皆さん、お久しぶりです。
静木銀蔵です。
学部生最後の夏ももう終わりました。
卒業後就職する友人達との時間が残り短いことを時折感じ、少し寂しく思います。
僕は今夏、院試を受け、合格したみたいなので来年からは京大院の人間環境学研究科というところに進みながら、もう少し揺蕩んでいようかな、と思います。
今日は、そんな自分の専攻している学問とも絡んだお話。
では。
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僕は普段、自分の会社である(株)カタルシスの経営業務をしているが、月に数度バーテンダーとしても店舗にたつことがある。
うちの店は基本的に24時くらいまでの営業だ。
20時からの営業で、早くからお客さんが来ている日は夜飯を食い逃すことも多い。
そんな日には店を閉めた後、夜食を食って家に帰る。
「語りBar Katharsis」がある百万遍付近には、深夜空いてる店が3つ。
「すき家」「吉野家」「松屋」の牛丼3大チェーン店。
ローテ的にはすき家が多いが、先日ふと松屋に入った。
意外とカレーが美味いの知ってますか笑
カレーには味噌汁がついてくるのだが、お盆にはカレー用のスプーンしか乗っていない。
お箸も今のご時世テーブルには置いていないようだった。
「箸もらっていいですか?」
中国人のアルバイトのお姉さんに声をかける。
声をかけると、
お姉さんは「?」を浮かべてキョトンとしてる。
「箸、、、えと、これです!」
一緒に食っていた同僚の箸を指してそう言う。
すると、お姉さんは
「あ〜、オハシですね!!」とカタコトで納得し、箸を渡してくれた。
この事象が僕には、とても面白く思えた。
社会構成主義という思想の立場では、端的にいうと人間関係が現実を創る。
バーガーとルックマンによれば、全ての認識は、日常生活の常識扱いされ軽視されているものまで含めて、社会的相互作用を基にして構築され、維持される。
(難しそうですね、僕にも難しいのでWikiから取って来ました。
僕が所属する日本(?)という社会では、物事を丁寧に表現するときに語頭に「お」をつけるという常識がある。
食事をする際に使う二本の棒は「箸」であり、それを丁寧に言うと「お箸」になる。
しかしお姉さんが所属している松屋バイトという社会では、あの二本の棒は「オハシ」なのだ。丁寧も何もなく、あの二本の棒は「オハシ」という現実として彼女の前に立ち現れる。
彼女からしたら「オハシ」を急に「ハシ」と言われたのは、我々がいきなり、「リンゴ」を指して「ンゴ」と言われるのに近い、「???」な異質な出来事であったのかもしれない。
我々は多数の社会を構築しており、その社会において現実が構成されている。
彼女が所属している「中国語」社会ではあの二本は”筷子”だし、「松屋バイト」社会では”オハシ”なのだ。
単縦な呼び方でなく、彼女にとってはそれがあの二本の現実なのだ。
そして、彼女にとって『異質な僕(「日本」社会に所属する)僕との接触』によって、あの二本が「箸」という現実になった、のかもしれない。
全ての認識は、日常生活の常識扱いされ軽視されているものまで含めて、社会的相互作用を基にして構築され、維持される。
この文の意味がいくらか伝わりやすくなっていたら嬉しい。
全ての現実はそこに自明のものとして存在しているものではないのかもしれない。
今、あなたにとって自明ではない、あなたが認識できない現実。
それをあなたに立ち現してくれるのは、他との(上の言い方をすれば、自分が所属していない他の社会に所属するものとの)接触であろう。
そんな出会いが常起こる空間。
カタルシスはそんな空間や機会を提供し続けていたい。
それぞれの現実と非現実が交錯する空間、粋なバーですね