「快楽」と「幸福」

「快楽」と「幸福」

 

 今年の正月は、家族や仲間と、ご馳走を囲んで、ゆっくりと時間を過ごした方も多いでしょう。日常の中の「幸せ」なひとときです。

 

 こういう時に、改めて、「幸せ」の意味を考えます。既に、古今東西、数多の古典が「幸福論」を説いてきました。常に私たちは、「幸せ」になりたい。でも、今、本当に「幸せ」なのか、どうしたらなれるのか、心もとない。それを探し求め続けているのが人生なのかもしれません。

今の時代の人生の「幸福」とは何でしょうか。

 

人それぞれ「幸福」の定義はあっていいのです。でも、大事なのは、自分なりの「幸福」の定義は、かなり明確に定めておくことだと考えます。それが、日々の生活、子育て、仕事、病気、そして逝くときの行動の選択や捉え方の座標軸になるからです。

 

私は、危機感を持っています。それは、自分も含めて、「快楽」=心地よいこと、と「幸福」を混同することへの危機感です。

 

私たちは、美味しいものを食べたときに「ああ、幸せ。」と表現します。それが「幸福」の定義と感覚を濁らせています。本能や五感が満たされること=「快楽」が「幸福」である、と勘違いすると、食欲、性欲、睡眠欲、といった動物的な意味での快感を「幸福」と定義づけてしまいます。

 

果たして、「幸福」とはそれだけでいいのでしょうか。結果として、かえって「不幸」が募ることもあります。

 

今の世の中、スマホ・タブレットで何でも手軽に調べ、考え、いつでも自分の好きな世界の情報や動画に耽ることができます。煩わしい人間関係からも逃れられます。それが「幸福」でしょうか。「快楽」ではあっても、それを「幸福」と呼べるかは疑わしいです。SNSで「いいね」を数多くもらったり、人にチヤホヤされるとき、それが「幸福」でしょうか。それも疑わしいです。「気持ちいいかどうか」「他人に認められるかどうか」が「幸福」の尺度となった途端、私たちは、本能的な欲求や自己承認欲求を追いかけることになります。

 

しかし、実際には、現実の人間としての生活は「不自由」ばかりです。面倒な人間関係、子育てだって思うに任せぬことばかり。争いや嫉妬や失敗ばかり。お金を持っている人であっても、実生活では生身の人間です。程度の差はあっても、ストレスフルなことに溢れているのが実生活です。

 

最近ますます、「快楽」や「円滑」に慣れた人間は、それを「幸福」と混同しつつある私たちは、他者との関係から逃げ出したり、子育てを放棄したり、する人が表れています。保育園や障がい者の施設が近くにできることをノイズととらえて、反対する意見が出るのも、自分の「心地よさ」を重視するからでしょう。一見「不快」で「面倒」なことに向き合う逞しさ、寛容さを私たちが失っていいのでしょうか。苦労や困難でも、それを乗り越えたときには体の芯から湧き上がる喜びがあります。それを感じる機会を失います。

 

「欲を満たす」ことではなく、「欲を抑える」ことが「幸福」感をもたらすことも十分あり得ます。我慢してトレーニングしたり、ダイエットしたりして、自分の成長を感じるとき。自分が席に座るのを我慢して他の人に席を譲って、人の役に立ったと思えるとき。

 

ものの考え方も大事になります。厳しい経験や困難を「人生の味わい」「今後の糧」と考えるか、不幸と考えるか、によっても、違いが出てきます。どんな出来事も、無理に前向きに「楽しい」と無理に心を向けるのとも少し異なります。

 

ひとつの考え方として、「幸福」とは、自分の持っている動物性を抑え、人間性を発揮したり、育んだりしたときに、生まれるものではないか、というのが私の考えです。

 

だから、自分の好きなことに夢中になって、熱心に学んだり働いたりして、学び成長を感じること、その結果として、自分の「可能性が花開く」実感を持つこと、それが「人の役に立っている」実感を持つこと。それが「幸福」の定義である、と考えます。

 

今、心ならずも、心底好きな仕事を見つけられない、好きな仕事だけど不安定な雇用状態に置かれている、仕事の中で自分の力が発揮できていない、明日死んで、満足感があった人生とは言い切れない、そんな状況にある人も少なくないかもしれません。そんなことを考える余裕がない方も多いのかもしれません。

 

もちろん、多くの金を手にして、経済的な成功が「幸福」と関係ないとは言いません。それは、「幸福」への目的ではなく、手段となり得るからです。家族と過ごす時間、思い出をつくる機会、他者を助ける元手、にお金はなってくれます。

 

それでも、若い人を中心に、もう一度、自分なりの「幸福」について、考えてほしいと思います。日本は、れっきとした先進国。であるが故に、「自分の可能性を花開かせること」「それが他者を幸せにしている実感を持つこと」を得難い、感じ難い社会になっているかもしれません。

みんなが、立ち止まって考えて、互いに、背中を後押しする、そういう世の中にしていかなければなりません。そして、ひとりひとりが目いっぱいチャレンジすることを皆がリスペクトする世の中になっていかねばなりません。

 

十把一絡げに考えられませんが、もしかすると、ブラックな職場に疲れ果てている人、非正規で将来に不安がある人、介護と育児のダブルケアで自分の人生を謳歌できている実感がない人、本当はもっと別に好きなことがあるのにチャレンジできない人、自分の力を人に認められることなくもやもやしている人、いろんな人がいるでしょう。

 

私たち、全員が「光」を持っています。可能性を持っています。それを花開かせるために、その人の潜在力を見出し、チャレンジを後押しし、失敗しても励ます、そういう発想で、あらゆる仕組みやルールを考え直すことです。

 

英語で言えばempower(力づけること、力を引き出すこと)が、これからの時代に大事な切り口だと私は考えます。empowerされて、自分を「花開かせる」。そういう時代にこそ、本当の「幸福」が広く行き渡ると、私は考えます。

 

 

ザック井上
2020.01.25

快楽と幸福について混同してました!
たけうちさんが、快楽をあまり求めてないのに、なぜ幸せそうなのかということへの理解が一歩深まりました。

「「幸福」とは、自分の持っている動物性を抑え、人間性を発揮したり、育んだりしたときに、生まれるものではないか、というのが私の考えです。」

一つ教えて頂きたいのが、「自分の好きなことに夢中になる」というのも、動物的な本能な気がしてます。
起業家、経営者、政治家というのは、動物的な資質を発揮させていく面もあるため、夢中と快楽の両方を追いがちな気がしてます。
表裏一体になりがちです。
これは、動物性の発揮しどころをコントロールするみたいな話なのでしょうか。それが出来るなら、皆がたけうちさんみたいになっているきもしています。
この違いは、何が生んでいるのでしょうか。


たけうち 和久
2020.01.29

有難うございます! 仰るとおりですね、「動物性」は本能による欲望みたいなものをここでは指していて、確かに「動物性」=アニマルスピリッツみなたいなものも、満たすことで幸福感を創り出しますね。ただ、それは過程であって、その先の目的がより幸福に近いような感覚を持っています。動物性が目的になると、どうだろうかと。夢中になるのは、「人間開花」そのものだと思うので、それ自体を動物性と表現するかどうかは別として、幸福とニアリイコール、とは考えています。