元々社会人がどのような事を行うのか良く分かっておらず、紹介で入った半官半民の企業で経理を学びました。最初は経理のケの字も知らない落ちこぼれでしたが、どんどん会計の魅力に取りつかれ倉庫に潜り込んで企業の歴史を財務諸表から調べているうちに、どんどん理解が進み、そのうちに大阪から来た新米主任を教えるようなレベルまで到達した頃、会計が貸し方と借り方しかないの様々な表現ができることに美しさを感じるようになりました。
その後、九州厚生年金会館という新設施設ができ、私は若手経理マンとして立ち上げに行きました。その際に、コンピュータと出会い、コンピューターに夢中になり始めました。
そのころの私は下記に書いています。
https://jibun.atmarkit.co.jp/lskill01/rensai/hagimoto06/hagimoto01.html私の場合、すべて「自分はやれるのでは」という勘違いから始まりました。私は「本が書けるのでは?」、「方法論が作れるのでは?」という想いが強くなりました。そのように想いだけが先走りました。当時、ステーブジョブズがアップルを追い出されて、NeXTという会社を創り、そこで生み出したNeXTStepというスーパーマシンがあったのですが、それを親から借金して購入し、5年先の技術としてオブジェクト指向技術を学びながら、オブジェクト指向方法論を自作しました。これが匠Methodの第一歩となりました。1994年頃のことです。
その後、2000年に、友達と豆蔵という会社を立ち上げ、オブジェクト指向方法論を、ビジネスにも活用できる方法論に改良し、要求開発方法論と名付けたものをビジネスでも使えるように仕上げていきました。それを政府にも展開しようと総務省行政管理局の技術顧問や特許庁の内閣官房IT室の補佐官(GPMO補佐官)となり、政府に展開することを狙っていましたが、特許庁からPMOとしての私に「助けてくれ」というSOSが届き、総巣を見に行きましたが、既にプロジェクトは破綻していました。2007年のことです。そして、このプロジェクトを止めることに努力しましたが、結果として止まらず2014年に中断したのです。
この事件があってからというもの、現在のITビジネスの中に身を置いていても、日本を変えることはできない、日本の悪しきビジネス慣習を変えるべきだと思うようになりました。その記事は、ここに出ています。
https://www.publickey1.jp/blog/12/gpmo.htmlこのことも私の頭の中に残り、日本のITを改革するために価値からデザインする手法を創り、その手法を使うビジネスだけに集中したいと思い現在の会社を2008年に創りました。
その手法が匠Methodなのです。