「差別を許さない人」と「差別を許す人」との闘い


💐はじめに

#BlackLivesMatter

 私たちはこのムーブメントを受けてから、何時間も議論をしました。

 フェミニズムを、

「見た目や性別に関係なく、誰もが人として尊重される社会を目指したい考え」

と捉えている私たちだからこそ起こせるアクションがあるか。そしてそのアクションは10年後の社会を変えるがあるのか。

 そもそも、このムーブメントの本質は何なのか。

 この運動を私たちがどう解釈し、どう生活に生かすことで、より良い社会を目指すことができるのか。たくさん時間をかけ、丁寧に議論した私たちは、イムアイとしての一つの正解を提示するのではなく、メンバーそれぞれが等身大でこの運動と向き合って感じたことをイムアイというチームとして発信することにしました。

 ムーブメントをただの流行として消費せず、立ち止まって社会の現実に目を向ける

熱が冷めはじめた今発信することは、単なるムーブメントとして終わらせないための世間への抵抗

 というイムアイの姿勢も感じていただけると幸いです。 私たちが自分の複雑な思いを紡いだ文章が、皆さんとの新たな視点の共有や、改めて考えるきっかけになるよう願っています。




💐私が今考えていること

 まずいちばん初めに言いたいことは、私はフェミニズムと向き合っている人間として、黒人差別に反対の意思を示すアンチレイシストだということです。見た目、性別をはじめとした様々な属性に関わらず、全ての人が、ただ人として尊重される社会を切実に求めるために、イムアイとしての活動を行っているからです。


 #/BlackLivesMatter のハッシュタグが大きく出回り始めた頃、twitterで現地のデモの、ある一場面の映像が流れてきました。

https://twitter.com/avril24th/status/1267402211778113536?s=21


 死をもってでも今この理不尽に立ち向かうしかない、と暴力に訴えて本気で闘おうとする仲間を前に、「お前自身を危険に晒すのは何も解決しない」と、その仲間の行動が何一つ意味を成さないことを強く叫びながら諭す姿。

 しかし彼をその衝動へと突き動かす感情も怒り、無念、悔しさ、諦め、無力感で形成されていて、まるで自殺を自殺行為でもって止めるような残酷な状況。ひと通りの行動を起こしたからこそ状況が「何も変わっていない」ことを身をもって知っていて、「俺たちにはできないんだ」と叫びながら、さらに下の世代へと自らの痛みを説明する惨さ


 現在1200万回以上再生されているこの動画を見た時、私は息ができなくなるような気持ちが押し迫ってきました。そして泣きそうになって視界がぼやけても、現実を見つめるためには涙を拭いて、その動画を見続けなければならない苦しさに耐えられませんでした。

 この3人の熱いぶつかり合いに詰まっているメッセージが強すぎて、しばらく放心状態にいましたが、ゆっくり自分の中に浮き上がってきた感情は、この言い合いが意味する残酷性だったと思います。

 私はジェンダーの問題と向き合い続けた結果、声をあげることでしか現実を変えられないことを自覚して、今、このようにイムアイで発信活動を行っています。それは、自分が何らかのアクションを起こすことで、現状を変えられると信じて行っているという意思の表れでもありました。

 しかし、この動画を見て、それさえも自分は彼らと比べて恵まれている立場にいることを自覚し、自分でははかりしれない痛みを想い、より一層この黒人差別の問題の根深さを痛感しました。


 snsで流れてくる多くの黒人によるデモを見て、いくら通したい主義主張があったとしても、やはり暴力に訴えるのはよくないのではないか、そう考えた人もいるかと思います。ですが、そのように自分としてのスタンスを築く際に、自分と彼らが置かれている立場、つまり、

 抑圧されてきた歴史の延長線上を生きている彼らと、

 罪無き罪で突如銃口を向けられる恐怖に駆られたことのない自分自身の立場。

 その圧倒的な立場の差の存在にも、現実として目を向けること。

 そのようにして自分の正義感が誰かを傷つけるとなっていないか、自分との対話を通して、繊細な注意を払うこと。

 それが、同じ世界にいながら、彼らと共に痛みを知ることができない私たちができる、黒人差別との向き合い方のうちの一つだと思いました。そうしながら、人間の数だけ道理が存在することや、時と場合によっていくらでも揺らいでしまう正しさの不確かさに思いを馳せ、“正しさとは何か”がどんどん分からなくなることこそが正義をめぐる本質なのではないか、と考えました。




 一方で、この#/BlackLivesMatterのムーブメントの日本国内での広まりを受けて私が感じたことは、インスタの投稿をはじめとした何らかのかたちで黒人差別に反対の意思を表明した人は、全ての差別に反対の意思を持っているのではないかということです。

 今アメリカで起きている人種差別は、決して「黒人」と「白人」の闘いではなくて、「差別を許さない人」と「差別を許す人」との闘いだと私は思っています。


 この文章を読んでくださっているあなたが「黒人に対する差別を許さない人」なのであれば、あなたは「あらゆる差別を許さない人」なのではないでしょうか。


 「遠い国での出来事」だからと言って他人事として声を上げたのであれば、それは目の前の現実から目を背けていることと何ら変わりなく、とても残酷なことだと思います。


 日本には、国籍、性、障がいの有無、外見を始めとした多くの差別があふれています。

 ある属性において少数派だから「差別される側の人」で、多数派だから「差別する側の人」なんて存在しなくて、誰もが多くの属性を抱えていて、皆、差別を受ける可能性、差別をする可能性の両方と隣り合わせで生きているのだと思います。

 だからこそ、差別について考え、議論し、反対の意思を表明することまでが大切なのだと思います。

 そして、その意思表明をすることで、自分の居場所安全ではなくなる社会であってはならないこと。当事者意識が足りない社会は、いつまで経っても誰か一人が生きづらく、一人一人の意識が変わり、意思表明をしやすい社会をみんなでつくっていくことが最も大切であることだ、と改めて実感しました。

 もちろんこれからも、イムアイとしてそのような社会をつくっていくサポートをし続けるつもりです !

 引き続き、私たちをよろしくお願いいたします !


                     リサ