4月18日の感想

418日の感想
若者ジャック
山口綾斗(やまぐち あやと)さん
 富山県立山市(とやまけん
たてやまし)出身。金沢学院大学
にて中学の恩師の助言と子供成長
を1番感じれる場所として試行錯誤
の末小学校の先生を目指して
精進されています。

 富山の薬売りは貴重な薬売りを
各家に置き使った分だけ後から
支払う仕組みのものです。

最近考えておられる事は
・これまでの学校教育のあり方
・子供の目線に立てているか
・変えていくには。

知覧平和記念館の話を板津忠正
(いたづただまさ)さんのご子息
の昌利(まさとし)さんから
伺って戦争に対する思いが
国や家族を守る為から
来ている事を知り考えが変わった
とおっしゃっていたのは嬉しく
思いました。戦争をしない為、
ならない為に子供たちの想いを
作るのが教育だと思うので、
過去の過ちを教訓として伝え
どうしたら平和を築く事が
出来るのか。抑止力も大切
ですが抑止力を生み出さない
為に何をすればよいのか。
を考える事を伝えて頂きたい
です。

 子供の為と言いながら大人の都合
になってしまう事あります。
弟が産まれたばかりで甘やかして
しまう事なく、可愛い弟の為、
或(ある)いは子供の自立の為に
何が最善なのかを考えておられる
との事でした。

子供達の知識としての学びは
4年生くらいまでとしてそこから
は自主性を促すように本の紹介
や好奇心を掻き立てて次の問い
を生み出し学びに繋がる教育 
をしたいと言われていました。

今後の予定として
様々な現場や人と関わり実情から
から学び、本で知識を吸収して 
対話を大切にしながら自分の
使える教養としていきたい 
との事でした。

 可愛い弟さんの成長を楽しみに
生徒たちに志しを立てるご縁を
作って頂ける素敵な先生を目指し
て頂きたいです。
ありがとうございました。

天明先生の詔(みことのり)
天明家の家訓を教えて頂きました。

1、いつも笑顔で元気よく
2、お陰様と思いやりの心を忘れない
3、ありがとう、ごめんなさいを
  口ぐせに
4、あいさつと返事は大きな声で
5、ご先祖さまに感謝とお参り
6、袖すり会う縁を大切に

袖擦り合うも多少の縁ではなく、
袖擦り会うも他生の縁が正しい
と教えて頂きました。

見ず知らずの他人と縁あって
互い敬い袖を擦り合わせ対話する
事で命が運ばれて道が開ける。
そんな想いになりました。

ありがとうございました。

ポールマーティンさん
平成御番鍛冶(ごばんかじ)を
志しとして活動されています。

ポールさんの後鳥羽上皇(ごとば
じょうこう)への情熱は凄い!
の一言に尽きますし、またその
後鳥羽上皇の刀への想いも
隠岐(おき)に流されてもそこに
刀鍛冶の拠点を作ってしまう程。

平安時代末期の武士が台頭し
鎌倉幕府が成立する前に誕生し
鎌倉の乱世を治めるべく、精神の
邪気を祓(はら)い安定を図る為、
現実的な争いを止める武器として
の名刀を多く世に出そうと 
御番鍛冶制度を作りました。

御番鍛冶は大阪の水無瀬神宮

隠岐で亡くなったし後鳥羽院」
(後鳥羽上皇のおくり名)の遺勅
(いちょく):後世に残された天皇の
命令)で息子の土御門天皇(つち
みかどてんのう)が隠岐より後鳥羽 上皇の神霊(しんれい:神のみたま)を迎え、水無瀬宮の跡に建立したのが「水無瀬神宮」(みなせじんぐう:大阪府三島郡島本町)。そこには、現在も後鳥羽院直筆の文書・宸翰」(しんかん:天皇直筆の文書)が納められています。

三種神器草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)の事。が揃わないまま即位した
事も刀への情熱への一因だった
との事。
 
神皇正統記(じんのうしょうとうき)
北畠親房(きたばたけ ちかふさ)
が1339年頃に記した神武天皇(じんむむてんのう)〜後村上天皇(ごむらかみてんのう)までの歴史書で神の子孫である天皇偉大さと天皇に逆らう愚かさを説き東国武士の協力を願い出た
もの。

この中に天叢雲剣(あまのむらくも
のつるぎ)は草薙剣(くさなぎの
つるぎ)の別名で倭建命(やまと
たけるのみこと)が倭姫命(やまと
ひめのみこと)より賜ったこの剣
で東国を治める時の難を逃れた
とされその剣を祀る為に愛知県
名古屋市に熱田神宮(あつた
じんぐう)は建てられました。
  
増鏡(ますかがみ)1370年 
後鳥羽上皇が刀の良し悪しを見定め 
ていたと記されており目利きとして
も一流だったと推察されます。

観智院本命尽(かんちいんほんめい
づくし)現存最古の刀剣書
1316年に記されて1423年に転写
真言宗の研究機関である京都の
教王護国寺(きょうおうごこくじ)
の観智院に収められた為この名が
つけられました。

御火葬塚(かそうつか)
承久の乱により隠岐へ配流になった
後鳥羽天皇は、在島19年後の延応
元年(1240年)2月、60歳で なくなり遺骨の大部分は島根県
隠岐郡海士町(しまねけんおきぐん
あままち)御火葬塚に納められましたが、明治6年、明治天皇により、
大阪の水無瀬神宮に合祀されました。翌7年、祠殿(ほこら)「神様を祀る
場所」は取り壊され山陵はその後、
第82代後鳥羽天皇御火葬塚
として、宮内庁で管理されて
います。ネットより調べて加筆
しました。

ボールさんが後鳥羽上皇が
作った刀菊御作(きくごさく)
を裏付けるものとして藤原
兼仲(ふじわらのかねなか)の
日記「勘仲記」(かんちゅうき)
を挙げられていました。

ポールさんが現代の御番鍛冶
を作り日本の精神性の要と
なる日本刀を高千穂の逆鉾
の様に戦わずして勝つ。
武術の理想。互尊思想。
八紘一宇(せかいをかぞく)
とする思想という神武天皇 
(じんむてんのう)の平和宣言
に向けての象徴として受け継
がれていく事を願っています。

ありがとうございました。  

音丸悠作久(おとまる ゆうさく)さん
「麻の伝統文化について」
麻は縄文文化から漁の網や弓の蔓
(つる)として用いられてきた。

奈良時代以前より大嘗祭(だいじょうさい)五穀豊穣
(ごこくほうじょう)穀物の豊作を祈る神事の中で
天皇がお召しになる装いを麁服
(あらたえ)という。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が
共にお休みになる儀式は四国徳島
県阿波忌部(あわいんべ)[祭祀を
専門に司る一族]の間で連綿と
受け継がれている。
 エレベーターの鉄糸の中にも
用いられていたとの事。

しかしながらアメリカの戦後政策
により大麻の栽培が禁止され
地道な運動により北海道札幌市
(さっぽろし)で地道な活動が
北海道伝統麻栽培協議会設立
委員会が発足したものの
本格的な栽培には至っていない
との事でした。

伝統文化の価値と存在意義を
学ばず伝えて来れなかった背景が
ここにきて伝統文化の大半
を窮地に追い込んでいる様に
思います。

戦後70年以上経って私達の
日本の伝統文化が世界平和へ
の豊かさと祈りの為に麻が
不可欠であることを一人一人が
まずは身近な人に伝えることが
大切なんだと思いました。

麻は医療にも沢山の可能性も
有りますし、今後の希望に
なる植物だと思いますので
危険性をしっかり把握した
上での有効利用に期待
したいですね。
ありがとうございました。

吉野本隆英(よしのもと たかひで)
 14歳の時に東京大空襲を経験
され、以来戦争の悲惨さと平和へ
の想いを絵筆に込めて描き続け
また語り部として3月10日から 
13日の4日間心を込めて一日5回 
経験をお話しされています。

若者達から有意義な時間だった
との感想やもっと話を聴きたい
と慕われる人柄と「体の続く限り
私の役割だ」とおっしゃる志しに
熱いものが込み上げます。

吉野本さんの「戦争は勝っても
負けても悲惨なんです。」の
口癖は国防の為に戦うことを
最優先に考えてしまう想いを
今一度考えるよい言葉だと
いつも悔い改める想いに
させて頂いています。

これからも一層のご活躍をお祈り
します。ありがとうございました。




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