未熟児で産まれたことが原因となってしまったのか、小学5年生までは病弱でした。
元気いっぱい遊んだ翌日に発熱したり、小児喘息を患ったりと、とにかく病院にお世話になっていた記憶があります。
しかし、小学5年生でミニバスケットボールを始めたことをきっかけに身体が丈夫になりました。
幼少期から、ピアノ、水泳、習字、陸上(軽くですが…)など、習い事をいくつかしていましたが、どれも本気で打ち込めずにいました。
しかし、バスケはとってもおもしろく、「少しでも上手になりたい!!」という思いから、所属しているチームの練習以外にも、中高生や社会人の練習に参加させていただき週5,6で楽しくバスケをしていました。
中学受験を経て、山梨から東京の学校へ通っていました。
中学でも「バスケ部に入ろう!」と思って入部し、レギュラーを獲得したものの、小学校時代にお世話になっていた監督の下でバスケがしたいという思いが強くなり、1年生の秋には退部してしまいました。
そして、学校から帰宅後、社会人が参加する夜の練習に参加していました。
しかし、練習時間が18時~22時だったので、
学校から帰宅 → 宿題 → 夕飯 → 練習 → 練習から帰宅 →学校へ行くため6時起床
という流れの繰り返しがきつく、勉強が疎かになってしまいました。
「これでは受験した意味がない…」と思い、勉強を優先した結果、中学3年生になると、気づけばバスケを自然と辞めていました。
高校生ではもう部活に入る気にはならず、帰宅部として友達と遊んだり、土日は自由に過ごしたり、服や化粧に興味をもったりなど、自由に楽しんでいました。
大学生になると、やはり最初はサークル活動を楽しんでいました。
ゆるいバスケサークルに所属し、みんなで仲良くバスケをしたり、楽しくご飯に行ったりと、遊んでばかりでした。
そして1年生の秋頃に同じサークルの先輩と交際を始めましたが、案の定数ヵ月で破局。
これを機会にふと自分を見つめ直し、サークルに固執して遊ぶだけではなく、残された大学生活を自分にとって成長する期間にしなくては…と気づきました。
そして、2年生からはあえて楽単は取らずに難しい授業をとったり、資格の勉強をしたり、自分より知識や経験がある方にお話ししていただく時間をいただいたり…などと、とにかく「少しでも充実した人間になる!」を目標に日々過ごしていました。
高校生から大学1年生までは、ファミリーレストランでアルバイトをしていました。
大手チェーンだったので、マニュアル通りが求められ、個人の意思や提案など通る雰囲気ではありませんでした。
1年近く働いた後、もう少し違う環境に身を置きたいと思い、「ここで学ぶべきスキルは習得できた」と感じた段階で辞めた次第です。
その後は、友人の紹介で個人経営の居酒屋で働きました。
マニュアルはなく、個人に委ねられていた部分が多かったので、自分なりの接客を確立していき、お客様に褒めていただいた時の嬉しさは今でも覚えています。
しかし、私が働き始めて1年経った頃から、だんだんお店が閑散としてしまい、お店の全面リニューアルが決定しました。
これにより、店名・メニュー・内装全てがガラッと変わることになりました。
全面的にルールが変わることにより、働いているメンバー間の意見のぶつかり合いはしょっちゅう。
「0からお店を作る」ということは、アルバイトの私でもかなり困難に感じました。
ただ、私も他のメンバーも「このお店でお客さんに素敵な思い出を作ってもらいたい」という想いがありました。
なので、社員さんに向けて堂々と意見を言ったり、お客さんとして店に行き改善点をリスト化して提案したりと、「私がこのお店を変えるんだ!」という想いで、がむしゃらにぶつかっていきました。
その結果、新しく入ってきた人の教育や、指示を出してお店を回していく役割など、大切なポジションを任せていただきました。
自分の意見や考えを目上の人に伝えることは、反感を買うこともありますし、否定されることもあります。
しかし、自分が正しいと思ったこと・行動したいと思ったことは、言葉にしなければ相手に伝わりません。
自分が発信したことが間違いや最善策でなかったとしても、それは言葉にして周りの人の意見を聞いたからこそわかる結果です。
経験も実績もない若造の意見なんて最初は誰も聞いてくれません。
それでも情熱を持って伝え続ければ、耳を傾け協力してくれる人は必ずどこかにいますし、人と意見交換をすることで新しい考えを得られたり、視野が広がったりします。
事実として、私は粘り勝ち、オーナーが相談をもちかけてくれるようになりました。
当時はいろいろと悩みましたが、今振り返るとフェミレスも居酒屋もとても良い経験になりました。
これからも自分を出すことを恐れずに、人生で様々なことに挑戦します。