人工物に愛はあるのか

こんにちは。Pompadour運営の堀内一樹です。

ふわふわと心の中に思っていたことを書きました。賛否両論あると思いますが...

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

僕はBillie Eilishがとても好き。なぜなら彼女の服装、発言、そして歌詞にどことなくヒッピーさを感じるから。(彼女はドラッグをやっていないから厳密には違う)

おそらく自分の中にもある種のカウンターカルチャーが生まれているのかもしれない。それはこのコロナの時期によりいっそう膨れ上がった。

機械によって生活の効率化が加速する世界への違和感。

ある人は言う。

「いやあね、前までは別の3人の人とそれぞれ1時間話すのに移動も含めると何時間もかかってたけど、Zoomを使えばdoor to doorで話せるから3時間しかかかんないね」

ある人は言う。

「確かに、今はオンラインで人に触れたり、匂いを感じたりすることはできないけど、これからARが発達すれば可能になるんじゃない?」

まあそれも分かるし、事実自分もいろんなテクノロジーを使って生活している身だからどうこう言えないのかもしれない。

ただ自分にとっては、移動中の何もすることがない時間にしか生まれない思考があって、それは短縮された時間に劣らず価値があるし、人工的に作り出された現実はそれがどれほど精巧に生み出されていても現実ではない。つまり人工物に愛はない、とも思ったりする。

自分の心に”違和感”が芽生えているのは事実だし、否定することはできない。

なぜだろう。

おそらく、それは自分がアナログ世界デジタル世界狭間に生まれたからだろうか。

確かに自分はデジタルネイティブではあるが、幼少期はそこまでデジタルなものに触れた記憶がない。すくなくとも今に比べれば。

高校時代、クーラーのない環境教育室という場所で夏は灼熱、冬は極寒の中、必死に勉強した記憶。

スマホを持っていなかった小学生時代、友達を遊びに誘うのにわざわざインターホンを押しにその子の家まで行っていた。

そんな記憶は案外今も心の中で消えずにを帯びて残ってるもの。  

世の中のデジタル化はコロナをきっかけに加速した。5G、AI、ブロックチェーン、リブラによる通貨システムの再定義、IoTがもっと進んで、人の脳にまでネットが接続されて、無駄な思考が省かれたりするんじゃないのとか思ったり。

今このタイミングでコロナが発生したのは、「技術の進歩」という意味ではあまりにもタイミングが良すぎて、必然だったとさえ思える。これをきっかけに知識の中間層の生活に半ば強制的にネットが組み込まれ、さらなるインターネット化の土台が出来たのではないか。

自分の子供の世代はよりデジタルなものに身を包むことになるだろう。でも僕は彼らにもアナログ的感動、ある種の非効率性から垣間見える煌めきのようなものを知ってほしい。


デジタルな世界ではアナログな思い出が心のよりどころとなるはずだから。

「現在我々が経験している情報革命は、ただのインターネットによる情報やアイデアの相互接続や活用というレベルを超えて、宇宙的な歴史のスケールの中で、宇宙がエネルギーから物質中心の世界になった次の、情報を中心とした世界への何億年ものレベルの大変革のほんの賭場口なのかもれない」

これは米国『WIRED』誌の創刊編集長であり、テクノロジー界の思想を牽引するケヴィン・ケリー氏の言葉。

僕のノートに書くにはいささか大げさかもしれないが、もしかすると自分たちはこんなパラダイムシフトの渦中にいるのかもしれない。

では自分になにができるのか?

関連記事