新しい発想に基づいたことをするとき、説明することに苦しむ。説明に苦しむから、協力者を得れない。自分一人の力では難しいから協力者が欲しい。しかし、プロジェクトに説得力がないから、協力者を募れない。悩みは尽きないものである。
この無限ループを打破するには、「場数を踏む」それだけだ。
「今世にある「価値」というのも、過去からの繰り返しによって、習慣の中から生まれてきたものですよね。繰り返されることで、習慣になり、価値になる。だから基本的に「繰り返すこと」「習慣をつけること」を自分たちは大事にしています。それしかないんじゃないかな。」 (アオキ祐キさん)
これは、路上生活者もしくは元路上生活者だった男性たちで結成されたダンスグループ「ソケリッサ」のダンサーであり振付師のアオキ裕キさんがインタビューで応じた言葉である。基盤のないところで活動を始動させ、人々への認知を広げてきた経験からの「長期的な実践」の提案だ。
未完成と分かっていながら、世に送り出す怖さ、恥ずかしさ。「アウトプット」が大事とわかっていても、ツッコミどころ満載だから、防衛本能働きまくりだ。わかっていることを言われるのは中々嫌なもので、勉強しようと思った時に「勉強しなさい!」と言われるのと似ている。
しかし、「芸術は場数」である。芸術に限らず、どんなプロジェクトも「機を熟して」なんて言わず、タイミングを自ら作り出し、ここから始動させよう。
因みに「この芸術は場数だ!」は、かの有名な岡本太郎が実際に発し、「芸術は爆発だ!」の語源になっている。どちらかというと、後者の方が有名ですよね。岡本太郎が「芸術は場数だ!」と言ったのに対し、記者が「場数」を「爆発」と聞き間違いして、このフレーズは生まれた。聞き間違いという不慮の事故を見逃がさず吸収してく岡本太郎。言葉による「アウトプット」が、人とのキャッチボールの中で新しい言葉を産んだ一例である。
案外、「失敗」なんていうものが1番の栄養剤なのかもしれない。想像できる範囲でしか、物事が起こらないなら、まだ何かの枠にハマっており、新しい試みとして自立できていないのかもしれない。予想できない中で、一つ一つの反応をキャッチして応えていく。そうして、雪だるまを転がして大きくしていくように発展させてはどうだろうか。
考え抜くだけ考えて、答えが出なかったら、あとは社会に揉ませて育てよう。家で寝かせても、美味しくならないのがアートだ。かく言う私も、練るに練って完成形が見えず発信してこなかった口。これからは「発信」、「アウトプット」、「実践」あるのみ。
どうぞよろしくお願いします。