「山あり谷あり」

最終学年となり時間が経ち引退まで残り4ヶ月となりました。私自身、今までの挫折経験を踏まえて今感じることやこれからに活かしてやっていきたいと思っていることを振り返りながらお話ししていきたいと思います。

 私は三重県出身で、小学校の時は伊賀市という場所で育ち、小学生になり、上野東SSSというチームに2年生で入りました。正直、サッカーを始めた3年生の時には、6年生の試合に呼んでもらったりしてもらっていました。しかし、5年生の時には監督に「もうお前使うポジションないで」って言われるぐらい成長もなく、その当時は体格は大きいけど気持ちがすごく弱くて、県トレセンの選考会でも2年連続1次先行で落ちてました。自分より大きい選手と戦うと気持ちで負けてしまうことが多くあり、10番でキャプテンだけど、試合にすぐ交代してしまう情けない選手でした。その中で、当時の舞田監督はすごく基礎を大事にしていて、30分ドリブルやステップ練習した後もボールの持ち方やドリブルやシュートを徹底に練習し、基礎という基礎を大切にしていました。基礎が本当になかった自分でも厳しく、時には違うコーチの方とかにもしばかれたりして、試合中泣きながらサッカーしたりしていた時期もありましたが、それも良かったかなと今ではその時期を過ごしたから、県トレセン当時、一回も受かったことがない選手でも、現在もサッカー選手としてやっていけてるのは本当に監督の支えやコーチ達の支えがあったからだと感じてます。
 
 二つ目は、高校生になり大阪の近畿大学附属高等学校に進学した時の話です。一年生の時はすぐ膝の怪我が見つかり、二分膝蓋骨という、生まれつき膝の皿が割れてしまう膝の怪我が見つかりました。僕は両足の皿が割れていて、病院の先生も「両足は珍しい」と驚くほど珍しい怪我を背負ってサッカーをすることとなりました。その怪我が見つかってからはうまくサッカーと向き合うこともできなくなり、サッカーがあまり好きじゃなくなっていました。私生活も親元を離れて、祖父母の家で生活する毎日で、正直ホームシックだったり、ストレスで家で毎日のように泣いてました。それでも、近高のコーチは信じてサッカーと向き合う毎日を作ってくださり、一年生の時に、3年生のBチームの試合に数試合出してもらったり、3年生の時には、近大附属のエース番号10番をつけることになり、チームを背負うことや勝たすことが大切だなとすごく考える毎日で、去年関学のキャプテンの山本さんに毎日のようにLINEで話をしていたぐらいでした。その時に彼からは「自分なりに頑張れよ」と言われ、すごく気持ちが楽になったし、今でも大切にしている言葉の一つです。シーズンを通して、膝の痛みや、入院などを重ねて、チームをプリンス降格させてしまった代になってしまったけど、すごく楽しく、そして怪我やメンタル面で悩むことが多かった高校生活だったけど、色々な方の自分との向き合っていただいたり、信じてくれて乗り越えていけたなって思います。

 最後に僕は、誰かの支えなしではここまでやってこれなかったし、成長もなかったと思います。人生山あり谷ありって、あんまいい印象を持たないかもだけど、僕は一回もキラキラしたサッカー人生を過ごしてないし、サンガのセレクションに落ちたことや色々な挫折もまだまだあります。その経験があったからこそ、今の自分がいると思ってるので、良かったかなと今は思います。みんなもこんくらいプラス思考で行きましょう!ってことで、終わります!笑

 拙い文章で2回もブログを書くとは思いませんでしたが、僕なりの大学だけでなく22年の人生で学んだものです!ありがとうございました!
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