対話の場

「対話できる場が足りない」
これは私の中でかなり切実な問題だと考えている。

ではその対話とはどういったことを指すのか。
私はそれについてまとめるならば、「影響を与え合い、考えを深めること」だと定義する。人と話している中でふと自分になかった視点が得られたり、全く知らなかった気づきが得られたことはないだろうか。私はそれを対話と呼ぶ。その人の考え方や知識に影響され、考えが深まったからだ。では対話の必要性は何か。自分一人で考えられることは本当にちっぽけだ。自分はアリストテレスでもなければニュートンでもない。自分は無知であり視野も狭く偏った人間だ。しかし対話することで自分の無知さにわずかでも気づくことができるし、ほんの少しだけそこから前進できる。そこに対話することの必要性、そして面白さがある。

そんな対話の場が足りないように感じる。私は大学に入学したとき、大学には対話の場を期待していた。自分に近い、あるいは自分より高い学力の人たちとともに毎日対話をし、知的に刺激を得られる場だと思っていた。だが実際入学してみると講義続きの毎日で、対話を深めていくような場ではなかった。新型コロナウイルスの影響でオンライン授業ばかりになっているのも一因かもしれない。今後進級してゼミに入ってからは対話を繰り返していくのだろうが、現段階ではそういったことができていないのが実情だ。もちろん実際に対話をする前に、その思考の材料が必要だということはわかっている。だからといって対話と講義をはっきりと分けて講義しか行わないというのは適切なのだろうかと疑問に思う。対話をする中でこの知識が足りないなと補うこともあるし、知識が補強されていくことだって大いにあり得る。

現状より、大学外の場所にその対話の場を見出す必要がある。そんな中、私の友人の中村優希が先日「『あいだ』の居場所」という文章を投稿した。

https://pando.life/Junction/article/50713

「あいだ」の居場所

ゆうき
学生団体 Junction

この記事の中で原発についての講演会に行った時のエピソードが描かれている。私もこの時一緒に講演会に行った。まるで決起集会か、あるいは自己啓発セミナーのようで疲弊してしまった記憶がある。記事の中で彼女はこの講演会のことを立場が明確な人の場だと表現していた。これはつまり対話が起こらない場だということだ。立場が明確に同じならば、影響し合うこともない。必然的に考えることはしない。同意するだけだ。もちろん行動の場としてはその方が自然だ。行動するときには集団がまとまっていたほうが大きな力になるからだ。しかしこれは考える場としては不適切だ。

私は中村と、そういった問題意識から学生団体Junctionを立ち上げた。この団体は行動を起こす団体ではない。考えることを主眼に置いている団体、つまり対話を目的とした団体、対話の場を作っていく。今は私たちは学生だが、いずれ社会人になるときには実際に社会に対して、どんな形であれ行動を起こすことになる。このバッグボーンとなる思考をこの団体では形成していきたい。つまり学びのプラットフォームのような団体だ。根気強く何かについて考え続ける、考えを他人とぶつけ合い考えを深め対話していく。そんな対話の場をデザインしていくつもりだ。