と突然女王様に手を掴まれた。
「わたくし達は貴女に辛いことがあっても、直接的な力になれない。けれどわたくし達は、いつでもどんな時でも貴女の心で味方をするわ」
 その言葉が、なんだかとても心に響いた。味方がいると分かっていることほど、心強いことはない。精神的でも、それは直接的な力だと思う。
 それに続いてみんなが肯定の言葉をかけてくれる。そして、
「ねぇ、アリス」
 白ウサギさんはとても優しい声で。
「君は真実を、現実に向き合うことを選んだ。だからもうじき目を覚ますよ。向こうに戻っても、時々僕達のことを思い出してくれたら嬉しいな」
「勿論よ。次こそ絶対に忘れない、皆のこと私も大事にするわ。だってこんなに愛してくれる人達が大事な思い出があるんだもの」
 ふわっと笑った白ウサギさんの笑顔は、とても優しくて……懐かしかった。
 
   *   *   * 

 目が覚めた。
 白い天井が見える。体が重い。これはどういう状況なんだろう。
「遥⁉」
 声のした方に目を向ければ、今にも泣きそうなお母さんの姿があった。
「おかあさん……?」
「目が覚めたのね、良かった……本当に良かった……!」
 お母さんが急いでナースコールを押すと、お医者さんと看護師さんが慌てたように入ってくる。軽く診察を受けると、良かったと嬉しそうに笑ってくれた。あまり無理しないようにと言葉を残して、先生達は出て行く。
 お母さんと二人きりだ。どこまで知っているのだろう。
「私、確か三階建てのビルから飛び降りたのよね」
「そう。約三か月意識がなかったんだよ」
 そんなに長かったのか。
「理由は舞ちゃんから聞いたの」
「舞から?」
「うん。泣きながら全部教えてくれて、何度も謝ってた。お母さんもごめんなさい、苦しんでることにずっと気付かなかったなんて親失格ね」
 お母さんは悪くない。だって私が意地でも隠そうとしたのだから。お母さんは私を大事にしてくれる。私をちゃんと愛してくれる人はいる。それが見えていなかった。
「お母さんは私にとってずっとお母さんよ」
 ありがとうと笑うお母さんの目は、濡れている気がした。そして目元を拭い、切り替えるように明るい声で。
「そういえば、その喋り方懐かしいね。どうしたの?」
「え?」
「確か……七、八歳くらいの時だったかな? 一時期そうやって喋っていたから」
「そう、なの?」
「うん。えっと、不思議の国のアリスに影響されて、だったかなぁ?」
 不思議の国のアリス⁉
「教えて、私そのときどんな感じだった⁉」
 お母さんは私の圧に押されながら、戸惑ったように言う。
「え、えぇ? えっと……ウサギさんも猫さんも人間になれるとか言ってた気がする、かな?毎日のように絵とかお話とか書いていたのよ。その喋り方も、確かお友達に馬鹿にされたとかで辞めちゃったんだったかなぁ」
 なるほど、そういうことだったのか。
 彼らといる時、何故不思議の国のアリスなのだろうと思っていた。今まで見ていたものは夢でも単なる夢ではなく、子供の頃に私が考えていた設定の子達だった。つまり小さい頃にあの世界に行ったというファンタジーな経験をしていたというわけではなく、そんな想像をしていたのだ。私がアリスだったら、と。
 忘れていたのに憶えているという変な状態だな、と思う。本が好きで、ずっとその世界に入ることができたら、と何度も思った。それをある意味叶えられたのかもしれない。
「その時に書いてたやつ、まだあると思う?」
「どうかなぁ、捨ててはないような気もするけど」
 退院したら探してみよう。
 もう問題から目を逸らすのも辞める。もうくじけないで向き合える。大丈夫、私を大事にしてくれる人が、味方がいるのだと分かったから。単なる夢だったとしてもきっと意味はある。
 元気になったら、もう一度書いてみようかな。懐かしくて大好きな私の世界の続きを。