フランスとドイツの関係〜メロヴィング朝から21世紀まで〜

みなさんこんにちは、FFJE20期代表のShintaroです!

本日は、フランスとドイツの関係について、メロヴィング朝から現代までの歴史を振り返りながら述べていこうと思います。ただ、歴史に関しては素人であるため、一部抜けていたり誤解していたりするところがあるかもしれません。ご容赦ください。

1 フランスとドイツの起源

そもそもフランスとドイツという国は、いつの時代にその起源をたどることができるのでしょうか?その答えはなんと9世紀にまで遡ります。当時のヨーロッパには751年に成立したカロリング帝国があったのですが、843年のヴェルダン条約により、当該帝国は崩壊し、三つの国家に分かれます。[1]そして、そのうち最も西にあった西フランク王国がフランスの祖型、最も東にあった東フランク王国がドイツの祖型になったと言われています。[2]そして、870年のメルセン条約によって、その真ん中にあった国家のうちのライン川からロレーヌにまでいたる地域が、西フランク王国と東フランク王国によって、二分割という形で、領有されます。[3]

その後、東フランク王国では、911年にハインリヒ一世によるザクセン朝が成立します。[4]そして、この時点ではまだ王朝が成立しておらず、分裂した状態であった西フランクのロートリンゲンを併合し、当該国家へ決定的かつ圧倒的優位を示します。そして、962年のオットー一世の戴冠によって、このことは決定的になります。[5]その後、西フランク王国では、987年にユーグ・カペーによるカペー朝が成立しますが、東フランクに対する立ち遅れは否めず、フランス国家の形成に重くのしかかることとなります。[6]

このように優位差のできてしまった両国家ですが、11世紀〜12世紀の間は目立った紛争はありませんでした。[7]というのもお互いに関わる暇がなかったからです。[8]むしろ、彼らは連帯の動きを見せました。例えば、ザクセン朝のハインリヒ2世はカペー朝のロベール2世敬虔王と共に、国境であるエスコー川にまたがる所領をもったフランドル伯の野心を抑えようと、二度の共同遠征を行いました。[9]

2 12世紀

それでは、次に12世紀です。この頃、フランスではカペー朝が存続していたのに対して、ドイツでは、ザリエル朝を経て、シュタウフェン朝へと王朝が変わりました。[10]12世紀になると、上で述べたような両国の連帯は終わりました。というのも、フランスはローマ教皇と良好な関係を気づいていたのに対して、ドイツはカノッサの屈辱といった事件もあり、関係が悪化しており、対立の萌芽が生じていたからです。[11]

ところが同じ頃、イギリスではアンジュー帝国が成立していたのですが、その王であるリチャード獅子心王は底無しの権力欲をもっており、帝冠ですら夢見ていました。[12]こうした状況に危機感を感じたドイツ皇帝はカペー朝と同盟を結ぼうとします。[13]当のフランス王のルイ7世は教皇の牽制で結べない、という状況でしたが、次の王である尊厳王のおかげで、両国家間で仏独同盟の礎ができました。[14]

3 13世紀

次に13世紀の様子を見てみましょう。13世紀になるとドイツで後継王争いが起きます。[15]具体的にいうと、ヴェルフェン家(オットー4世、英国王ジョンの甥)とシュタウフェン家(フリードリヒ2世、フランスが支援)の間で争いがおきました。[16]そして、その結果として、ブヴィーヌにて、ドイツ王(オットー4世)・フランドル伯・イングランドとフランス(フィリップ2世)の間で戦争が行われ、結果としてフランス側の勝利に終わりました。[17]この結果としてフリードリヒ2世が即位し、またシュタウフェン家とカペー家の絆は固いものとなりました。[18]

しかしその後、ドイツは大空位時代を迎えることとなります。[19]その一方で、フランスではフィリップ4世が即位したのですが、この頃両国間で領土問題が生じることになります。[20]実は、ドイツはヴェルダン条約での土地憲章を逸脱した形で、領土を獲得しており、フランスはそれに対抗しようとしたのです。[21]ただ、フランスはこの際、武力ではなく裁判制度を用い、国力・裁判制度ともに不十分であったドイツはそのソフトインベージョンに対抗することができませんでした。[22]

4 14~15世紀

ところが、14世紀にカペー朝からヴァロワ朝に王朝が移ってからは、特に領土問題に関する動きはなく、これは14世紀・15世紀を通じていえたことでした[23]。その代わりに、この14・15世紀の仏独の王朝関係を特徴づけるものとして、「イギリス」の存在が挙げられます。[24]中世後期のヨーロッパでは、イギリス側とフランス側の二陣営にわかれており、ドイツはそのいずれかの陣営についたり、はたまた中立な立場を表明するなどしました。[25]そうした中で、教会大分裂(1378〜1417)が起こり仏独両国が悩まされることとなりますが、この大分裂問題が解決して以降は、両国の間で大きな紛争は起きませんでした。[26]むしろ、両国の間に連帯を覚えさせる出来事が起こります。[27]ドイツとフランスの間に「フランドル=ブルゴーニュ」という国家が出現したのです。[28]これは両国にとって、共通の危険・脅威とともに、843年の土地憲章の復活を意味しており、このことによって長らく忘れていた過去の絆を思い出させることとなったのです。[29]

5 16世紀

それでは、16世紀へと参りましょう。16世紀の仏独関係を語る上で、まず言及すべきことは皇帝権争いでしょう。フランス王であるフランソワ一世とカルロス一世が1515年にドイツ皇帝をめぐって争います。[30]そして、最終的には後者のカルロス一世がカール5世として即位することとなりますが。[31]その後もカール5世(ハプスブルク家)とフランソワ一世・アンリ2世(ヴァロワ家)はヨーロッパでの覇権争いを行います。[32]ここで留意すべき点は、「ドイツの人々の中にはフランス側についた者もいた」ということでしょう。例えば、フランスにいたドイツ人傭兵やドイツ出身の銀行家が挙げられます。[33]

このように、16世紀の前半には両家間で激しい戦いが繰り広げられましたが、16世紀後半においてはカトリックとプロテスタントの宗教戦争へと舞台が変わります。[34]特にフランスではプロテスタント側がユグノー党を結成し、ドイツ人と連携しようとしました。[35]ですが、1555年のアウクスブルクの宗教和議で平和がもたらされていたドイツは、それほど積極的に関わろうとはしませんでした。[36]

6 17世紀

それでは17世紀の世界へと参りましょう。この時代においてまず特筆すべきは30年戦争でしょう。[37]この戦争においてフランスはスペインに宣戦布告し、同時にドイツとも戦端が開かれます。[38]最終的にはドイツの方が敗北し、1648年にウェストファーレン条約が結ばれて集結し、フランスはドイツから「メッツ・ヴェルダン・トゥルの三司教領、アルザスの大半」を獲得します。[39]ここで見逃してはいけないのは、「アルザス」です。神聖ローマ帝国成立以降700年間ドイツに帰属していましたが、このウェストファリア条約を通じてドイツの手を離れ、フランス王国の懐に入ることとなります。[40]そして、以降アルザスは仏独紛争の元となりつづけることになります。[41]またこの条約締結後、ドイツ帝国は弱体化する一方で、絶対王政を基礎として近代国民国家形成に向かうフランスやイギリスが台頭するようになります。[42]ドイツ弱体化の要因としては、「帝国」の無力化と帝国都市・聖俗諸侯の権威向上、つまりドイツという国が帝国・領邦国家の二元構造になってしまったことが挙げられます。[43]このような状態では、国としての意思決定がなかなかなされなかったり、国としてのまとまりが保てなかったりして、政治的に不安定になることが考えられます。そして、こうしたドイツの弱みをついて自国の利益のために利用しようとしたのがフランス(ルイ14世)です。[44]

ルイ14世は、シャルルマーニュの正統なる後裔を自称し、カロリング帝国の再興を目指します。[45]そのため、国境修復・領土拡張政策を裁判システムで行おうとします。[46]ただ、彼はフィリップ4世とは違って武力行使を躊躇うことはありませんでした。[47]その象徴例としてスペイン継承戦争が挙げられます。[48]この戦争では、スペイン王の継承をめぐってフランスとドイツが戦います。ところで、この戦争においてドイツ側として戦った武将に、非常に印象深い人物がいるので紹介しようと思います。その人物は、プリンツ・オイゲンという名前なのですが、なんと彼はフランス人なのです![49]当初はルイ14世のもとにいたのですが、不興を買ってしまい、レオポルト帝(ドイツ皇帝)のもとに参じたのでした。[50]それでは、話を戻しましょう。最終的にこのスペイン継承戦争はユトレヒト条約とラシュタットの和約が結ばれて終結します。[51]

ところで、ルイ14世の時代において忘れてはいけないのが、フランス文化のドイツへの流入です。[52]これは、フランスのユグノーがドイツへ亡命してきたことによるものでした。[53]確かに、彼らは16世紀後半の宗教戦争以降、ドイツへ流れてきていましたが、リシュリュー・ルイ14世の抑圧策により、その移動は加速したのです。[54]こうした中で、一部の反発はあったとはいえ、フランス語を話すことが上流階級にとってシックになることすらあったのです。[55]

7 18世紀

それでは、18世紀へと参りましょう。フランスでは18世紀初めにルイ14世が亡くなった一方で、ドイツではプロイセンが台頭し始めます(1701年に王国成立)。[56]18世紀においては仏独間で目立った争いはなく、むしろ他の争いに巻き込まれていくという状況でしたが、一つ将来のドイツにとって重要な意味をもつこととなった仏独間での争いを紹介しましょう。[57]それは7年戦争です。[58]この七年戦争中、時のプロイセン王フリードリヒ2世は、ロスバッハにて帝国軍とフランス軍を破ったのですが、これはドイツ人にとって新たな国民精神を示す契機となったと言われています。[59]ルイ14世の威光の中で感じてきた劣等感が吹き飛び、ナショナリズムが登場したのです。[60]これにより、ドイツ人の間では「プロイセン王にたくしてドイツ統一をしたい」という思いが生まれることになります。[61]

ところで、ここで一つ余談をしようと思います。先ほど触れたフリードリヒ2世ですが、彼は極めてフランスかぶれであったと言われています。[151]彼はフランス語を重用し、フランス出身のヴォルテールやディドロと積極的交流しました。[152]さらに、ポツダムに「サン・スーシ宮殿」を建設しました。[153]サン・スーシというのは「憂なし」を意味するフランス語ですね。 

ポツダムにあるサン・スーシ宮殿

(下の写真を見ると”sans souci“の文字があるのがわかります。)

それでは話しを戻しましょう。18世紀末、フランスではフランス革命が起きます。この革命、当初は国内のみでとどまったものだったのですが、ヴァレンヌ逃亡事件を通じて、国際化=ヨーロッパ化します。[62]実際に、この事件をきっかけに危機感を強めた神聖ローマ皇帝とプロイセン王はピルニッツ宣言を行い、フランス君主制救済の共同行動要請をアピールします。[63]しかし、これは逆に革命派を刺激し、戦いが起きることになります。[64]ヴァルミーの戦いでフランスがオーストリア・プロイセン連合軍を破って以降、フランスの大陸制覇戦争へと変容して行きます。[65]こうした戦いの連続においてドイツは惨憺たる状況にありました。まず、1795年のバーゼルの和約でプロイセンがフランスと単独講和をし、フランスはライン左岸を獲得します[66]。1790年代後半になると、ナポレオンが頭角をみせ初め、それに対してドイツ軍は敗北を重ねます(カンポ・フォルミオ(1797)など。)。[67]また、フランスの介入でドイツにおける伝統的な領邦国家体制が大変換されたり、南西ドイツの弱小領邦がナポレオンによって優遇され、結果としてライン同盟が形成されたりします。[68]

8 19世紀 

そして、ドイツにとって大きな節目となる1806年がやってきます。この年に、オットー大帝のローマ皇帝戴冠(962)以来存続してきた神聖ローマ帝国が消滅します。[69]消滅する以前からその領土の多くがナポレオンの支配下にあったのですが。[70]また、同年には先ほど言及したライン同盟の成立や、ナポレオンのベルリン入城などがありました。[71]このようにして、ドイツは1814年までナポレオン・フランスによって支配され、これはドイツ人にとって「民族的恥辱」でした。[72]また、プロイセン王国ですらイェーナの戦いで敗北し、ティルジットの和約(1807)によって多くの領土を失い、さらには賠償金・軍備制限などが課されます。[73]このようなナポレオンのあまりの専制・独裁ぶりによって愛国主義的精神が昂揚し、ドイツ人一般に「プロイセンをつうじたドイツ」という気運が生まれるようになりました。[74]ただ、その一方でドイツにとってメリットとなることもあったようで、例えば国家と社会の近代化が挙げられます。[75]

しかし、このようなナポレオンの支配も終焉を迎えることになります。ナポレオンの独裁ぶりに堪忍袋の尾が切れたプロイセンは、ロシア・オーストリア・スウェーデンと同盟を組み、1813年のライプツィヒの戦いでフランスに勝利します。また、バイエルンやバーデンがフランス側の戦線から離脱し、ライン同盟も瓦解します。

その後、第一次パリ条約(1814)によりナポレオンはエルバ島へ配流されてブルボン朝が復活し、仏独国境は1792年の境界に戻されます。[76]そしてウィーン体制が確立して以降、一方はドイツ連邦から北ドイツ連邦を経てドイツ帝国へ、かたやもう一方は王政復古、共和政、第二帝政へと、仏独はそれぞれ別の道をたどることになりますが、そのプロセスにおいて1870年までの仏独関係の争点となるのは、ライン左岸でした。[77]実際に、7月革命(1830)後のルイ・フィリップによる立憲王政において、矛先がお互いの方へ向いた形で仏独双方において愛国主義が広がっていたのですが、その対立の過程でライン国境は役割を果たしていたのです。[78]

それでは次に、19世紀後半の仏独関係についてみて行きましょう。フランスでは、1848年に二月革命が起き、これによって短命の第二共和政が成立したのち、ナポレオン3世の元第二帝政へ移行します。[79]彼はクリミア戦争(1853)に勝利して帝国の威信を高め、イタリア戦役(1859)でも勝利し、フランスの威光をさらに高めることとなった。[80]ここで留意すべきは、フランスがニースとサヴォイアを併合したことで、かつての自然国境説が頭に浮かび、次はライン沿岸を攻めるのではないか、という不安をドイツ世論が思い始めた、ということでしょう。[81]また、このようにナポレオン3世の威信が拡大したことで、ドイツの資本主義的発展と近代的統一を図るプロイセンにとって、外圧をもたらしうるフランスが障害となります。[82]また、ビスマルク(プロイセン)は北ドイツ連邦(プロイセンはここに含まれる)と反プロイセン感情をもつ南ドイツ諸国を統合してドイツ統一を完成させようとしていたのですが、そのために必要となるドイツ民族意識の醸成のために、外圧であるフランスの脅威を利用できないものか、と考えていました。[83]

そうした中で、フランスとの間でスペイン王位継承問題がおこり、これが火種となって普仏戦争が起こります。[84]結果としてはプロイセン軍が圧勝したのですが、同時に特筆すべきこととして、プロイセンは南ドイツとともに戦争を行なったということが挙げられます。[85]その後フランクフルト条約が結ばれたのですが、これはアルザス=ロレーヌ地方のドイツへの移譲や50億フランの支払いなどが含まれており、フランスにとっては過酷な内容でした。[86]さらに、普仏戦争でともに戦ったプロイセンと南ドイツ諸国はドイツ帝国の成立を宣言し、統一国家を作ったのですが、この宣言はなんとヴェルサイユ宮殿で行われたのです。[87]このような仕打ちを受けたフランスがドイツへ大きな恨みをもつようになったのはいうまでもありません。[88]

9 普仏戦争〜第一次世界大戦

それでは、普仏戦争から第一次世界大戦までの両国関係を見てみましょう。普仏戦争終了後のフランスの対外政策の目標の一つに「ドイツに対する復讐」であったり、以下のようなドイツ側の言葉がのこっていたりすることからもわかるように、両国関係はあまり良くなかったようです。

1886年12月18日:ビスマルクの、ウィーン駐在ドイツ大使ハインリヒ・ルイスへの言葉:

「我々は、フランスとの戦争をかなり切迫したものと考えており、」[89]

 1895年6月18日:ドイツの駐英大使ハッツフェルトが本国外務省の実力者であるホルシュタインにあてた電報:

 「〜ヨーロッパでの重大な危機の際にはいつでも、とくに我国とフランスのあいだに紛争が切迫するようなことがある場合はとくに〜」[90]

このように、政治的な側面では明らかな対立が存在していましたが、経済の面では平和的な共同が行われていたのも事実です。[91]例えば、ベンツやダイムラーは1880年代にフランス人同業者と提携しており、またシュネーデルが設立したアルジェリアの鉄鉱山開発会社にはクルップやティッセンが資本参加していました。[92]

こうした、部分的な平和関係を破綻させたのは、1905-6年と1911年の二度のモロッコ事件に代表されるモロッコ問題でした。[93]以前から帝国主義の展開とともに、両国が対立すべき要因が顕在化していたが、これらの事件を通じて尖鋭化したのです。[94]

 そして、第一次世界大戦が起こります。この1914年から1918年まで続いた戦争で、ドイツは同盟国側として、フランスは連合国側として戦い、敵対することになります。[95]この戦争中には、ヴェルダンの戦い(フランスは31万5千人、ドイツは28万1千の死傷者)やソンムの戦い(フランス軍42万、ドイツ軍45万の犠牲者)といった非常に凄惨な戦いが行われました。[96]そして、この悲惨な戦争は、ドイツ共和国臨時政府の権力を掌握した社会民主党のエーベルトが1918年11月11日にフランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結んだことで、終了しました。[97]

 1919年1月18日からパリ講和会議が始まり、6月28日にヴェルサイユ宮殿でヴェルサイユ条約が結ばれます。[98]この条約では、フランスによるドイツに対する報復という面が強く現れ、ドイツには海外領土放棄・軍備制限・賠償金(1320億金マルク)・アルザス=ロレーヌのフランスへの返還が課されることになり、ドイツの強い不満をもたらすこととなります。[99]

1918年11月にアルザス・ロレーヌがフランスにもどった旨が書かれてある。休戦協定の年月日に合わせたものと思われる↓(凱旋門の下にて)

また、このドイツにとって屈辱的な条約が結ばれたヴェルサイユ宮殿という場所が、普仏戦争後にヴィルヘルム一世が戴冠式を行った場所でもあるということは、特筆すべきことでしょう。

10 戦間期

それでは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代を見て行きましょう。国土の多くが戦場となり、多くの死傷者を出したフランスは、強い対独復讐心を持っていました。[100]そのため、1923年にはポワンカレ右派内閣がドイツの賠償金支払いの延滞を口実に、ドイツ有数の工業地域であるルール地方を、ベルギーとともに占領し、これによってドイツ側の反仏感情も高まります。[101]ところが、1924年にはエリオ急進社会党内閣が成立し、対独姿勢に変化が見られるようになり、例えばブリアン外相はドイツと協調外交を展開し、1925年にはルール占領を終わらせます。[102]そして、同年にはドイツ・フランスなどのヨーロッパ国家間で、ロカルノ条約(ドイツとベルギー・フランスの国境維持、相互不可侵、ラインラインとの非武装化などを約束した)が締結され、1926年のドイツの国際連盟加盟とともに、発効します。[103]また、ドイツの賠償金支払いに関する合理的方法が決まるなどし、独仏関係は安定します。[104]

しかし、1930年代に状況は一変します。世界恐慌などを通じて、ドイツではナチスが出現したのです。[105]彼らの対外政策の目標こそフランス打倒に限られるものでありませんでしたが、ドイツ軍部の対仏復讐意識とヒトラーの膨張主義的対外綱領は「フランスを軍事的に崩壊させる」という点では一致していました。[106]その後、1932年のジュネーブでの一般軍縮会議においてドイツは軍備平等権を提出し、フランスの安全保障要求とは真っ向から対立する形ではありましたが、そのままヒトラーの意のままとなります。[107]そして、ナチス・ドイツは国際連盟と軍縮会議から脱退し、以後のフランス外交はナチスの強硬策に一歩一歩譲るような感じになって行きます。[108]

11 第二次世界大戦

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界対戦が始まり、それに伴って9/3には英国とフランスがドイツに宣戦布告します。[109]そして、1940年5月10日にはドイツがフランスに向けた侵攻を開始します。[110]その後、同年6月22日にはドイツとフランスの間で休戦協定が結ばれ、国土の北半分はドイツに占領され、南部の都市ヴィシーにはいわゆる裏切り者政権が設立されます。[111]

フランスが休戦協定を行う4日前にド・ゴールが行った演説の内容↓(凱旋門の下にて)

ここで、その休戦協定にまつわる逸話をお話ししましょう。実はこの休戦協定、第一次世界大戦の休戦協定と同じ場所(コンピエーニュの森)そして同じ鉄道客車で、調印されたのです。[112]話しを戻しましょう。占領下のフランスでは、ドイツへの抵抗運動が行われていた一方で、ナチスに屈した勢力はヴィシー政府のもとに対独協力政策を進めました。[113]しかし、この支配も長くは続きません。1944年8月末にフランスは解放され、1945年5月7日にドイツはランスで西側連合国に、5月9日にはベルリンでソ連に無条件降伏をし、ヨーロッパでの第二次世界大戦は終結しました。[114]

仏独関係には直接関係しないが、ノルマンディー作戦で有名なオマハビーチ↓(バイユー近郊にて)

12 戦後

それでは無条件降伏後の独仏関係を見て行きましょう。まず大前提として、ドイツは、自国領土における主権行使を米英仏ソの四ヵ国政府の手に掌握され、完全に連合国占領政策の客体となりました。[115]したがって、大戦終結直後の関係はフランス側の対独占領政策とそれに対するドイツの受動的な反応としか捉えられません。[116]

それでは、戦後のフランスのドイツ構想はいかなるものだったのでしょうか?その構想は「大戦中の米英ソによるフランス無視に対する反発」「ドイツ侵略の危険性の防止」という二つのアイデアに分けることができます。[117]まずは前者についてです。当初、フランスは自国の占領地において、他国占領地帯でのそれとは著しく異なる措置をとっていました(ドイツ住民の政党活動に対して長期にわたり多大な規制など)。[118]1949年4月にかつて強く反対していた米英地帯経済結合に加入し、以降米英と歩調を合わせた対独政策を行うことになりますが。[119]

これはポツダム会談が行われたツェツェリエンホーフ宮殿だが、確かにアメリカ・ソ連・イギリスの国旗しかない↓

また、後者に関しては主に二つの方針に分けることができます。[120]それは、①中央集権国家阻止と連邦体②ラインラント・ルール・ザールがフランスの安全保障上とくに重要として、ドイツ主権からの切り離し です。[121]それではそれらに対するドイツの反応とはどのようなものだったのでしょうか?当時のドイツでは、CDU/CSUとSPDの二大政党が存在しいたのですが、双方の政党の反応を分けて見て行きましょう。[122]SPDは基本的には反仏の態度を示しました。より具体的に述べると①州権拡大要求(SPDは伝統的に中央集権の主張に立っていたので)②ドイツ人に対する政党活動への制限(フランスのSPDへの強硬策がもと)③ルール・ライン分離 の三点に反対していました。[123]それでは、CDU/CSUはどうだったのでしょうか?CDU/CSUの中央的指導権は英占領地(ヴェストファーレン)CDUの指導者によって掌握されるようになったのですが、この地域の伝統的な風土から、比較的親仏的な態度を示しており、また新党指導者となったアデナウアーもまさにそのような人物でした。[124]ライン左岸・ルール・ザールのドイツからの分離には対抗していたそうですが。[125]こうした中で、最終的には、ルールに関しては領土的対独分離を認めず、フランス単独の対ルール特殊権益もなしということで収まった一方で、ザールに関しては経済・通過・関税・外交に関してフランスと統一されることが決まりました。[126]また、1948年7月以降は、フランス外交の責任者となったシューマンがヨーロッパ主義者として独仏協調を推し進めたので、フランス国内の対独強硬占領政策の主張は1949年には著しく弱まります。[127]

そうしているうちに、連合国高等弁務官府による主権制限下におかれた半占領国家としてではありますが、1949年には西ドイツ国家が成立し、1955年にパリ協定が発行することで、西ドイツは主権を回復します。[128]さて、この間の仏独関係を語る上でのトピックとしては①シューマンプラン交渉②ザール問題③西独再軍備方式をめぐる交渉の三つが挙げられます。[129]それでは、一つ一つ見て行きましょう。シューマンプランとは、戦間期から超国家的もしくは擬似国家的な国際機構に身を置いていたモネのアイデアに基づいて、フランスの外相であるシューマンが発表した、フランス・西ドイツなどで石炭・鉄鋼を共同管理する提案です。[130]そして、このシューマン・プランを、ともに仏独国境地帯出身のアデナウアーとシューマンが推進し、ECSCが成立します。[131]これによって仏独両国は石炭鉄鋼という基本的な軍事物資を共有するようになり、敵対関係の緩和に繋がりました。[132]また、1958年にはEECやEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)も成立しました。[133] 次にザール問題についてみていこうと思います。先程も述べた通り、経済・通過・関税・外交に関してはフランスと統一されることになったのですが、1957年1月1日をもってドイツの一州となります。[134]それでは、それまでの過程についてみて行きます。1954年、フランスがザールで積み重ねてきた既成事実の法的承認を目指すザール協定が独仏両政府の批准をへて成立します。[135]しかし、ザール住民による投票では反対多数となってしまいます。[136]つまり、この投票によってザールでの親独勢力の勝利とザール住民のドイツ帰属意識の優勢が示されたのです。[137]これを受けて、フランスは従来のザール政策を放棄し、独仏間交渉再開によるザールのドイツ復帰という方向で解決へと進んでいくこととなります。[138]そして、1957年にドイツへ復帰します。[139]最後に西独再軍備方式についてみていこうと思います。この議論は、「欧州軍備構想」の可否、という、プレヴァン仏首相が、ナチス・ドイツ敗北の五年後の西ドイツ再軍備はフランスではきわめて不人気であるということを踏まえて、明らかにした事柄めぐって展開します。[140]そして、1951年のパリ会談で欧州防衛共同体案に煮詰められ、1952年5月27日にパリとボン調印されます。[141]

それでは次に、1963年までの両国関係について見て行きましょう。1955年から1959年の間には、コロンべ会談、マリ・ル・ロワ会談などの会談こそ行われ、「独仏友好」がスローガンに挙げられこそしましたが、それを体現する政策が取られることはありませんでした。[142]むしろ1960年は、ヨーロッパ新組織化をめぐった論争で、確執の年となります。[143]しかし、1963年に転機が訪れます。仏独協力条約(エリゼ条約)が結ばれたのです。[144]この条約は、長期にわたって繰り返されてきたドイツとフランスの対立に終止符をうち、両国の和解と友好、さらに欧州統合を推し進めるために結ばれ、そしてこの条約に基づいて、独仏首脳会談の定期的な実施・両国の青少年交流が実現し、両国の協力関係は大きく改善しました。[145]

最後にドイツ統一時期とそれ以降の両国関係についてみてきましょう。当初フランスはドイツの統一に対して賛成の立場を示していたのですが、8000万人の人口をもつ統一ドイツが隣に出現することを恐れるあまり、フランス外交はそれまでの方針を転換させ、結果としてドイツの信頼を失うことになります。[146]また、ユーロの創設・共通外交・安全保障政策でドイツを束縛する意図を露見させたり、ドイツへの恐怖心からアメリカ圏内に参加(湾岸戦争の参加)したりします。[147]こうしたことを受けて、1990年代半ばには仏独間の特別な関係は実質的に内容を失ったように思われていました。[148]ですが、結局は対話を再開する方向へと導かれていくことになります。[149]

最近においても仏独間の協調を感じさせるできごとは起きています。例えば、2019年にはアーヘン条約により、共同の軍事文化、共同防衛及び武器産業の契約が締結され、またコロナ禍では、新型コロナで打撃をうけたEU加盟国の景気回復に向けた5000億ユーロ規模の基金を立ち上げる計画が、両国によって行われました。[150]

 

 お読みいただきありがとうございました!

来週はMinoriが、アフリカを中心としたフランコフォンについて書いてくれます。お楽しみに!

 

[1] 宇京『仏独関係千年紀』一般財団法人法政大学出版局、2014年 6p・13p・29p

[2] 同上、13p

ただ実際には、その前年のストラスブールの宣誓にて、ゲルマニア王ルートヴィヒ2世ドイツ王とフランス王シャルル2世禿頭王が誓いを交わした際、前者はチュートン語(ライン・フランク方言)で、後者はロマン語(俗ラテン語と初期フランス語の中間)で演説を行ないました。(同上、14〜15p)このことは、ヴォージュ山脈の西側と東側で既に言語的分岐が進行していたこと、仏独の原型が形成されていたことを物語っています。(同上、15p)

[3] 同上、31p

[4] 同上、32〜33

[5] 同上、 33p

[6] 同上、33p

[7] 同上、57p 

[8] 同上、57p〜58p

例えば、当時のフランスのイギリスのプランタジネット朝との軋轢は大きなものでした。同上、57p

[9] 同上、60p

[10] 同上、70p

[11] 同上、62〜63p

[12] 同上、73p

[13] 同上、73p

[14] 同上、73p

[15] 同上、75p

[16] 同上、75p

[17] 同上、76p

[18] 同上、77p

[19] 同上、78p

[20] 同上、81p

[21] 同上、82,83p

[22] 同上、82p

[23] 同上、88・96p

[24] 同上、100p

[25] 同上、100・102・103p

[26] 同上、103〜104p

[27] 同上、104p

[28] 同上、104p

[29] 同上、104p

[30] 同上、143p

[31] 同上、143p

[32] 同上、144p

[33] 同上、147p

彼らはカール5世へ強い不満を抱いていました。  同上、p147

[34] 同上、167p

[35] 同上、168p

[36] 同上、165・169p

[37] 同上、181p

[38] 同上、183p

[39] 同上、183〜184p

[40] 同上、188p

[41] 同上、184p

[42] 同上、190p

[43] 同上、192・195p

[44] 同上、193p

[45] 同上、195p

[46] 同上、195p

[47] 同上、195p

[48] 同上、197p

[49] 同上、199p

[50] 同上、199p

[51] 同上、202p

[52] 同上、204p

[53] 同上、208p

[54] 同上、208p

[55] 同上、211〜212p

このころ、フランス語からいくつかの言葉が借用されました。

例)Mode,Parfüm,Serviette,Hotel,Tante..

ただ、ドイツ語からフランス語への流入もあり、例えば以下のような語が挙げられます。

例)Quartz(石英)gangue(脈石)

同上、213p

[56] 同上、217〜218p

[57] 同上、217p

[58] 同上、226p

[59] 同上、226p

[60] 同上、226p

[61] 同上、p227

[62] 同上、263p

[63] 同上、263〜264p

[64] 同上、263p

[65] 同上、264p

[66] 同上、266p

[67] 同上、266p

[68] 同上、267p

[69] 同上、268p

[70] 同上、268p

[71] 同上、268p

[72] 同上、270p

ドイツ人は、ナポレオンの指揮のもとヨーロッパ各地で戦うことすらありました。

同上、270p

[73] 同上、272〜273p

[74] 同上、274p

[75] 同上、275p

[76] 同上、279p

[77] 同上、282p

[78] 同上、284・286p

[79] 同上、303〜304p

[80] 同上、306p

[81] 同上、306p

[82] 斉藤孝「独仏関係の史的回顧」、村瀬興雄『現代独仏関係の展開』財団法人日本国際問題研究所、1970年、2p

[83] 宇京、前掲書、310p

[84] 同上、311p

[85] 同上、311p

[86] Rekisiru「普仏戦争(プロイセンフランス戦争)とは?原因や経緯、勝敗、与えた影響などをわかりやすく解説」2021年3月7日(https://rekisiru.com/7104、 2021年3月3日閲覧)

Rinto「フランスとドイツの関係性を決定づけた「普仏戦争」とは?わかりやすく解説」(https://rinto.life/113546/3#h216、2021年3月4日閲覧)

[87] Rekisiru、前掲(webサイト)

[88] 同上

[89] 三宅正樹「ドイツ第二帝制期における外交と軍部-ヒルグルーバーの新著を中心として-」『明治大学社会科学研究所紀要』20、明治大学社会科学研究所、1982年、25p(https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/12673/1/shakaikagakukiyo_20_3.pdf、2021年3月2日閲覧)

[90]同上、11p

[91] 宇京、前掲(論文)、317p

[92] 同上、317p

[93] 同上、317p  斉藤、前掲(論文)、6p

[94] 斉藤、前掲(論文)、6p

[95] Y-History 教材工房「第一次世界大戦」( https://www.y-history.net/appendix/wh1501-011.html  、2021年3月5日閲覧)

[96] 同上

[97] 同上

[98] 同上

[99] 同上

[100] weblio「フランス第三共和制」(https://www.weblio.jp/wkpja/content/フランス第三共和政_戦間期(1919-1939) 、2021年3月5日閲覧)

[101] 同上

[102] 同上

[103] 同上

[104] 斉藤、前掲(論文)、8〜9p

[105] 同上、9p  weblio、前掲(webサイト) 

[106] 斉藤、前掲(論文)、9p

[107] 同上、10p

[108] 同上、10p

ただ、フランス側も全くの無策であったわけではなく、主に以下の三つの対抗策を行いました。

  • イタリア・イギリスとのストレーザ戦線
  • 中央ヨーロッパ諸国の小協商との関係強化によるドイツへの圧力
  • 仏ソ相互援助条約

ですが、①に関しては、ソ連への牽制を狙うイギリスがナチスと英独海軍協定をむすんでしまうことで効力が薄れてしまい、また③を理由に、ドイツはラインラントに進駐しました。

weblio、前掲(webサイト) 

[109] UNITED STATES HOLOCAUST MEMORIAL MUSEUM 「ヨーロッパにおける第二次世界大戦」(https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/world-war-ii-in-europe、2021年3月8日閲覧)

[110] 同上

[111] 同上

[112] 財務省「75年前、戦火のフランスで交錯した二つの《日本》 (https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/201902/201902i.html 、2021年3月5日閲覧) 

[113] 斉藤、前掲(論文)、11p

[114]  UNITED STATES HOLOCAUST MEMORIAL MUSEUM、前掲(webサイト)

[115] 佐瀬昌盛「第2次大戦後西ドイツの対仏関係」、村瀬興雄『現代独仏関係の展開』財団法人日本国際問題研究所、1970年、47p

[116] 同上、47p

[117] 冨田理恵「対立から協力への独仏関係の変化」(http://www.cafefle.org/txtronbun/2006rbtomida3pjp.pdf、2021年3月8日閲覧)

確かに、大戦中・大戦直後の時期に、連合国政府は連合国としての対独政策を協議したが、フランスの参加が許されたのは1944年11月27日以後の欧州諮問委員会の協議のみでした。

佐瀬、前掲(論文)、51p

[118] 同上、48〜49p

[119] 同上、51p

[120] 柳田陽子「第2次世界大戦後のドイツ処理構想とフランス」、村瀬興雄『現代独仏関係の展開』財団法人日本国際問題研究所、1970年、34 p

[121] 同上、34p

[122] 佐瀬、前掲(論文)、52p

[123] 同上、51〜53p

[124] 同上、53〜54p

[125] 同上、54p

[126] 同上、49p

[127] 同上、51p

[128] 同上、56p

[129] 同上、56p

[130] 川嶋周一「エリゼ条約の成立と戦後ドイツ=フランス関係史(1)」『北大法学論集』、51(1)、北海道大学大学院法学研究科、2000年6月20日、277p (https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15005/1/51(1)_p259-313.pdf、2021年3月8日閲覧)

Y-History 教材工房「シューマン」( https://www.y-history.net/appendix/wh1602-066.html、2021年3月8日閲覧)

[131]  川嶋、前掲(論文)、277p

[132]  同上、278p

[133] 同上、278p

[134] 佐瀬、前掲(論文)、71p

[135] 同上、69p

[136] 同上、71p

[137] 同上、71p

[138] 同上、71p

[139] 同上、71p

[140] 同上、60p

平瀬徹也「西ドイツ再軍備問題とフランス」、村瀬興雄『現代独仏関係の展開』財団法人日本国際問題研究所、1970年、94〜95p

[141] 佐瀬、前掲(論文)、63p

[142] 川嶋、前掲(論文)、282・287・289

[143] 同上、303・308p

[144] 金融大学「仏独協力条約」https://www.findai.com/yogo001/0040y01.html、2021年3月8日閲覧)

[145] 同上

[146] ピエール・ベアール(三浦礼恒訳)「仏独同盟の発生から現在まで」(http://www.diplo.jp/articles04/0404-3.html、2021年3月8日閲覧)

[147] 同上

[148] 同上

1998年に政権についたゲアハルト・シュレーダーは「ドイツは普通の国になった」と宣言し、実際に同じ頃ジャック・シラクが大統領となったフランスでは、ドイツに目を向けない首相が相次ぎました。

同上

[149] 同上

[150] TRT「ドイツとフランスが『ドイツ・フランス協力統合条約』を締結」2019年1月22日(https://www.trt.net.tr/japanese/shi-jie/2019/01/22/doitutohuransuga-doituhuransuxie-li-tong-he-tiao-yue-wodi-jie-1130992 、2021年3月7日閲覧)

BBC「フランスとドイツ、59億円規模の補助金計画を発表 新型ウイルスからの経済回復」2020年5月19日(https://www.bbc.com/japanese/52717824、2021年3月7日閲覧)

[151] 宇京、前掲(書)、225p

[152] 同上、225p

[153] たびこふれ「ドイツ・サンスーシ宮殿」2016年7月29日(https://tabicoffret.com/article/2344/ 、2021年3月9日閲覧)