「あいだ」の居場所

 みなさん、高校のときに記憶に残っていることって何かありますか? 私は原発についての講演会に行ったときの記憶が特に残っています。

 まず私がなんでこの講演会に行ったかというと、エネルギーミックスについて友達と課題研究を行っていたのですが、その時のテーマと講演会のテーマが関連していたからです。 タイトルからはこれからどのように発電方法を考えていくべきかという未来志向のものだと感じられました。こんな講演会は研究のヒントになると思ったし、申し込みの際は快く迎えてくれたので友達とかなりの期待をしていました。

 でも、講演会を聞き終えたときには違和感が残りました。そこでは、ずっと反原発のことについて語られていました。登壇者を立てるように拍手や合いの手が入る度に、何か違うところに来てしまったのではないかと感じてしまいました......

 確かに私も反原発の立場ではあるから理解は出来ます。それでも、この輪の中に入れないと思ってしまいます。原発はやめるべきだと考えていても、原発が必要だと言う人の主張や思いも理解はできます。だから、反原発といってもまだまだ考えたい点はたくさんあるんです。

 あの場は「反対」が明確な人々の場でした。もちろん、そんな人々が講演会を開いたり行動を起こしたりするのは素晴らしいことだとは思います。しかし、どこか迷いのある人は疎外感を感じてしまいます。

 なんとなくですが、社会問題は二極化した人々がそれぞれ動くだけの構図になっているように思います。

例えば原発も「賛成」・「反対」の主張が目立つ。でも意見が決まらなかったりまだ学び途中の人はその議論の場から弾き出される。それによって最終的には「素人だから…」とその社会問題から目を背けてしまうことになります。詳しくないからと選挙で投票しない人と同じような遠慮を感じられます。

 私も同じです。社会問題に特別詳しいわけでもないし意見がはっきりと決まっている訳でもない。
 でも、そんな「グレー」な人々だからこそ話せる場所が必要なのではないでしょうか。社会問題の解決には様々な人々との対話が欠かせません。その問題に対して賛成の人も反対の人もどちらともいえない人もごちゃ混ぜになって、互いの意見を知った上で話す場所が欲しいと感じました。

 だから、私は学生団体Junctionを立ち上げました。コンセプトは「学生と社会問題をつなぐ」。社会問題を互いにゆるく話せるような団体。かしこまった意見を言わなくてもいい。特別なルールは設けずに議論をするつもりです。

 ゆるくというのは決してテキトーに考えているわけではありません。ゆるいからこそ心の奥にあった色んな気持ちが出て、更なる議論が出来るのではないかと考えています。社会問題の解決に貢献しているとは正直言い難いです。しかし、そのきっかけを作れる場所になるのではないかと期待していますしそのような場所にしたいです。

 社会問題は解決の方法がわからないものばかりだと思います。だから、専門家だったり主張出来るような意見があったりする人以外はどんどん遠ざかってしまう。でも、社会問題はガンガン動く人だけの問題ではありません。だから、色んな人を社会問題と「つなぐ」ことが今必要なのだと考えます。そして私はそんな団体をつくりたいと思っています。