らいらっく
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ヒストリー

出身地

神奈川県横浜市

幼少期の暮らし、体験

自然と親しむ
家の前が雑木林で、よくコクワガタが風に飛ばされて家の前におちていました。
それを拾って飼っていました。

父がグレープフルーツの種を庭に蒔いたところ木が生え、
アゲハチョウが卵を産みに来ていたので、アゲハチョウも飼っていました。
アゲハチョウは寄生されてしまうことが多く、
サナギからハチが食い破ってでてきたり、コバエがたくさん出てきたり、
白いハエの幼虫がでてきてまたサナギになったりと
それなりに衝撃的な結末を何度か見ました。
幼虫を発見したらすぐに飼育ケースに移す、与える前に葉をよく洗う
の2つを行うことで、羽化率を1/2程度まで引き上げることに成功しました。

家の近くの公園では、よくザリガニ釣りをしていました。
サキイカとおもりの石をタコ糸で割りばしに結んで、
ザリガニを脅かさないように、そうっと糸をたらします。
釣ったザリガニは家で飼えない友達の分も連れて帰り、
玄関先で飼っていました。

池からすくってきたオタマジャクシは、足が出ると次々と失踪してしまい、
最後には残りませんでした。
その後カエルを捕まえてきましたが、うっかり晴れた日に外に放置してしまい、
カラカラに干からびてしまったときは、号泣しました。

学校のプール掃除で捕まえたヤゴも家で飼っていました。
オニヤンマのようなカッコいいトンボにはなりませんでした。

飼っていて長くつづくものとつづかないものがあり、
縁日で手に入れた金魚はいつもすぐ死んでしまいました。

冷めていた割には感傷的だった私は、生き物が死ぬ度に庭にお墓を作っていましたが、
中学に入ってからは生き物の死にそこまでショックを受けることはなく、
家の前の雑木林に投げ捨てるようになりました。
単に慣れかもしれませんし、
死の受容がわりと楽にできるようになったのかもしれませんね。


小学校にて
小学校では、児童が学校のことを決める代表委員会に3年生から在籍していました。
6年生のときは、児童運営委員会長になりました。
学校の創立50周年にむけて、マスコットを選びました。
マスコットのバッジや手芸品を作って、学校のお祭りに有志で出店しました。
初めてモノを売った経験です。

中学・高校時代

フェリス女学院高等学校 2019年卒業

生物部
中高5年間、生物部に所属していました。
部ではイモリを飼っていました。
イモリはふとした時にいなくなっていることがあるのですが、
いつもは登れない壁をなぜか登って逃げだすようです。
新しいイモリを足しましたが、名前をみんなで考えているうちに、私が引退になってしまいました。

アフリカツメガエルも飼っていました。
あの、よく解剖で使うヤツです。
でも、ただただ飼っていただけでした。
生物の授業で解剖していたのは、その実習のためだけに届いたツメガエルでした。

飼っていたわけではありませんが、生物室にはゴキブリもいました。
イモリやツメガエルのエサやりの用品をいれている段ボールのなかから、なにかカサカサ音がする、
そう後輩から聞いて、私はヤツだと思いました。
段ボールの閉めるところを内側に折り込んで使っていたのですが、
そのわずかな隙間に、彼らはいたのでした。
もっとも長いピンセットを持ってきて、段ボールを何度も突き刺し、私は仕留めました。
のちに後輩が年賀状に「ゴキブリ退治してくださってありがとうございました!」と書いてくれましたが、
その年賀状が当たりで、切手シートを交換に行ったとき、なんとなく恥ずかしかったのを覚えています。

彼らとの闘いは、家の中では人間が圧倒的に不利です。
しかし、学校のような広い空間ならば、こちらに利があります。
手でも捕まえられるくらい、こちらが有利です。
学校の中で私は、幾度かゴキブリを捕まえました。
直接害がないと思ったときは、仕留めるのも面倒なので、森に投げ捨てました。

文化祭では解剖をします。
素材はいろいろ選べます。ウサギやマウス、ヒヨコ、魚…
でも、1つの命を屠って、私たちが学ぶだけのことがあるのか。
結局私がいた5年間は、解剖のために何かを殺すという選択はしませんでした。
ブタの屠殺時に得られる胎児のホルマリン漬けや、食用のニワトリ、タイ、食肉店から手にいれたブタの成体の内臓…
責任から逃げているとも言えますね。

忙しくなって、積極的に生き物を飼うことはなくなり、代わりに介護のような飼育をするようになりました。 

中学に入って、秋にはカマキリを拾うようになりました。
カマキリは、もう動けない、という感じでよく道に落ちています。
寒くなってきて寿命が近くなったカマキリを家に連れ帰ってきて、
なんとなく温かい場所に置いたり、鶏肉を与えてみたり。
どうせ1、2週間で死んでしまうのですが。

シャッターの中から出てきた弱ったイモリには、手を焼きました。
テスト期間中だったので、早く帰ってきてはエサをやり、
夜は覆いをして暗くしながらも、徹夜の合間にのぞいてみたり。
試行錯誤して老齢のネコ用のペースト状のエサをやったり、
カルシウムを混ぜたりしました。
脱皮のために動かなかったようなのですが、
脱皮を終えてもぐったりとしており、
皮膚は少しずつ黒いしみのようなものに浸食されていきました。
最後に確認したのは4時半。
6時に起きた時には死んでいました。
世界史のテストのため、私は学校に向かいました。


For Others
キリスト教系の奉仕団体、YWCAに所属していました。
各プロテスタントの中高に設置されているYWCAはそれぞれ独自に活動をしています。
私の学校では、活動資金の足しにするために使用済切手を集めてJOCSという団体におくったり、
文化祭ではお菓子や小物を売って寄付金を集めたり、問題意識を提起するために社会問題を調べて展示したり。
他校のYWCAと、近隣のドヤ街である寿町に赴き、炊き出しをお手伝いしたりしました。

中1の終わりに炊き出しに行ったとき、「あなたたちも列にならんで雑炊を食べていらっしゃい」と言われて
列に並びました。
すると、あとから来た男性から、
「どうしてあんたらが列に並んでるんだ、お金を払って食堂で食べればいいのに」
と言われました。
どう返答すればいいのかわからなかった。いまでもわかりません。

合宿で日本初のハンセン病療養所を訪ねました。
他の国立療養所で隔離されてきた方のお話も聞きました。
ハンセン病について調べ、文化祭で配る冊子にレポートを掲載しました。
隔離という人権侵害と、忌避意識、
特効薬が開発されたあとでさえも隔離を続け、治った後も社会復帰を許さない社会。
人間のすることとして信じられないという点、ましてや昔の人の愚かな行いではないという点で、
単純に憤りを覚え、非難した。
しかし、私がその構造に荷担していないからこそ、手放しで非難できるのかもしれないと思いました。
いまこの瞬間、私も非人道的な制度を許しているかもしれない、
そう思うと、いろいろ知らなくてはならないと思いました。

あ、For Otherの話は、大学時代の方に続きます。

大学・専門学校時代

上智大学

中高時代について、大学に入ってからの気付き
私の学校の理念はFor Othersでした。
正確に言えば、理念は他に存在しています。
For Othersは、いつからか自然と唱えられるようになったそうです。
他者のために、という言葉には独りよがりに聞こえます。
今、大学のモットーはMen and Women, for Others, with Othersといいます。
進路を選んでいるとき私は、with Others、つまり、他者とともに、というのが、独善的でなくていいと思いました。
でも、いま思うのは、それは結局逃げだったな、ということです。
中3の時、奉仕活動といって、老人ホームか近隣の児童養護施設にお手伝いに行くことが全員に求められます。
そして、奉仕は「してあげる」ものではなくて、どこまでも「させてもらうもの」と説かれます。
私は奉仕活動に積極的でしたが、奉仕はさせてもらうの、という意味を理解できていなかったように思います。
困難のなかにある相手を、どこまでも思いやること、行為から自己を消して相手のことを考えること、
そんな苦しい作業が奉仕であり、For Othersなのだと今では思います。
もちろん他者との協力は必要ですが、他者と共に、というきれいな言葉でごまかすのではなく、
独善と批判されながらもあくまで他者を中心において考える、その方が誠実だと思うのです。


社会問題への意識
奉仕と社会問題への関心は、別個のものではないと思います。
困難の中にある人々への愛は、その人たちを抑圧下に押し込めている構造への問題意識に容易につながります。

知りたくて、解決策を考えたくて、高校2年のとき、論文を書くゼミ形式の授業を取りました。
たくさんの資料を読み込むこと、信頼できる資料を選ぶこと、様々な視点を考慮すること、
かけがえのないこ
とを学びました。
テーマは、日本と韓国の歴史教科書問題の比較と台湾の開発独裁にしました。
前者については、解決手段とかはまったく書けず、類似点をさぐったり、単に楽しく書いたという感じです。
教科書というもの、教育というものの意味を考えさせられました。
後者については、明確な定義のない「独裁」を自分なりに定義しました。
開発独裁には、開発のためにやむを得ないという意見や、
白色テロのような弾圧を例に挙げて例え発展のためだとしても行うべきでなかったという意見があります。
最初はこの論点を考えたかったのですが、価値判断を伴わずに論文を書き進める方が楽だし、
結局楽しかったというのが本音です。

論文をほめられたのきっかけに、私は公募推薦での受験を主眼に置くようになりました。
公募推薦制では、自己推薦書と成績、4000字の事前レポート、当日の小論文と面接で合否が決まります。
私は自分が考察したこと、分析したことを直接評価してもらいたかったし、
一般入試のために教科の勉強をする日々でもやはり何か調べて書くという時間が欲しかったのです。
自己推薦書と成績、面接は特に心配はありませんでした。
小論文もたった1文の問いに答えればよいので、特段練習も必要ありませんでした。
しかし、レポートの最後の問いは、いまでも引っかかっています。
”開発途上国や紛争後社会における多文化共生の実現において、私たちができることはなんだろうか”
解決策を聞かれたのです。
私はいままで解決すること、分析したなにかに働きかけることを避けてきました。


そこで、こう思い直したのです。
問題があるなら、分析するだけでなくきちんと向き合うべきなのではないか、と。


GEILに入って
社会問題を解決するには、政策なんじゃないか、そう思い、総合政策学部への進学を考えたこともありました。
しかし、歴史教科書問題を扱ったことから、また、関心のある社会問題が国際的な問題であったことから、
政策や政治ではなく、教育学科を選ぶことにしました。

しかし、大学に進学し、政策で社会課題解決を考える学生団体と出会います。
それがGEILです。
心強い仲間と、社会問題に向き合う、
いまこのときは、充実しています。
今年のテーマは教育格差。
問題に向き合うのは苦しい一方で、学術的な部分は楽しいです。
あと5か月、GEILで教育格差を考えつくしたいです。
もちろん、引退後にも多少の宿題が残ると思いますが。

職歴

あんまり、働くのは得意ではないです。
特にリクルートスーツを着るような場面は苦手です。

今はGEILに時間を費やしたいので、小学生のテストの試験監督くらいに留めています。
あとは、生きる、というバイトをしています