七人兄弟の長男に生まれ
幼少期は常にセンターに立ちたがりで、レンジャーごっこも絶対にセンターの赤でした。
幼少期の夢は当時レスキュー戦隊ゴーゴーファイブが人気で消防士になると言っていたのを覚えています。
小学校に入ってからも目立ちたがり屋は変わらず
当時親父の髪染めの残りを勝手に使って髪を染め少し学校に通っていました。
今思い返すと荒れていた時期でした。
学生時代はサッカー一筋でした。
小学生から始めたサッカーに中2頃から本気でのめり込んで行きました。
僕の中学は弱小で町が小さく人数も少ないのでなかなか試合でも勝てず、試合帰りの車でいつも泣いていたのを覚えています。
中学3年の最後の大きな大会で地区3位の今までにない結果を残し。
高校に特待生として入学することができました。
当時から僕の家はお金がなく入学金、学費の免除を受けることができたので高校にも通えて、
サッカーを頑張っていて良かったと心から思えたのを覚えています。
高校3年間のサッカー生活はかなり過酷でした。
家からグランドまでは片道1時間毎日通い、部活内容も走りのメニューが多くもはや陸上部でした。
メンタルはそこでかなり鍛えられたのかなと思います。
三年の最後の試合、選手権で早々に敗退、不完全燃焼で高校を卒業しました。
その後社会人になってもサッカーを諦められず自社に入社するまでプロを目指してずっと続けていました。
翔栄入社前の6年間高校サッカーの熱が冷めることなく、
社会人でプロを目指しサッカー中心で生きていました。
地元のサッカーチーム、東北リーグに所属しながら、親父(大工)の知り合いの建築関係の会社に1年勤め、
その後もっとレベルの高いサッカーを求めて上京をし、初め先輩の家に半年住まわせてもらい、最初まったくお金も無かったので給料のいいとび職を2年間続けながらセレクションを受け東京都のサッカーチームに所属。
所属したサッカーチームは品川、大田区を中心にしていたので、鳶職を辞め大田区の運送会社にアルバイトで勤めました。
翔栄に入る前の1年間は、親父の影響もあり大工さんの下請けで建て方の仕事をしていました。
この時期に地元戻り、親父と一緒に大工になろうか、悩んでいました。
25歳になりサッカーを諦め知人の紹介で翔栄に入社させて頂けることになり、今に至ります。