あずき
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ヒストリー

出身地

宮城

幼少期の暮らし、体験

生まれてから〜小学校時代 自然のこわさと魅力と自分の意志

まず、私は2000年4月18日に宮城県仙台市でこの世に生を受けました。母が退院する頃は、桜が満開だったそうです。泣き喚いたり、バナナの皮を食べたり、ふとした時にいろんなところに衝動的に行ってしまう性格だったようです。(今と変わってないですね笑)様々なことをしながら、家族が山登りや自然が好きなのもあって、私は、植物を通して、人の役に立ちたいと思うようになります。すごくいろんなところに行ったり自分の世界にいたりしたらしいです。それで、小学3年の時に、勉強が好きになり、植物の研究者になりたいと思うようになります。次の年に、私は東日本大震災を経験します。自然には美しい部分もあるけど、怖い部分もあるということを心から知りました。また、その時からやり始めた公文での英語がとても楽しくなってきました。そして、「植物の研究者になるために、大学に入りたい、だから、中高一貫校に入りたい」という理由で、中学受験を目指します。(頑固で、これと決めたらやるというところがあり、周りの意見に負けず、やっていました、、笑)小4から仙台の塾に通わせてもらい、勉強をしていたものの、第一志望の中学校に落ちてしまいます。その悔しさで1週間私立の勉強をし、私立の中学校に入学します。

中学・高校時代

中学校時代 生きる意味とは?自分とは?

私立の入学後は、勉強漬けの毎日でした。とは言え、学内の英語のスキットコンテストに出たり、その学校独自の小論文を書く授業などがあったりして楽しくも過ごしていました。(この中学校に行ったから、中3の時に異文化や自然をしるきっかけである、オーストラリアのケアンズ研修にも行くことができました。)ただ、友人とのトラブルや若干の恋愛トラブルなどがあり、「人とどうすればうまく生きることができるか?」や「生きる意味」を考えた時期でもありました。(今回は簡単に書いているため、ちょっと省略します。。いつか振り返りたいな、、)私立の学校に普通に行くお金は私の家族にはないので、奨学生になろうと必死で勉強していました。テスト前はよく泣いていました、、泣 一回は一番上の奨学生になったものの、それでも、私は、高校の奨学生になることはできませんでした。号泣した私に、家族は、「あずきの人生なんだから、自分で決めていいよ」と言ってくれました。そこで、私は、研究者になりたいという思いを思い出し、研究活動が盛んな仙台第三高校への進学を決めます。中学校の先生の反対を押し切りながら、家族や友人の支えもあって、なんとか、高校に入学することができました。

高校時代 研究をしてみて学んだことと自分のビジョンの形成

高校に入学した後は、真っ先に「研究だ!」と思い、高大連携の研究、部活での研究、課外活動の研究をはじめました。大学の教授と県外の人といる研究でチーフを務めたものの、コミュニケーションがうまくいかない、モチベーションが保てないなど、様々な問題がしょうじ、試行錯誤の日々が続きました。その研究がはじめてで、「研究者は向かないかもしれない。」と思い悩んだ時期もありました。しかし、そのおかげで、それぞれの強みを活かすことがチームの力を最大限に引き出す上で、それぞれが生き生きと活動できる上でいいのではないかと思うことができました。それをきっかけに別の研究でチーフリーダーをつとめたとき、それぞれにあう役割分担をすることで、楽しく、生き生きと活動できるチームに、私として貢献できたのではないかと思っています。(その友人とは今でも大事な仲間となっています。)そして、身近な、「強みのある人でも、他の障がいや、トラウマのせいで生きづらさを抱えている」友人と出会ったり、それらを知ったりする中で、「あらゆる人が生き生きと暮らすことのできる、持続可能な社会づくり」をしたいと思うようになりました。それを行うには、文理を様々な知識が必要、人と協力する力が必要と心から思うようになり、九州大学共創学部を志望し、AO入試で合格することができました。(この際も先生との衝突だったり、友人や家族のサポートだったりがあり、感謝することばかりです。ここも少し省略します笑。)

大学・専門学校時代

大学1年時代(高校時代ブランクも含む) 具体性の模索①

大学にAOで合格した後、私は、春休みに放課後等デイサービスでボランティアをし、少し自分と似た(母が関連する職業で自分の特徴についてよく聞かされていた)発達障がいの子供たちについて知ります。大学入学後は、高校時代に研究をしていた、森林破壊の問題を考えつつ、それに関連する先生に話を聞いたり、授業を聞いたり、ボランティアをしたり、手段としての起業を考えたりして(起業部に所属していました)いました。起業部で人の強みを活かしたり、コミュニケーションをとったりするマネージャーをしたり、ボランティアで「居場所」について触れたり、タイへの短期留学で「人の温かさ」について触れたりして、私は改めて「人が好きだ。」「人が生き生きと暮らせるにはどうすればいいか?」を軸に置いて考えたいと思うようになりました。それを受けて、ボーダレスジャパンの方に関わったり、様々な人にお話を聞いたりする中で、具体的には、発達障がいや過去にトラウマなど生き づらさを抱えた方(今のところ、私は子供を中心とした?)も生き生きと暮らすことのできるようにするための生き方支援のような ものをしていきたいと思うようになりました。

大学2年時代 森と人が生き生きと。

少し具体的になったビジョンをより具体化していくため、今は「放課後等デイサービス」や「居場所」でのボランティアを再開したり、学生企画として話を聞いたりする場を作ったり、キャリア(生き方)を考えたりするイベントを作ったり、竹を伐採する、ワークキャンプをしていました。それらの活動、対話カフェを行う中で、やはり自分は人と森、自然が生き生きとする社会づくりに貢献したいんだと気づくことができました。その鍵が対話で、そのために活動したいと思い、モリトハをたちあげました。春に立ち上げた学生企画での失敗を活かしつつ、今度は実を結べるようにしようと活動しています。


上の内容は、

https://note.com/azukidow/n/n407cf607bb9a

を更新させていただきました!