どうも、こんにちは、スーンのぺんです。
どう考えても胡散臭いメイン画像とタイトルを前に、この記事でとんでもなく怪しそうなことを書こうとしているんじゃないかと警戒心MAXでこの記事をご覧になられたみなさん、察しがよろしくて。今回の記事は大分長くなりますこと、お許しくださいませ。(ただ一つ言い訳をさせてもらえれば、この画像は選びたくて選んでるのではなく、というのも自分は自分自身を撮らない習慣がありまして、いざ記事を作らんと画像を探すと、公衆に陳列すべき画像が見当たらず云々。)
さて、今回はスーンと夢の関わりについて書かせていただきたいなと思います。自分の人生の目標は「誰かの得のために、誰かが損しない世界 」です。誰かがいい思いをしている裏で誰かが悲しくなってほしくない、そういった永年課題を僕は人生の中で追っているのです。
生きてるだけでも誰かが損する世界を作ってしまっている。現代社会においては既に残酷な社会構造が作り込まれてしまっています。一つ百円で買えてしまう物の裏で、いったい何人の子どもが労働搾取されているのでしょうか。
そんな現状を少しでも変えようと、大学一年生のとき私はボランティアを探していました。短絡的単細胞生物である私は「社会貢献=ボランティア」という枠に囚われ絡まれ、サークル新歓で彷徨っていたのです。
いざスーンを見つけ「こりゃあいい」と入会し、何かを与えるため日々活動を行っていました。
渡航が終われば「ああ終わった終わった。社会貢献した」なんて達成感にひたるつもりでした。
ところがどっこい、渡航後自分は大きな課題にぶつかります。自分たちの活動はいったい教育支援なのかと、そう思ってしまったのです。私たちが半年かけて作った授業を子どもたちに年に一度教えることで、彼らの教育水準はあがるのか。これは「支援している」といえるものなのか。私たちは何かの役に立ったのか。
この考えに追い打ちが来ます。あるラオスの活動家さんが、政府に拉致されたかもしれないというニュースをサークル同期から聞いたのです。同期がいうにはある講演会にて、「学がある人間はラオス政府に反抗してしまい、結果命が危ぶまれるかもしれない。教育支援はそういったリスクもはらむのだ」と、講師の方が仰っていたそう。私たちの活動はもしかしたら子どもたちを危険にさらしているのかもしれない、そう考えることもできるのです。
私のすべきことは何なのか、答えが見つからなくなってしまいました。
しかし、ある言葉で、そして思い出したある情景で気づかされます。
サークルの後輩が言うに、前回渡航で現地の先生が「スーンに会うために転校してくる子もいるのよ」と仰ったそう。
その話を聞いたときハッと思い出しました。自分が現地で活動している間、子どもたちが満面の笑みを浮かべていたこと。言葉もまともに伝わらない中、たくさん遊んだこと。授業中新しい発見に目を輝かせていたこと。
このことから私はある…気づきのようなものを得ることが出来ました。(語彙力の無さはこんなシーンで問題になるんですね、もっと本読みます)
一つ。ボランティアは何かを与えよう、という上から目線では活動はできないということ。上から目線のボランティアなんてちゃんちゃらおかしくて、そんなもの自分自身の満足に繋がるだけで、彼らのためになっているのかどうかが関係がない、ボランティアと呼べるものでは無くなってしまいます。あくまで「好きでやっているのだ、エゴなんだ」という自覚を持ち、子どもたちの目線で、学びの楽しさを共有することに大きな意味があるのだと気付きました。
二つ。一人の力で世界を変えるなんてできないということ。まして大学生、できることなんてほとんどない。でもこれは決してネガティブなことじゃありません。じゃあ、それなら、その限られた範囲で何ができるのか。何をすべきなのか。それを考えることが重要なのです。スーンの一人としてできることは、「楽しい学び」を子どもたちに伝えることだと私は考えています。少しの時間でも、「勉強って楽しいんだ」「こんなこともできるんだ」と子どもたちに感じてもらうこと。その一瞬のために、半年間全力を尽くすことが我々のできることなんだと思うようになりました。
三つ。長いよ、ごめんね、これ最後の気付きだから。最後は自分がもっと学ぶべきだということ。ラオスはどういう国なのか、なぜこういった教育をしているのか、どんな歴史があるのか。そんなことも知らずに入国して自分たちのやりたいことを押し付けているようじゃボランティアの本質は失われてしまいます。もしかしたら自分たちの活動が誰かを傷つけることにもなりかねません。まず学ぶこと。そして何が必要なのか、考えること。やりたいことをやることがボランティアでは無いのです。
私はスーンの活動を経て、「誰かの得のために、誰かが損しない世界 」のために、少しだけ自分を成長させることが出来たのかなと思います。この三つの気づき、これからも大事にしようと強く心の中で思っています。