愛と自由について

太古の昔から、誰も打算なしに人を愛することなど出来ないように、「何ものにも縛られない」という生き方をすることも不可能だ。

人は本能に従って、自分と相性のいいステータスを持つと判断した相手に恋に落ちるし、何かに縛られないよう生きる人は、『何かに縛られない』という考え方に縛られている。

あるいは、行動選択の場においてなら、無限の選択肢が広がっていて、『無限の選択肢から行動を選択出来る』という意味では『自由』と言えるかもしれない。

無限の選択肢から行動を選択できるのと、三つの選択肢から行動を選択できるのとでは、言うまでもなく無限の選択肢から行動を選択できる方が自由と言えるだろう。

ところが、無限の選択肢から「最善の」行動を選択することと、三つの選択肢から「最善の」行動を選択するのとでは、明らかに後者の方が動きやすいし、そもそも前者では満足に身動きすら取れないだろう。
そういう意味では、自由を求めて無限の選択肢から最善の行動を選択することとは、『自由に縛られている』といえるのではないか。

人は常に最善の選択肢を採ろうとする。
あえて最悪の選択肢を選ぼうとする人は、一般的には最悪の選択肢がその人にとっては最善の選択肢だったというだけだ。

ただ、そもそも無限の選択肢から行動を選択する機会などあるだろうか。
たとえばどのタイミングで愛の告白をするかを迷っている時に、「カレーを食べる」という選択肢を頭に浮かべる人はいるだろうか。
結局、人は無限の選択肢を考慮することなどなく、最善と思われる選択肢周辺の、せいぜい数十の選択肢から選んでいるに過ぎないのだ。

​『粉雪』という言わずと知れた名曲には、『僕は君の全てなど知ってはいないだろう それでも一億人から君を見つけたよ』という歌詞がある。
しかし、『僕』は、実際に一億人一人々々と向き合って『君』を見つけたわけではない。
​『結婚とは、どこにでもいる普通の少女を、世界でいちばんの美少女と勘違いすることにある』。誰かの言葉だ。
​『僕』は『君』の全ては知らないように、『僕』は『一億人』の何たるかを知らないのだ。

人は、「愛とはなにか」「自由とはなにか」を古より追究し、どこまでも求めてきた。
​ただし、いまになってもそれらを一言で説明できる文句はなく、そんな不確定なものを追い求めていると言える。
それでも、心のどこかでは愛や自由がどんなものか、人それぞれの形で理解している。

しかし、その本質はこれまで見てきたように、絶対的な虚しさを含んでいる。世界には愛も自由も無いとさえ言えるかもしれない。

​これまで述べてきた愛や自由の無意味さと同じように、近代ヨーロッパにおいて人生や世界の絶対的無意味さといった形で顕れた。

それまでヨーロッパ精神史の根底には、私たちの住む此岸とよばれる世界とは別に、彼岸とよばれる世界があって、そこにあらゆる事物の本質があると説くプラトニズムが主流であり、大衆の間ではそのエッセンスをもつキリスト教が確固たる地位を築いていた。

簡単に言えば、私たちの住む世界(此岸)は仮初にすぎず、愛や自由といった抽象的な概念が見えず理解に苦しむのは、それが「向こう側の世界(彼岸)」にあるからで、大衆の間ではその「向こう側の世界(彼岸)」に「神」とよばれる絶対的な存在が住んでいる、という考え方が主流だったと解釈していいだろう。

しかし、19世紀後半になると、工業化がもたらした技術文明や、数々の紛争が宗教によって解決することはなかったことで、次第にプラトニズムやキリスト教を根底から疑うような動きが広まっていった。

それまで人々の心の支えであったキリスト教的価値観が信用のおけないものであるとする考え方が広まると、「世界の全てに存在する意味も価値もない」と言う哲学者まで出てきた。これが消極的ニヒリズムである。

そこで消極的ニヒリズムを克服すべく登場したのがフリードリヒ・ニーチェである。
ニーチェは、これまでの世界は、本来ありもしない神や『向こう側の世界(彼岸)』を理想とし追い求めていたことに問題があったと指摘した。​そういった『存在しないゴール』を求めることをやめよう、といった文脈で発されたのがかの有名な『神は死んだ』という言葉である。

身も蓋もない話だが、彼はこう続けた。
この世の事物には、等しく『永劫回帰』という現象が起こる。
永劫回帰とは、同じような事柄が永遠に繰り返される、という意味だ。人の人生につけても、結局は誰かと似たような人生を送っているだけで、オンリーワンの人生など存在しない。歴史も人の生涯も似た形で繰り返されるもので、そこにしかない価値や、その人だから持ちうる意味などは存在しないのだ。

つまり、理想的な神の住む世界などは存在せず、私たちが生きる世界はこの世界しかないが、この世界も偉大な価値や意味を持っているわけではないということになる。
しかし、ニーチェはこうも綴っている。

​『この世』を超越した神の世界という、耳あたりの良い理想を徹底的に否定することにより、私たちは真に私たちの生きる世界と向き合うことができる。
すると、神の啓示のような第六感に頼るものではなく、五感によって生命力に満ち溢れたこの世界をありのままに受け容れることができるであろう、と。

この世界には、愛も自由も存在しないかもしれない。困った時に頼める神もいないかもしれない。
​それでも、この世界を超越した理想的な価値ではなく、ありのままの世界を受け容れて生きることにより、価値のないこの世界にあらたな価値を見出すことができるだろう。