小野寺 虹胡
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ヒストリー

出身地

宮城県気仙沼市

幼少期の暮らし、体験

<誕生から保育園時代>私は宮城県の上にある出っ張り部分の「気仙沼市」という自然豊かで海産物に恵まれた港町に4人兄妹の末っ子として生まれました。家は気仙沼市の中でも田舎の地域にあり、コンビニなんて便利な物はなく、歩いて1〜2分で海があるくらい自然豊かな所でした。兄妹とはみんな歳が離れていたので、基本的に祖母と一緒に一日を過ごすことが多く、2人で海の方に散歩に出かけたり畑作業を手伝ったりしていました。
父と母曰く、私は幼少期の頃落ち着きがなく大胆な行動を繰り返していたらしいですが、当事者の私は記憶にないのだから不思議なんですよね…
1つ例えを出すならば、私が父に市民プールに連れて行ってもらった時のこと。幼少期の私には角を曲がることを知らないかのごとくプールサイドを爆走した結果、深い方のプールに落ちてしまい父を驚かせるというエピソードがあります。父はその時私が神隠しにあってしまったのでは無いかと本気で焦ったそうです
今でも昔程ではありませんが、時々大胆な行動をしていると友人に言われてしまいました

<全てが変わってしまった小学校時代>
皆さんは覚えているでしょうか
2011.3.11
この日は私にとって1つのターニングポイントと言えるでしょう。察しがつくでしょうが、理由として私の生活が一変した日だからです
当時私は1年生でした
1年生は他の学年より授業が少ないので午前中で帰ります。その日もそうでした。掃除を終わらせて外に出て帰ろうとした時、あの地震が発生しました。
校庭の地面にはヒビがはいり、指示を出す先生達の大きな声と周りで泣いている友達。私はあの状況で頭が真っ白になり泣くことすらできませんでした。ただひたすらに泣けない自分に焦っていたのは今でも覚えています。でも無理でした
次々と保護者が迎えに来る中で、私の両親は共働きだったのでなかなか来ません。私と次女は幼なじみのお父さんの車の中で、先生に貰ったおにぎりとゆで卵を食べて迎えを待っていました。
待つこと数時間。ついに父が迎えに来てくれました
車で仕事に行ってたはずの父は何故か自転車を漕いでいました。向かう途中のトンネルで交通渋滞が起きてしまい、これではダメだと慌ててトランクに積んであった自転車を降ろして漕いできたそうです
私はこの時、やっと泣くことができました
その後、私と父と次女は避難所を転々としていました
避難所では夜につける灯りもない、ご飯もお腹いっぱい食べれない、お風呂にすら入ることができない日々が続きました。しばらくの間は母と他の兄姉に会うこともできませんでしたし、合流してから皆で見に行った私の家は呆気なく流されており、土台のコンクリートだけが寂しく残っていました。

当たり前が当たり前じゃないということを私は身をもって知りました。とても辛いトラウマになるような経験でしたが、震災という出来事は私に大きな学びと幸せの価値を教えてくれる貴重な経験だと思います。

中学・高校時代

宮城県気仙沼高等学校 2021年卒業
​<中学校時代>私が中学校時代に打ち込んだことは2つあります1つ目は卓球です
私は小学2年生から姉達の影響で卓球を習っていたので中学校でも部活は卓球部に入部しました
私が思う卓球部に入部して1番の挫折は2年生の中総体です。私は部活とは他に姉達がお世話になったコーチに夜練で他校の生徒に混ざって教えてもらっていました。その中でも女子部員は少なく、みんな私より年下の子でした。私と女子部員は一緒に練習していたのでとても仲良しでした。そして迎えた中総体当日。私の個人戦の相手はいつも練習してる女子部員の子でした。正直私が先輩なのもあって絶対勝てるとタカをくくっていました。しかし、結果は私の負け。甘く見ていた結果、敗北という変わらない事実だけが残りました。私の心の中は悔しさで炎がつきました。それから私は今まで通り部活とコーチに教えてもらう夜練に加えて、姉に指導をつけてもらう日を増やしました。部活で疲れてるのに夜は更に練習しないといけない毎日に時々負けてしまいそうになり、逃げたくなる日もありました。親に当たってしまうことも何度かありました。それでも、私は練習をやめませんでした。
その結果、中学校生活最後の中総体は団体戦3位、個人戦はベスト16という結果を残すことができました!
「辛い毎日逃げたくなってもいい、それは人間として誰もが抱いてしまう感情だから。ただそこで負けたら今までの努力全てが一瞬で消えてしまう」
私が卓球をやり続けたからこそ得たことです
2つ目は音楽です
私は歌うことが好きで、音楽の授業が大好きでした
音楽の成績だけは毎回オール5で、いつも音楽の授業になるとわくわくしながら周りより早く教室に行き、先生のピアノに合わせて歌っていました。教室に響く私の歌声とピアノの音がとても心地よくて幸せな瞬間でした。
気仙沼市では市民音楽祭という、全部の小中学校が集まって音楽を披露する行事が毎年あります。全部の中学校の中でもうちの学校は教頭先生が音楽の先生だったこともあり特に合唱に力を入れていました。私自身負けられないプライドを持って合唱練習に勤しんでいました。
文化祭の合唱コンクールでは3年生の時に私が全校合唱のソプラノパートリーダーを務めました。元々あまり人前にたつ柄じゃないのでマイクを使って全体に指示を出すのは緊張しましたし、上手く伝えられないところがあると人一倍悩んでいました。迎えた本番、前日に体調を崩してしまうというハプニングもある中で私は無事に参加し、全校合唱を成功させることができました。あの達成感は何にも変え難い素晴らしいものでした。

<高校時代>
高校生になったばかりの私には夢がありました
それはフラワーコーディネーターになることです
その夢を叶えるべく私は茶華道部という茶道と華道が選べる部活に入部をするのですが、部集会で集まった新入部員は私だけ。先輩10人に対し、私1人。母にとても心配されたのを覚えています笑
1番上にある写真は私が部活動で生けた作品です!

私は基本楽観的なので、「本当に嫌になったら辞めればいいし、とりあえずやってみる」精神で始まった部活動。3年間の中で1番大変だったことは人の名前と顔が一致しないということです。先程も言いましたが、私がいた茶華道部は茶道と華道を選べます。茶道と華道では部活をする回数も場所も違うので両方が集まるのはたまにの部集会だけでした。つまり、華道の先輩後輩は覚えられても茶道の先輩後輩が会わなすぎて覚えられないんです…。そこで私は持ち前の観察眼を武器にとにかく会えた時に茶道の人達を観察していました。名前を呼ばれている時はすかさず耳を集中させ、頭の中で顔と名前を一致させていました。おかげで全員の名前を覚えられることができました!
そのことが私の観察眼と記憶力を更にレベルアップさせてくれたと思っています