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ヒストリー

出身地

東京都

幼少期の暮らし、体験

私の考えのもとになったことを全部説明しようと思うと長くなりそうなので、私の転機となった期間にスポットライトを当てて書きたいと思います。


まず私は中国の上海に住んでいました。10歳の時に父の仕事の影響で移り住みました。慣れない環境へ行くのは初めてで最初は全く行きたくなかったし、最初の1ヶ月はわからない言葉が飛び交う環境に戸惑いがありましたが、家族や日本人のコミュニティに溶け込んでいくうちに楽しく毎日を過ごせるようになりました。

これが自分の「飛び込んでみること」という考えの原体験になりました。

この飛び込んでみる精神が数年後に発揮されます。中学校への進学です。

中学・高校時代

わたしが当時通っていた上海日本人学校には中等部もあったので当初はそこに通う予定でした。しかし、最初の進路希望調査票を出した直後、母がいつかにもらった現地校の資料を何部かひっぱりだしてきたのです。
すぐそのあと母は各学校に電話をかけ、翌週にはすべての学校を見学しました。

そして、わたしは現地校の国際部に入学しました。
(ちなみに私的に学校を選んだ決め手はキャンパスの広さとコンビニがあることでした)

国際部というだけあって中国語の科目もレベルが細かく分かれていたし、日本人の生徒も多くて安心して通い始めました。
ただ安心はできても中国語が話せるわけではないので最初の1ヶ月は泣きながら宿題をする日々。中国語も日常会話ができたので高いレベルに送られどの授業もいまいちわからないままでした。

しかし3ヶ月後、自分でも明確には覚えてないのですが、気づいたら話せるようになってました。毎日中国語に浸かっていたことがなによりも上達した理由だと自分でも納得しました。


それからかれこれ1年と少ち経ち再び壁が出てきました。父が帰任することになったことです。10月に帰任だったので、母ときょうだいは夏休みに日本へ先に帰ることになりました。
しかし私は当時の学校があまりに楽しいのと、中国語の検定(HSK)の最高級をまだ受けていなかったので、帰りたくないと懇願し、13才にして1人上海に残り、寮で生活することを決めました。

寮に入る前まではわくわくうきうきしていたのですが、入ってみると、とてつもないホームシックに見舞われ、今度は泣きながら寝る日々となりました。母とほぼ毎日電話し、月一で会いに行ったり、会いにきてもらったりしました(もちろん会いたいという理由だけではありませんでしたが)。家族が自分にとってどんなに大きな存在だったかを思い知らされます。そういうところも含めて寮生活に飛び込んでみてよかったなと思いました。

しかしこちらも3ヶ月ほどでルームメイトとクリスマスパーティをしてエンジョイできるようになりました。修学旅行の前日に管理人にばれないように夜中までこそこそと荷物をみんなでつめたりしてそれはそれは青春でした。ちなみに当時のルームメイトはロシア人とタイ人で、ふたりとも中国語が話せなかったので、英語でなんとかコミュニケーションをとろうとしてました。今かろうじて英語が話せるのは彼女たちのおかげです。

ただ、寮ぐらし始めて3ヶ月、ちょうど慣れた頃に母から帰ってこいと命令がでてしまい、私は少し寂しさを引きずりながら帰国します(ちなみにHSKはあっさり取れました。)。

そのとき私の心境は中国に行く時と真逆でした。日本に帰りたくなかったんです。静かすぎる電車とか、無愛想なバスの運転手さんとか、ときどき日本に帰るたびに日本のいやなところをみてしまっていたんだと思います。もう上海LOVEだったので、、。

時期的に中途半端だったこともあり2ヶ月だけ公立中に通い、そのあと今通う学校を受験して編入しました。

ここでまた新たなものに出会います。中高生の社会貢献です。存在は知っていましたが、何から手をつければいいかわからなかったわたしにとって、間近でそれが行われている学校に入れたのは幸いでした。それからは自分について深くしれたし、大きく成長しました。自分の弱さ、ダメなところも認められるようになりました。

それから一年ほど経ち、今はimIとしての活動、学校のボランティア部としての活動、それから最近ありがたいことに趣味のデザインを依頼してくださるかもいて、だんだんと社会との繋がりを深めていっています。