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信愛女学院高校コーチ(大学3年生から3年間)》(信愛女学院非常勤校1986年)
- 松本監督のもとで女子バレーボール指導の奥深さと面白さを学びました。
- 当時、私がコーチとして選手が1年時にあずかっていた学年が、3年生になって県で優勝し、私はすでに他校に赴任していたにもかかわらず北海道インターハイに招待してもらいました。ちなみに、私は、どちらかというと信愛バレー部から学ぶことのほうが多く、優勝に対する私の貢献はほとんどなかったと思っています。義理・人情を重んじるチームの姿勢に頭が下がりました。
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熊本大学付属小学校常勤講師(1987年)》
- 各教科のスペシャリストの先生たちに可愛がってもらい、授業創りの面白さを学びました。毎週木曜日の校内研修は21時を過ぎることもありとても勉強になりました。
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菊池市立竜門小学校教諭(1988年~1991年)
- 5年生担任として21名の児童と出会いました。彼らも今では、もう40歳中盤の年齢になっています。また同窓会に呼んでくれることを楽しみにしています。
- 毎日6時間の授業準備に追われる日々でした。家庭科主任でした(笑)。音楽も教え、音楽会は”茶色の小瓶”をみんなで演奏しました。
- このころ道徳教育の基礎を学んだことが、今でもとてもためになっています。
- 周りは若い先生が多く、近隣校の先生たちと「若者会」をつくり、サッカー大会などの職員スポーツ大会に出て、その度に飲み会が盛り上がりとても楽しい3年間でした。
- 部活動は季節のスポーツに取り組み、すべてのスポーツで優勝目指して頑張りました。ソフトボールは、県大会を勝ち抜き、九州大会に出場しました。駅伝では、つい子どもの伴走をしてしまい役員の方に叱られました。
西合志町立西合志南中学校(1991年~1997年)
- 初めてバレー部を受け持つことができました。5年後に念願の県大会優勝。バレー経験者3人、平均身長156mという奇跡的なチームでした。当時、県で優勝するといっても誰も信じてくれなかったことを思い出します。
- 赴任当時、学校があれていて、その当時の先生たちと一致団結して立て直していきながら生徒指導の基礎をたくさん学ばせていただきました。出会いに感謝です。
熊本市立花陵中学校(1997年~2000年)
バレーボールの強豪校に行くつもりが、県内有数の生徒指導困難校に。そして待っていたポストが生徒指導主事!!
赤髪、茶髪、金髪、緑髪、耳にはピアス、鼻にはわっか・・・、「君たちは牛か?」と言ったら問題発言と、ボスの彼女に文句を言われました。
当時の亀井教頭先生のリーダーシップのもと、職員が一致団結して3年間で見事正常化に成功しました。地元の田崎市場の方々を中心に「青少年健全育成ネットワーク会議」を立ち上げ、また、保護者の中に「おやじの会」も立ち上げました。市教育委員会や南警察署の応援も大きかったと思われます。ここでもまたたくさんの素晴らしい方々に出会うことできました。
学校がほぼ落ち着いた3年目の秋には、文科省の派遣で3週間ほどドイツに研修に行かせていただきました。
バレーボールの方は、3年目で何とか中体連で準優勝し、九州大会に出場することができました。
つづく
熊本市立西原中学校時代
熊本市立必由館高校時代
そして、帝塚山学院大学時代
仕事について
・「食うために働くか、働くために食うか」
これは、名優、緒形拳さんが、晩年のTVインタビューで話されていた言葉です。
さて、私、今、熊本の地を離れ、ここ帝塚山学院大学でバレーボールチームの監督をしています。5年前、還暦が視野に入りかけてきたころ、公立高校教諭を辞職してこの仕事に転職しました。
私は、上にも書いてきたとおり、40年ほど前に大学を卒業後、小学校で教員生活をスタートし、中学校教諭を経て、高校教諭、つまり、小・中・高と3つの学校カテゴリーを経験した後、現在大学で務めていることとなります。(次は幼稚園?・・・笑)
今思えば、3つの校種とも、それぞれに学びは多く楽しかったなと実感しています。そんな私もある程度の経験を積ませていただき中堅からベテランに入ろうとするころ、勤務校の校長先生から校長室に呼ばれ、管理職試験を受験することを勧めていただくことがありました。それは、私の将来を慮っていただいてのことだと思いますが、私のような非才な人間でも、毎年、その時期になるとお声を掛けていただき、私はその度に真剣に悩むこととなりました。
最初にお声掛けをいただいたのは中学校教諭時代ですが、当時は、学級経営、生徒指導などとともに、バレーボールの指導に人生を賭すくらいハマっておりました。結局そのハマり具合は現在まで続いているのですが・・・(笑)、
「管理職を目指すか、このまま子どもたちとバレーボールの夢を追いかけるか。」
最初のころは、ただ「まだ早いかな」というくらいの感じだったように思います。しかし、歳相応にその選択の悩みも少しずつ変わっていき、とうとう、50歳を過ぎたころ、一度、中途半端な気持ちで受験手続きまでしてしまったことがありました。
しかし、この時は、バレーボールの監督をしながら管理職をすることは、学校や職員の皆様に無責任なことになると気づき、結局バレーボールの指導を離れる決心がつかず、管理職試験をすっぽかして、当時の校長先生にとてもご迷惑をかけてしまいました。
そんな私ですが、還暦を数年後に控えたころ、ある方から大学でバレーボールを教えてみないかというお誘いをいただきました。私のそれまでのチーム創りは、どちらかというと教育中心の部活経営でした。私は、一つ高いレベルで、バレーボールそのものの質を追求し創造していくことに魅力を感じました。
そして、いつもながら家族には「あくしゃうたれ」ましたが、それでも、優しく微笑んで見守ってくれる?妻に甘えながら、私の新たな挑戦に挑むことの意を決しました。
ここでひとつ、そんな私でも、本音の話を付け加えると、実は、私の息子たちは熊本県で教職に携わってくれていますが、そんな我子たちにはぜひ管理職となって学校を運営してほしいと心から願っています。学校全体やそこにいる生徒のために一所懸命にご奉仕する。これも働くために食うことが出来る最高に近い選択だと心から感じているからです。
さて、0から何かを創るという作業は困難を極めるものです。私自身、この5年間、何度も逃げ出したくなるプレッシャーに襲われました。しかし、この歳になると、そのすべての困難が自分自身を成長させてくれることであることを知っています。単身赴任で自炊生活ではありますが、この夢の実現に向けてしっかり栄養バランスを整えた良い食事をとっていきたいと思っています。大森君、いつもおいしいお米を送ってくれてありがとう。学生ともどもこの場を借りてお礼を言わせてもらいます。
最後に私の敬愛する米バスケットボール会のレジェンドコーチ、ジョン・ウッデン氏の言葉を紹介させていただきます。
「自分のしていることを愛さなければならない。」