アトランタ五輪銅メダルへの道のり

日本レスリング協会は,1993 年カナダで開催された世界選手権大会で,日本代表フリースタイルチームが惨敗した為,翌年7月五輪2回優勝経験のあるロシア人コーチのセルゲイ・ベログラゾフ氏を招聘した。世界トップの技術を指導していただいた私はその年に初めて日本代表に選出され,1994年8月トルコで開催された世界選手権大会で6 位に入賞,10 月広島で開催されたアジア大会では銀メダルを獲得。世界で勝てる自信がついた年であった。

そして,1996年4月中国で開催されたアトランタオリンピックアジア予選に出場,1 回戦の対戦相手は,バルセロナ五輪金メダリスト韓国の選手に0 - 4 判定で敗戦。敗者復活戦にまわる事になった。文字通り負ければ最後の試合が続き,敗者復活1回戦台湾選手に判定勝利,敗者復活2 回戦モンゴル選手に勝利,そして,敗者復活3回戦では,前年W杯で対戦し負けたウズベキスタン選手であった。序盤投げ技,タックルを決められ0 - 4とリードされるも,とにかく最後まで諦めないで全ての力を出し尽くそうと思い試合に挑んでいた。そして,対戦相手が徐々にスタミナが消化し逆転で勝利し五輪代表権を獲得した。

1996年8月。いよいよアトランタ五輪が開幕。開会式で入場行進した際に見た景色は最高のものであった。日本人選手団として,競技場内に入った時の武者震い。また,アメリカ,ロシアの騎手はレスリング選手であり、同じレスラーとして誇りに思った。そして,聖火ランナーは、陸上選手のカールルイス、水泳選手のエバンスとテレビでしか見た事のない人が目の前を走り、そして、最後にボクサーのモハメドアリが聖火を灯した時は今まで味わった事のないものであった。改めてこんな最高の舞台で全力を出し切ろうと誓った開会式であった。

そしていよいよ試合開始。アメリカではレスリングはメジャー競技で観客は満員であった事にも感動した。夢にまで見た最高の舞台で,とにかく,全ての力を出し絶対諦めない試合をすると誓い,シングレットの中に入れるハンカチには「全力」と刻み試合に挑んだ。

1 回戦,2 回戦の対戦相手は,前年世界選手権で対戦した,ブラジル,ベラルーシであり,前年同様勝利することができた。3回戦では,前回大会金メダリストの韓国選手であった。序盤グランドでかえされ,0 - 5 で敗戦し,敗者復活戦にまわった。敗者復活1回戦ではマケドニア選手に判定勝ち,敗者復活2 回戦ではモルドバ選手に0 - 4 とリードされたものの,同点に追き,延長戦でタックルを決めて勝利。敗者復活3 回戦の対戦相手は地元アメリカの選手で,バルセロナ五輪銀メダリスト,世界選手権大会も優勝経験があり文字通り世界のトップに君臨している選手で,五輪半年前のブルガリア国際大会で対戦した際は0 - 4 で敗戦した。この時に対戦した際に,試合開始早々飛行機投げをかけられ3点を先取されていたので,開始早々の攻撃を注意して試合に挑んだ。開始早々投げをかけられるも,警戒していたこともあり最小失点におさえ,5 分の試合時間終了では0 - 2 と負けていた。この当時のルールで同点もしくは3 点獲得していなければ3 分の延長戦といったルールであり,3 分の延長戦に入った。なかなかポイント獲得のチャンスはなかったものの,6 分過ぎバックにまわり1 点獲得,1 - 2 とし,ラスト1 分,タックルとローリングの攻撃をしかけ4 - 2 で逆転勝利し3 位決定戦に進んだ。そして,迎えた3 位決定戦。それまで日本男子レスリングは,4 位が最高の結果となっており,私が敗退すれば,ヘルシンキ大会から続く連続獲得メダルが無くなるところであった。しかし,私自身は,そういった危機的状況は分かっておらず,自分を信じ,最後まで諦めず,全力を出し尽くすことだけを考えていた。試合では,序盤0-2とリードされるが,タックル,ローリングとポイントを重ね逆転,相手もしぶとくポイントを取り3 - 3 同点。延長戦へ。延長戦の開始早々,最後の力を振り絞りタックルを決めて銅メダルを死守した。アトランタオリンピックでは,前述している通り,最後まで諦めないで全力を出す事ができた内容であった。それは,常日頃の練習から心がけていたことでもあり,また,高校時代・大学時代の団体戦で,自分が負ければ団体優勝できないといった状況を経験していることが生きた試合でもあった。

この五輪で経験した事を後進に伝え,更に五輪代表選手,メダリストを育成しようと思っている。

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