1月3日の感想
山近代表の振り返り
石原莞爾(いしわら かんじ) 墓守
の歌川さん
豊田彫刻工房の動画。
あとオウム真理教を村から守った
村長さんの事を思い出していました。
志しを如何に自分の信念に変えて
日々の行動として変えていけるか。
その為に自分はどの様に振る舞うのか。を常に明るく
自然体で模索していきたいと思いました。
明日も楽しみしています。
ありがとうございました。
天明先生の詔(みことのり)
年賀状の挨拶を辞めてしまう方が
増えている。理由は高齢化、環境問題
(SDG's)、コロナ禍。と言われて
いました。
年賀状の始まりは平安時代の
「年始周りのご挨拶」から変遷
してきたもの。
コロナ禍であるからこそ結ぶ
だけでなく育む縁が大切になるの
でないでしょうか。との事でした。
人の営みの基本読み書き算盤
(そろばん)の機会がなくなる事
は人間力の衰えに繋がらない
のか。と心配するのは時代おくれ
なのでしょうか。若い人は
どのように感じるのでしょうか。
ありがとうございました。
小出潤(こいで じゅん)先生
教員となり6年目、生徒達
から熱すぎると敬遠され気味
で方向性に行き詰っておられ
た時に出会ったのが長州藩の
教育者吉田松陰(よしだ
しょういん)その人だった。
現代の若者は誇りがない。
やる気が無い。
辛抱が足りない。とか
私達大人は言うけれど、
それは日々の大人達を見て
若者たちが今の世の中において
その生き方が心地よいと感じている
からに他ならない。と思います。
そして松陰先生がおられた幕末の
混乱期にも大人達がどう生きたら
いいかがわからず幕府の戸惑いの
姿勢を変えようと国を創るのは
今を生きている君達なんだ!
と共に学び、寄り添い励ましたの
が松陰先生なのだ。思います。
その規範としてあったのが
士気七則(しきしちそく)でした。
日々を丁寧に過ごす中で志しを
立て、熱い情熱を持って、礼儀
正しく、疑問に学び、家族と国を
暮らしやすくする為に行動していく。
自分を最善の状態を感じて
それを知り命を使い切る。
事を説いたものだと感じました。
真面目がカッコ悪いとか熱すぎる
のが嫌とか僕にもありますが
動かない事には何も始まらない
のは誰か考えてもわかる事です
し、自分を楽しく毎日を暮らし
やすくするのは自分自身しか
わからないし、自分自身しか
いないのです。
もし、自分が誰かと協力して
何かをしないといけない時
どんな人となら楽しくできるのか。
そこから考えてみると士気七則
の価値が見えてくると思います。
困窮によって希望が見えなくなって
いる人の心の弱さに寄り添い
時には邪気を祓う芯の強さを
培うのが武士道。心構えだけで
なく、実際に自分出来ることに
模索する事で自分自身に希望が
沸く様に思いました。
ありがとうございました。
宮川典子(みやかわ のりこ)さん
ママの家事力を活かして、
秘書を育て収入を増やして生活を
よりよくしようと日々研鑽
(けんさん)[学び深める事]されて
います。
この一年の学びと気づきについて
お話し頂きました。
1.トライアンドエラーを繰り返し
成長して来られた。慎重派で
準備してから動くタイプだった
のが、動きながら次の事を出来る
ようになっている自分がいた。
とのお話しでした。
2.結果の出やすいところから改善
していく事で自分は勿論、
学んでおられる方にも心の余裕
が出来て成果を感じやすく
なった。
3.一つの目標にこだわりすぎない。
手段が目的にならない様に気を
つけられた事で目標への手段の
選択肢が増えた。
4.世界観を売る
今の不安を安心に変えるだけでなく
この技術や能力を身につけた未来の
ワクワク感をサービスとして提供
する。
今後について
夢アワードに参加して企業と
提携し支援者を募るとの事
でした。
転石苔むさず。常に秘書を
育てる志を持って試行錯誤
をつづけておられる宮川さん。
本年はどの様な気づきと更なる
成長をされるのか楽しみです。
宮川さんの現場での気づきは
とても勉強になります。
ありがとうございました。
池田珠生(いけだ たまお)さん
浅川金刀比羅神社
(あさかわことひらじんじゃ)の
神主をされておられます。
多摩御陵(たまごりょう)に
お入りなられている四人の方の
振り返りして頂きました。
大正天皇:嘉仁(よしひと)
優れた歌人であり、国民に
寄り添う公務をなさいました。
ご本人は病弱であったとされて
いますがお妃との間に四人の
お子様を設けておられます。
貞明皇后(ていめいこうごう)
大正天皇の奥様。お身体が
丈夫であった事が決めてとなり
大正天皇の妃に選ばれました。
ご子息の昭和天皇天皇が国際的
意向から神事を他人に任せようと
された時に厳しくお叱りになられ
ました。またハンセン病の擁護
にもお力を注がれた行動力のある
方です。
昭和天皇:裕仁(ひろひと)
玉音放送(ぎょくおんほうそう)
大東亜戦争は侵略の意図はなく、
植民地の解放が目的である事。
戦没者は勿論、怪我をされた方達
にも労いのお言葉を述べておられた
事。今後、日本の国と
世界の平和の為に国民と
共に邁進される事をお話しに
なられた。国民の涙の映像は
戦争に負けた悔し涙ではなく
昭和天皇のお言葉に対する
感動の涙であった。とお話し
頂きました。
香淳皇后(こうじゅんこうごう)
昭和天皇の奥様。いつも笑顔で
昭和天皇のお側におられ
昭和天皇も長宮(ながみや)と
呼ばれ仲睦まじくされていたと
お話しくださいました。
初の米国訪問の際に
ディズニーランドにて
見知らぬ子供が香淳皇后の
元へ行き皇后が膝の上に
抱えられパレードをご覧
になられたお話しは
とても微笑ましいお話し
でした。
また夜の晩餐会(ばんさんかい)
では潔く負けを認め謝罪され
戦後復興の感謝をのべられた。
この事に対して当時のニューヨーク
タイムズは「30年前のわだかまりが解かれ
日米が政治経済のパートナーとして再出発した」
と讃えた。
責任を追及するのでは無く
これからの現実的で建設的な
話をなさる事を教養として
肝に銘じておきたいお話し
でした。
ありがとうございました。
森里香(もり りか)さん
北辰一刀流千葉定吉の愛娘
千葉さな子さんのお墓のある
山梨県甲府市(やまなしけんこうふし)
の清雲寺(せいうんじ)より中継
頂きました。
十代で小太刀の免許を取得。
坂本龍馬(さかもと りょうま)の
婚約者
龍馬が江戸離れる際、片袖をちぎった話をありますが
実際は千葉家が結婚に向けて龍馬のために用意した
紋付を大切にした。とのことです。
と教えて頂きました。
2010年に、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年に結婚し
その後離婚したとする新聞記事が発見され、
生涯独身だったという説には疑問符もついている。
が数年で離婚。その後独身を
通している。
千葉家家伝のお灸を生業(なりわい)
[生計を立て]としていた享年59
お墓には坂本龍馬の正室と刻まれ
ています。
ありがとうございました。
山近代表の振り返り
石原莞爾(いしわら かんじ) 墓守
の歌川さん
豊田彫刻工房の動画。
あとオウム真理教を村から守った
村長さんの事を思い出していました。
志しを如何に自分の信念に変えて
日々の行動として変えていけるか。
その為に自分はどの様に振る舞うのか。を常に明るく
自然体で模索していきたいと思いました。
明日も楽しみしています。
ありがとうございました。
天明先生の詔(みことのり)
年賀状の挨拶を辞めてしまう方が
増えている。理由は高齢化、環境問題
(SDG's)、コロナ禍。と言われて
いました。
年賀状の始まりは平安時代の
「年始周りのご挨拶」から変遷
してきたもの。
コロナ禍であるからこそ結ぶ
だけでなく育む縁が大切になるの
でないでしょうか。との事でした。
人の営みの基本読み書き算盤
(そろばん)の機会がなくなる事
は人間力の衰えに繋がらない
のか。と心配するのは時代おくれ
なのでしょうか。若い人は
どのように感じるのでしょうか。
ありがとうございました。
小出潤(こいで じゅん)先生
教員となり6年目、生徒達
から熱すぎると敬遠され気味
で方向性に行き詰っておられ
た時に出会ったのが長州藩の
教育者吉田松陰(よしだ
しょういん)その人だった。
現代の若者は誇りがない。
やる気が無い。
辛抱が足りない。とか
私達大人は言うけれど、
それは日々の大人達を見て
若者たちが今の世の中において
その生き方が心地よいと感じている
からに他ならない。と思います。
そして松陰先生がおられた幕末の
混乱期にも大人達がどう生きたら
いいかがわからず幕府の戸惑いの
姿勢を変えようと国を創るのは
今を生きている君達なんだ!
と共に学び、寄り添い励ましたの
が松陰先生なのだ。思います。
その規範としてあったのが
士気七則(しきしちそく)でした。
日々を丁寧に過ごす中で志しを
立て、熱い情熱を持って、礼儀
正しく、疑問に学び、家族と国を
暮らしやすくする為に行動していく。
自分を最善の状態を感じて
それを知り命を使い切る。
事を説いたものだと感じました。
真面目がカッコ悪いとか熱すぎる
のが嫌とか僕にもありますが
動かない事には何も始まらない
のは誰か考えてもわかる事です
し、自分を楽しく毎日を暮らし
やすくするのは自分自身しか
わからないし、自分自身しか
いないのです。
もし、自分が誰かと協力して
何かをしないといけない時
どんな人となら楽しくできるのか。
そこから考えてみると士気七則
の価値が見えてくると思います。
困窮によって希望が見えなくなって
いる人の心の弱さに寄り添い
時には邪気を祓う芯の強さを
培うのが武士道。心構えだけで
なく、実際に自分出来ることに
模索する事で自分自身に希望が
沸く様に思いました。
ありがとうございました。
宮川典子(みやかわ のりこ)さん
ママの家事力を活かして、
秘書を育て収入を増やして生活を
よりよくしようと日々研鑽
(けんさん)[学び深める事]されて
います。
この一年の学びと気づきについて
お話し頂きました。
1.トライアンドエラーを繰り返し
成長して来られた。慎重派で
準備してから動くタイプだった
のが、動きながら次の事を出来る
ようになっている自分がいた。
とのお話しでした。
2.結果の出やすいところから改善
していく事で自分は勿論、
学んでおられる方にも心の余裕
が出来て成果を感じやすく
なった。
3.一つの目標にこだわりすぎない。
手段が目的にならない様に気を
つけられた事で目標への手段の
選択肢が増えた。
4.世界観を売る
今の不安を安心に変えるだけでなく
この技術や能力を身につけた未来の
ワクワク感をサービスとして提供
する。
今後について
夢アワードに参加して企業と
提携し支援者を募るとの事
でした。
転石苔むさず。常に秘書を
育てる志を持って試行錯誤
をつづけておられる宮川さん。
本年はどの様な気づきと更なる
成長をされるのか楽しみです。
宮川さんの現場での気づきは
とても勉強になります。
ありがとうございました。
池田珠生(いけだ たまお)さん
浅川金刀比羅神社
(あさかわことひらじんじゃ)の
神主をされておられます。
多摩御陵(たまごりょう)に
お入りなられている四人の方の
振り返りして頂きました。
大正天皇:嘉仁(よしひと)
優れた歌人であり、国民に
寄り添う公務をなさいました。
ご本人は病弱であったとされて
いますがお妃との間に四人の
お子様を設けておられます。
貞明皇后(ていめいこうごう)
大正天皇の奥様。お身体が
丈夫であった事が決めてとなり
大正天皇の妃に選ばれました。
ご子息の昭和天皇天皇が国際的
意向から神事を他人に任せようと
された時に厳しくお叱りになられ
ました。またハンセン病の擁護
にもお力を注がれた行動力のある
方です。
昭和天皇:裕仁(ひろひと)
玉音放送(ぎょくおんほうそう)
大東亜戦争は侵略の意図はなく、
植民地の解放が目的である事。
戦没者は勿論、怪我をされた方達
にも労いのお言葉を述べておられた
事。今後、日本の国と
世界の平和の為に国民と
共に邁進される事をお話しに
なられた。国民の涙の映像は
戦争に負けた悔し涙ではなく
昭和天皇のお言葉に対する
感動の涙であった。とお話し
頂きました。
香淳皇后(こうじゅんこうごう)
昭和天皇の奥様。いつも笑顔で
昭和天皇のお側におられ
昭和天皇も長宮(ながみや)と
呼ばれ仲睦まじくされていたと
お話しくださいました。
初の米国訪問の際に
ディズニーランドにて
見知らぬ子供が香淳皇后の
元へ行き皇后が膝の上に
抱えられパレードをご覧
になられたお話しは
とても微笑ましいお話し
でした。
また夜の晩餐会(ばんさんかい)
では潔く負けを認め謝罪され
戦後復興の感謝をのべられた。
この事に対して当時のニューヨーク
タイムズは「30年前のわだかまりが解かれ
日米が政治経済のパートナーとして再出発した」
と讃えた。
責任を追及するのでは無く
これからの現実的で建設的な
話をなさる事を教養として
肝に銘じておきたいお話し
でした。
ありがとうございました。
森里香(もり りか)さん
北辰一刀流千葉定吉の愛娘
千葉さな子さんのお墓のある
山梨県甲府市(やまなしけんこうふし)
の清雲寺(せいうんじ)より中継
頂きました。
十代で小太刀の免許を取得。
坂本龍馬(さかもと りょうま)の
婚約者
龍馬が江戸離れる際、片袖をちぎった話をありますが
実際は千葉家が結婚に向けて龍馬のために用意した
紋付を大切にした。とのことです。
と教えて頂きました。
2010年に、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年に結婚し
その後離婚したとする新聞記事が発見され、
生涯独身だったという説には疑問符もついている。
が数年で離婚。その後独身を
通している。
千葉家家伝のお灸を生業(なりわい)
[生計を立て]としていた享年59
お墓には坂本龍馬の正室と刻まれ
ています。
ありがとうございました。