内田 孝一
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

福岡県 飯塚市 菰田

幼少期の暮らし、体験

1965年(S.40) 4月29日 神奈川県 小田原市で"生"を受ける。3.600gの丸まると太った男の子だった。しかし、3歳の時 両親の離婚で、福岡県の母の実家である『飯塚市』に住むことになった。JR九州(福北ゆたか線)の飯塚駅のある『菰田』(こもだ)という駅通り商店街。
今では、寂れてしまい商店街とは言えない状況。

母の実家は、当時 三代続く「古美術店」だった。
その日から 所謂 「骨董品屋」の息子になった。
実は、父の記憶は ほとんど無い。父親代わりに私を育ててくれたのが、母の兄 私にとっては『叔父』に当たる。
いつも「おいちゃん!」「おいちゃん!」と言っていた。
叔父は、愛情深い優しい人だったが、反面 "めちゃくちゃ"厳しかった。何せ 大正 生まれの「帝国海軍軍人」出身で、今では 信じられないが 家には「軍人精神統一棒」なる、何か "筋"を間違えたり、やってはいけない"行動"をとると、この棒で「お尻を叩かれた」痛いというより「吹っ飛んでた」。
しかし お風呂もよく二人で入ってた。日曜日の朝なんかは、叔父のベッドに入り、「戦争」や「男とは?」などの『話』をよく聞いていた。

叔父の口癖は「五分前集合!「三歩以上 駆け足!」「何もすることなければ、逆立ちしとけ、思い出すから!」だった。
私の『人間形成』に かなりの影響を与えた。
私が、一番 尊敬している人でもある。

この「骨董品屋」は、母の兄弟や従業員の人たち含め10人くらいの共同生活だった。お風呂に"入る順番"も、食事もみんな一緒にとり、"座る位置"も決まっていた。食事は、いつも 叔父の奥さん(叔母さん)の「美味しい手料理」だった。インスタントのものなど 大学に入るまで、ほとんど 食べたことが無かった。ある意味 厳しい環境だったが、本当に幸せだった。
この「幼少期」の私は、大家族の中で、決して 今のように明るい子ではなく「人の顔」を"じっと"見ている子だった。それは「顔色を伺う」ではなく「この人は、何を考えているんだろう?」「どんな人なんだろう?」と考える子供だった。



中学・高校時代

住んでる所は、かなり田舎で、周りは『田んぼ』と『ボタ山』(炭坑の人工の山)しかなかった。まさに「野生児」的に育った。田舎ならではの"遊び"もたくさんやった。
中学時代の思い出と言えば、小学生から始めた「バスケット」だった。中学3年間は、年間で、お盆と正月休み以外「練習・練習」の日々だった。顧問の先生が、かなり熱い方で、中学3年間は 地元では負けたことが無い『有名中学』だった。その上、バスケット以外でも、夏は『水泳部』になったり、冬は『陸上部』と。専門でもないのに、それぞれの大会に出場し、『バスケット』以外の大会の雰囲気を感じさせて貰った。
しかし 私は、全く 通用しなかったことを覚えている。

この部活を終えた後に、『人生』を変える出来事が自分に起こった。それは、高校受験の『失敗』。部活をしながら、勉強も そこそこ やっていたが、受験に『失敗』してしまった。地元の進学校一校しか受けていなかった私は、かなり悩んだ。そして『プライド』も、ズタズタになった…。
しかし、ここは 「帝国海軍出身」の叔父に育てられた私としては、逃げたくても逃げれなかった。当然、合格すると思い込んでいたため、一校しか受験していなかった。その高校とは、福岡県飯塚市にある五木寛之の「青春の門」の舞台となった"嘉穂高校"。

さあー、どうしょうか?と、かなり悩んだが、今更 福岡に行って 私立の2次募集を受ける気にもなれず、親からは反対されたが、思い切って『中学浪人』する道を選んだ。
浪人中は進学塾に通い、クラスは、勿論 浪人専用で 個性的な10人位のメンバーだった。筑豊の飯塚だから、ヤンキーやら金髪やら様々で、学力差は半端なかった。
現役クラスには、『ラサール・久留米付設クラス』があり 頭の良さそう子たちが勉強していた。いつも『中学浪人』だとバカにされたものだ。当時 『中学浪人』など、殆どいなかったから…。

しかし、中学の勉強は、理解と言うより「記憶力!」
覚えればなんとか成るレベル。そこで、現役よりも時間はたっぷり有ったので、"人生"で一番勉強した。「勉強・勉強」だった。全ての教科書をノートに写した。数式は勿論、英語や年表、地図や人間の臓器、そして ミジンコまで…
暗記出来る物は全て書き写した。一年 続けていると、『ラサール・久留米付設クラス』の子たちとテストの結果があまり変わらなくなっていた。自信は無かったけれど…、何となく変わっていく自分を感じた。

そして…
いよいよ二度目の高校受験。今回は、色々な高校を受験した。
西南高校、北九州高専、そして 久留米付設。
結果は、全て合格した。しかし、やはり 憧れの3本線の帽子 "嘉穂高校"に行くことにした。

高校に入学して直ぐテストがあり、前年 落ちた私が450人中、9番だった。この時ばかりは、「えぇ 俺 やるやん! 努力すれば 何とかなるやん!」と感じた。
そして、やっと 自分に自信が持てた。もし、ストレートに行っていれば、このような"経験"や"想い"は出来なかったと、今では思えるようになった。
この経験が、それからの"人生"に大きく影響した。

しかし、高校生活に 一つ問題があった。それは、体育会系の私が 今までの部活の後輩たちから呼び捨てにされる屈辱。今 思えば"アホ"だが…
あの頃の1歳差は、今の10歳差にも感じられた。そして、中々 同級生と馴染めなかった時に、担任の先生も分かったんだと思う。「内田!  君には、2学年分の友達がいると思え! 人の2倍の友達がいるんだ!」と、プラス思考の助言を貰った。この担任の『言葉』で"はっと"して、モヤモヤが晴れた気がした。そして、それまでが"嘘"のように、みんなと打ち解け楽しい3年間が過ごすことが出来た。

私は、『数学』が好きで「理系の男クラ」だったが、文化祭では『バンド』を組んで演奏したり、運動会では、全校生徒『1.400人』を4つに分ける"グループ長"になった。地元では、かなり有名な運動会で、OB含め近隣の方々も見に来られるものだった。
中学時代 好きな女の子と「ノート交換」をして異性を意識するようになった私だが、この『運動会』を経て全校生徒に知られるようになり、後輩の女の子からも声を掛けられるようになった。「中学・高校時代」を通して思うことは、『中学浪人』した一年間の過ごし方が、その後の「人生」を変え、高校時代の過ごし方が、今の自分を形成している。
なぜなら 運動会の後 前々から好きだった『女の子』に告白したら、"OK!"を貰えたのだから。嬉しかったし『自信』になった…。

この2つの"経験"が、それから自分に起こった「大きな壁」や「大きな挫折」を乗り越えさせてくれたと思う。昔の人の"言葉"に、「若い時の苦労は買ってでもしろ!」
本当 昔の人は、よく言ったものだ。



大学・専門学校時代

高校時代の勉強は、『好きな教科』は徹底的にやり、『嫌いな教科』は全くやらなかった。好きな教科は、「数学」「化学」「地理」「体育」。テストの成績も、好きな教科は いつも『90点以上』。しかし 嫌いな教科は『30点』程度。特に嫌いな教科は、「国語」と「英語」だった。この2科目が苦手だったので、その後 社会人になって、相当 苦労することに。

大学受験は、偏った学力と、『バンド活動』や『運動会』に没頭していたため、共通一次を受け 国立大学の工学部を受けるも通るはずもなく、『中学浪人』経験者としては、また浪人もできず、私立の「福岡大学 理学部 応用数学科」に入学した。
大学といっても理系の応用数学科の学生は、45人程度だったので 高校の延長のようなものだった。
1.2回生の時は何とか付いていけたが、3回生になると全く 付いていけなかった。所謂 「数学」は分かったが「応用数学」には、全く 歯が立たなかったのだ。
高校時代から、一番 変わったことは 大家族で、常に 「起きる時間」も「食べる時間」も「寝る時間」も決められた生活から、はじめて 一人暮らしをして『開放感』に浸れたことを今でも覚えている。一人暮らしとはいえ、「食事付きアパート」(寮)の生活だった。この大学生活で、自分の中に眠っていた「超マイペースのサボり魔」が登場したのだ。

大学生活と言えばは、「カンティーナ」(行きつけのBAR)「麻雀」「おねえちゃん」の3つに付きる。勿論 バイトもしていたが、サークルには入らす、すべの行動は、「カンティーナ」中心だった。


「カンティーナ」は福岡の赤坂にある隠れ家的なブロック造りの『バーボン』の専門店。この店のバイトが、私たちの『寮』の人間が歴代務めていたこともあり、いつも入り浸っていた。「カンティーナ」は、『ジャズ』や『ブルース』が流れるおしゃれな店で、一足先に 大人な気分を味わえた。
お客さんは、「業界人」(広告・テレビ局・出版など)が多く 後に 私が、この業界を選んだのも、ここで知り合った方に色んな話を聞いたからだ。ここの『ママ』とは、その後も ずっと付き合った。偶々 息子が同じ歳で 私が東京・大阪にいる時も 会いにきてくれた。母のような存在だった。
この店に行けば、お金がなくても何とかなった。社会人の方々に飲ませて貰っていた。「野球チーム」や「バンド」もこの店のお客さんとで組んだ。「キャンプ」にもよく行き、まさに『社会人サークル』だったので、年上の方々とばかり付き合った。この時の経験が後に「おじさんキラー」と言われることに。

だいたいの"行動パターン"が「カンティーナ」に年上の女性と同級と4人ぐらいで 集合し、「中洲のディスコ」にいき、踊り疲れたら「博多風居酒屋」にちょっと顔をだし、「カンティーナ」に戻っくる。そして お店で、その日 来店している お客さんの"ボトル"を飲み、色んな話を聞いた。店が終わった後は 従業員の方と、近くの「安い一杯飲み屋」でお金を気にしながら 朝まで飲んで、タクシー代もなく、一時間半 掛けて 社会人とは"逆方向"に歩いて『寮』まで帰って寝るという生活だった。本当に"めちゃくちゃだった"が楽しかった。
まさに「青春だ」。「大学時代」を一言でいうと「濃い、熱い人づき合い」を学んだ4年間だった。



職歴

私が、大学4年の卒業間近の3月に「人生」に影響することがおきた。それは あの厳しかった、私が一番 尊敬している「叔父」が『癌』で亡くなった。64歳だった。
はじめて亡くなった人に触れた。「あんなに、温かく柔かかったのに、本当に 見るみる固く、冷たくなっていった」。
亡くなった後 葬儀までに「伸びたひげを剃り、顔を拭いた」。
悲しさよりも、家族全員が"呆然"となり『心の柱』を失った。全員が、「この先どうしょう」と考えさせられた。

私は、社会人になるに当たって、「もう 頼る人がいない」「自分でやるしかない」「自分で生き抜くしかない」と覚悟を決めた瞬間でもあった。

「叔父」は、『社会福祉協議会』や『傷痍軍人会』・『教育委員会』など、地元の様々な委員も務めていたので、葬儀には 地元の国会議員を含め 様々な方々が『2.000人』ほど参列された。遺影の写真も畳一畳ほどもあり、大きなホールで行われた。葬式というものに初めてでた私は、これが『葬儀』かっと思ったが、実は 後にも先にも、「叔父」の葬儀より大きなものに、今だに出たことがない。この葬儀を終えて 改めて 「叔父」は、凄い人だったんだと感じた。
私は、せめて『64歳』までは生きなきゃと思った。

叔父が、私に残した"言葉"が…「ある時は節約、ない時は辛抱」だった。全く 守れていない、真逆をいっている。
亡くなる前に、病院のベッドで書いた"言葉"を 家族 一人ひとりに残していた。それも「綺麗な小さく細長い額縁」に入っていた。この"言葉"は「一生忘れない」だろう。
私には、もう一つ残してくれたモノがある。社会人になるからと、象牙の「実印と認め印」。これを見たときは、さすがに「泣いた」。「おじさんには、かなわないや」と感じた。

大学卒業後は、「カンティーナ」で出会った方の紹介で、九州朝日放送の子会社「KBCメディア」に入社。
所謂、業界人になったのだ。しかし、派手だと思っていた業界が、実は かなり地味で 下積みも人並みに経験した。
3年間は、死に物狂いでやった。

そして、3年目に、九州三菱自動車の40周年イベントを"きっかけ"に、大阪に出ることを決め、所属会社を退社し、『MASH』というプロモーションの企画・制作会社に転職し、新たな道を歩きはじめた。25歳の時だった。

転職後の勤務地が、いきなり海外の『オランダ』だった。
英語の"エ"の字もしゃべれない私の海外勤務がスタートした。それは、オランダで10年に一度 開かれる 国際園芸博覧会「フロリアード'92」の事務局の責任者だった。
JTBの契約社員として「農林水産省」からの委託業務だった。この辺りの詳細は、別途 『記事』として上げる。

この仕事では、日本人の感覚と世界は違う事を一番感じた。
しかし、日本人としての「アイデンティティ」や「誇り」、「人間としてのスケール感」みたいなものを学べた。
帰国後は、大阪、東京で、大手広告代理店 D社の黒子に徹し、あらゆるプロジェクトに参加した。
ここでは、企画して、決まったプロジェクトの基本計画、実施計画から、本番に向けた推進、本番で使うマニュアルの制作、そして本番と、一貫して行って来た。

しかし、『オランダ』勤務時代に、緑内障に掛かってしまい、気づくのが かなり遅れ、日本に戻って、数十回の手術を受けたが、中々 治らなかった。結局、『角膜移植』も経験し、現在では『視野の狭い左目のみ』でものを見ている状況。

しかし 家族や周りの方々に支えられ、助けられ、何度も"ダメ"になりそうになりながらも、何とか ここまで 来ることができた。失ったものも大きかったが、得たものも大きかったと、今では思えるようになった。
まあ "プラス思考"の塊で 良かったと思っている。
少しは、人の痛みが解るようになったし、日常生活も 何かと不自由だが、何とか やっている。

仕事の大きさや重さなど、プレッシャーも有ったが、乗り越えられたのも この経験があったからだと感じる。
目のことを乗り越えられたのは...
以前の会社も含め、その上司や仲間。そして 周りのたくさんの方々に恵まれたからだと思う。全てに感謝だ。

しかし、不思議と慣れるというか…、見えてた時を忘れてしまっている。また 無くなると出て来るものもある。『記憶力』や『味覚』、『嗅覚』や『聴覚』が鋭くなったように感じる。この挫折を乗り越えて、今がある。人は、今の環境を受け入れ、自らの足で立ち、生き抜かねばならない。
それは…
自分自身を「進化」させることだと思っている。

これより先は、以下のURLへ
https://www.concan.co.jp/post/daihyou-080322

*コンカン コーポレートサイト「私のヒストリー」