金澤大知
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

ヨコハマ・シティ

幼少期の暮らし、体験

​生まれてすぐ日本を後にし、幼少期はカンボジア王国で過ごしました。カンボジアでは首都プノンペンで英語で授業を行うインターナショナル・スクールに通っていました。そのため、現地の子どもたちとほとんど接点はありませんでしたが、​道端やスーパーの前などでお金を求めるストリートチルドレンがたくさんいたことは今でも覚えています。車に入ろうとしたらササっと前に出てきて車のドアを開けてくれることで小銭を稼いで生活しているような子どもたちでした。自分と同じような年齢の子供たちが自分と全く違う生活をしていたことは、まだ考えがしっかりとしていない幼少期の自分でもショッキングだったのか今でも鮮明に覚えています。

その後、ガーナやルワンダなどの途上国を点々としました。アフリカで暮らしていた時は学校のイベントや親に連れられて現地の学校に訪問し、よく交流企画を行っていました。さらに土曜日に通っていた日本語補習校では、ボランティアで来ていただいていた青年海外協力隊の​先生に日本語を教わりました。その先生は、首都から離れた田舎の村の学校で子供たちにそろばんを教えている先生でした。毎週土曜日、授業前にその先生は楽しそうに僕らにそろばん教室の子どもたちのことを話してくれました。思えばこの頃から、異文化交流や国際協力に触れていたのかもしれません。そしてそのどれもが刺激的で、楽しかった思い出です。一度交流で訪れた学校で、生徒の女の子が僕が折ってあげた折り紙を大切そうに抱えながら学校から去る僕らを手を振って見送ってくれた事は忘れません。

中学・高校時代

中学からはアメリカ合衆国に住み、現地の公立学校に通っていました。自分のアイデンティティを形成するために揺れ動く中学時代、様々なことを考えるようになりました。​将来やりたいこと、今までの経験、そして自分が持つべき夢。自分が今まで住んできた国に関しても、ネットでいろいろ調べるようになりました。カンボジアの教育問題、アフリカの貧困問題、積み重なった負の歴史。自分がいた国について深く知り、考え始めたのはアメリカで中学に入ってからでした。父の仕事でもある国際協力という分野について興味を持ち始めたのもこの頃からでした。

​高校に入ってしばらくして、アメリカで人種差別反対運動が活発化しました。発端はBLM運動と呼ばれる、警察官による黒人男性の殺害に抗議するものでした。コロナによるアジア人ヘイトも併せて人種差別抗議活動はアメリカ全土を巻き込み、自分の周りも殆どの人が抗議活動に参加していました。​世間が抗議一色で、友人間でもこのトピックの話をすることが多くなりました。自分の周りはほとんど反人種差別派でしたが、世間では多くの白人至上主義者や差別賛成派も声を上げ始め、選挙期間も相まってアメリカは完全に二分化されていきました。争いはさらに激化し続け、僕が住む街の近くでも頻繁に暴動が発生していました。この惨状を目の当たりにし、高校生の自分は他民族・他人種共存がいかに難しい事なのかを突きつけられました。​

アメリカに来る前にインターナショナル・スクールに通っていた時は、肌の色や目の色の違いを受け入れて楽しくみんなで笑い合えていたのに。アフリカの現地の学校で国際交流を行った時は、生まれ育った環境がまるで違うはずの現地の子どもたちと心を通わせることができたのに、なぜこうなるのだろうか。世界中の誰もがそう思い、人種を超えて共存できる未来を目指す事はできないのだろうか。コロナ禍で家に閉じ込められ、外の世界は暴動で燃えている中、ずっと考えていました。


大学・専門学校時代

​コロナ禍で考えていた事に対して考えたひとつの答えが教育です。世の中の問題の多くは教育で解決することができます。他民族の共存もまた教育で解決することは可能だと思います。小さい頃から異文化に触れられれば、感じる抵抗を少なくすることが出来ます。小さい頃から国際協力に触れていれば、人と人とが協力して理想の世界を目指せるよう可能性は高まります。教育は、人類の可能性を拡張する手段のひとつです。しかし、世界にはまだ教育の格差が存在します。日本のように進んでいる教育が受けられる国もあれば、自分が住んでいた途上国のストリートチルドレンのように子どもたちが満足に学校に通えない国もあります。これから教育を使って人類を結束させていくには、まずは世界中を同じスタートラインに立たせる必要があります。そのために、父親がしているような教育支援に携わってみたいと感じ始めました。

そのため、大学では教育支援ができる活動をしたいと思い、出会ったのが風の会でした。