露語語源譚

お断り

 本記事内では言語学に関する記述がありますが,この記事を書いた者は言語学を専門に学ぶ者ではなく,斯学に関する見識も浅薄な者です.従って,以下の記述には誤った記述や不適切な記述が少なからず含まれている可能性が十分に高いということを最初に申し上げておきます.読者の皆様に於かれましては,このことを念頭に置いて読み進めて頂ければと思います.また,この記事に関してご指摘,ご意見やご叱責をお持ちの方はコメント欄に書いていただければ誠に有難く存じます.

凡例

 この記事では所々キリル文字が現れるが,勿論読者全員にロシア語に関する予備知識を仮定するものではない: キリル文字を用いるときは必ずそれに続けてラテン文字転写の例・発音記号・カタカナで示した大まかな読み・意味を記すことにする.但し,意味が文脈から明かな場合には省略することもある.
例) Япония (Japonija, [ɪponʲɪjə], イポーニヤ, 日本)
 尚,本記事には古典ギリシャ語の単語も登場するが,それらは全てラテン文字で表示することとする.本来はギリシャ文字を用いて表示するべきであるが,残念ながら Pando サービスの一部のギリシャ文字のフォントが想像を絶する程に醜陋である為,これは用いないことにする.

初めに

 この記事を読まれている皆様は,外国語を勉強したことがなかったとしても,何かしらの言語に対する噂のようなものは聞いたことがあるだろう.よく言われるものを挙げるならば「フランス語は r の音が難しいらしい」,「フランス語には時制が多いらしい」,「ドイツ語やイタリア語は音楽でよく使われるらしい」,「中国語は拼音を覚えるのが大変らしい」,「韓国語は日本語と語順が同じで SOV であるらしい」などといったものである.そして,ロシア語に関してもこの類の噂がある.それらは例えば「ロシア語はキリル文字が難しいらしい」だとか,「ロシア語は格変化を覚えるのが大変らしい」といったものである.
 勿論,今挙げた様な言説が全て正しいわけではなく,中には殆ど誤りに近いようなものも偶に耳にする.ロシア語に関しては,先ほど述べた「キリル文字が難しい」というものは実はあまり正しいとは言えない.実際,ロシア語を勉強し始めて暫くすればキリル文字は自然と覚えてしまうものである (無論多少は人に依るだろうが).しかしながら,「格変化が大変である」というものは恐らく多くの人にとって正しい.
 ロシア語はスラヴ語派 (Slavic language) と呼ばれる語派に含まれる言語であり,スラヴ語派にはロシア語の他にもポーランド語,ウクライナ語,チェコ語などが含まれている.スラヴ語に属する言語の特徴として頻繁に挙げられるのが語形変化,或いは屈折 (inflection) の豊富さである.例えば,ロシア語の文法概念に (先ほども述べたところの)  (case) があるが,これは即ち或る単語がその文中に於いて果たす役割に応じて形を変えるということである (誤解を防ぐために述べておくが,格という概念はスラヴ語に特有の概念ではない.非スラヴ語であるドイツ語やルーマニア語は格変化を持つし,英語も現代でこそ格が殆ど消滅しているが,古英語の時代にはまだ格変化を保っていた).具体例を挙げて説明するならば,ロシア語で「私は大統領を知っている」と言いたいとき,ロシア語で「私は ... を知っている」は я знаю (ja znaju, [ja znajʊ], ヤー ズナーユ) であり,「大統領」は президент (prezident, [prʲɪzʲɪdʲent], プリジヂェント) であるからと言って

 *Я знаю президент. (ここで * という記号は,この文が誤りであることを意味している)

と言えば良いのかというと,残念ながらそうではないのである.今,президент は動詞 знаю の直接目的語となっているため,対格形 (accusative: ドイツ語で言うところの第四格) である президента (prezidenta, [prʲɪzʲɪdʲentə], プリジヂェンタ, 大統領を) にして

 Я знаю президента.

としなければならないのである.対格の他にもロシア語には主格・生格・与格・造格・前置格などの格があり,作文する際には必ずこれらの格を意識しなければならないのである.格変化とは,大雑把に言えばこのようなものである.
 しかしながら,ロシア語の授業の最初の数回では殆ど文法事項は出てこない.勿論,格などという概念も教わることはない.では何をしているのか?そう,ただ只管に単語を教わり,それを覚えるのである.ここで教わる単語というのは,карандаш (karandaš, [kərɐndaʂ], カランダッシュ, 鉛筆) や карта (karta, [kartə], カルタ, 地図) 或いは комната (komnata, [komnətə], コームナタ, 部屋) と言った身の回りにある身近な物品の名称や,Анна (Anna, [anːə], アンナ, 人名) や Иван (Ivan, [ɪvan], イヴァン, 人名) のようなロシアに多い人名などである (ところで,地図を意味する карта は日本語の「かるた」に似ているように感じられた方もいらっしゃるだろう.ここに関係性を見出すのは些か牽強付会の感があり,流石に安直すぎるように思われるかもしれないが,実は驚くべきことに日本語の「かるた」も同根である.これに関しては後述する).
 一般に,地道な単語の暗記は文法の学習に比べて無味乾燥な修行のようになりがちであり,些か忌避される傾向にある.それもその筈で,語彙よりも文法の方が抽象的なものである為,文法事項を一つ学べば多くの文が理解出来るようになるのに対して,単語を一つ学んでも分かるようになるのはその単語だけである.しかし,当然ながら単語の暗記は避けて通れる道ではない.幾ら文法を知っていても単語を知らなければその言語は十分に読めるようにはならない.結局単語の暗記を避けることは不可能なのであれば,少しでもそれを楽しんで行いたいものであるが,その為にはどうするのが良いだろうか?それに対する一つの案として語源 (etymology) を調べるというものがあると私は考える.即ち,その単語が現在使われる形に至るまでにどのような道を辿ってきたのかということを調べ,人間の言語の歴史に思いを馳せるのである.
 そうは言っても語源なんてどのように調べるというのか?特殊な辞書が必要なのではないのか? — 否,そんなことはない.というのも,Web 上で公開されている Wiktionary というサービスを用いれば簡単に語源を調べられるのである.例として,appleという語の語源を調べてみよう.Wiktionary の検索欄に apple と入力して検索し,該当する記事の Etymology という欄を見れば,次のように書いてある筈である:
これによれば,現代英語の apple は中英語の appel に由来しており,これは今度は古英語の æppel (林檎以外にも,果物全般やボールをも意味していたようである) に由来しているということが分かる.更に,種々の祖語に於ける再建形も掲載してある.これは比較言語学の手法を用いて「文字として残されていない時代の語の形を,様々な言語に於けるその後の形を手がかりとして理論的に復元したもの」であり,通常 * を付けて記される.例えば,apple はゲルマン祖語 (Proto-Germanic) の *aplaz に由来しているそうである.尚,「ロシア語の単語の語源を調べる」という本題には直接的には関係しないが,英単語の語源に関しては Online Etymology Dictionary という Web ページも有用である.

ロシア語の単語の語源を調べる

 先ほど,карта (karta, [kartə], カルタ, 地図) という語を挙げたが,これの語源を調べてみよう.前と同様に Wiktionary で карта と検索して Etymology を見てみると,"Borrowed from Polish karta" 即ち,ポーランド語の karta がロシア語へ借用されたものであると書いてある.ではポーランド語の karta の来歴は如何なるものであろうか?これも再び調べてみると "Borrowed from German Karte, from Latin, from Ancient Greek. See chart for more" との記述がある.ポーランド語の karta はドイツ語の Karte に由来しており,これは更にラテン語や古典ギリシャ語に由来しているそうである.より詳細な情報は,英語の chart という語の記事に書いてあると記されている.どうやら карта は英語の chart と関係があるようである.では,今度はドイツ語の Karte の由来を見てみよう.これも同様に Wiktionary で調べると,"From late Middle High German karte, from Old French carte, ultimately from Latin charta" と書かれている.つまり,ラテン語の charta ([kʰarta], [kar.ta], カルタ) が古フランス語 carte,中高ドイツ語 karte を経由して現代ドイツ語の Karte になっているとのことである.
 ここで中高ドイツ語 (英: Middle High German, 独: Mittelhochdeutschという言語は聞き慣れないものであるかもしれないので,これについて少し補足をしておこう.ドイツ語の方言に古くから高地ドイツ語と低地ドイツ語 (この名称はその名の通り言語の地理的分布に由来している) の対立がある.一般に高地ドイツ語は中世以降は文章語として用いられた為に文献数に関して低地ドイツ語を遙かに上回っているが,当然低地ドイツ語も等閑視すべきものではなく,ドイツ語と高地ドイツ語を安直に同一視することは出来ない.詳細なドイツ語史をここで述べることは出来ないが,中高ドイツ語とは今述べた高地ドイツ語の 1050 年頃から 1350 年頃にかけての段階の言語である.中高ドイツ語で書かれた文献の例としては叙事詩『ニーベルンゲンの歌』 (現代ドイツ語: Das Nibelungenlied, 中高ドイツ語: Der Nibelunge liet) などがある.勿論,Wagner の楽劇『ニーベルングの指環』 (Der Ring des Nibelungen) はこの叙事詩を題材としたものである.
 ついでにフランス(英: Old French, 仏: ancien français) についても簡単に説明しよう.フランス語・イタリア語・スペイン語等の言語は全てロマンス諸語 (Romance languages) と呼ばれる一群の言語の一つである.これらの言語は全て,ラテン (Vulgar Latin: 口語のラテン語,古典的なラテン語とは文法的にも音声的にも違いが生じていた) から派生した言語である.ラテン語は,ローマ帝国が勢力を持っていた間はその領土の広さにも拘らずラテン語という言語としての統一性を保っていたが,ローマ帝国が滅亡すると最早言語としての統一性を保てなくなり,地域ごとに独自の発展を遂げ,ついには別々の言語となった.これらの言語がロマンス諸語である.斯くして生じた言語のうち,現在のフランスに当たる地域で八世紀から十四世紀にかけて話されていた言語が古フランス語であるが,この言語はケルト語やフランク語のような言語からも影響を受けたものであった.ラテン語では全ての名詞は男性名詞・女性名詞・中性名詞の三種類が存在していたが,俗ラテン語では既に中性名詞は消滅し,男性名詞と女性名詞のみが残っている状況にあり,これは古フランス語 (ひいては現代フランス語) にも引き継がれた.
 閑話休題,我々の本題である карта の語源の話に戻ろう.ドイツ語の Karte はラテン語の charta に由来しているようだということが分かった.このラテン語の charta という単語は更に古典ギリシャ語の khártēs ([kʰartɛːs], カルテース,紙や本の意) に遡ることが出来る.ここで古典ギリシャ語の音声に関して注意を述べておこう.古典ギリシャ語には [p], [t], [k] の子音に関して有気音 (aspirated consonant) 無気音 (unaspirated consonant) の対立があったことが知られている.有気音とは,調音の際に強い気流を伴う音である (例えば,[k] の有気音である [kʰ] は敢えて片仮名で表示するならば「クハー」のような音になる.詳しくはGlossika Phonics による解説 などを参照のこと).有気音と無気音の違いを説明するときによく使われるものとして「口の前にティッシュを置いたときにそれが大きく揺れるのが有気音であり,あまり揺れないのが無気音である」というものがある.英語を話す際にも我々は無意識に有気音と無気音を使い分けていることが多いが,英語に於いては有気と無気の区別は意味の違いを齎さない (即ち,音韻論の言葉で言えば「有気音と無気音は同一音素の異なる実現に過ぎない」) 為にあまり意識されることはない.実際に,kit, skit という二つの単語を注意深く発音してみれば,kit と言う場合には [k] が帯気しており,skit と言う場合には帯気していないことが感じられるだろう.日本語に於いても有気音と無気音の違いが意味の違いを生じることはないが,古典ギリシャ語に於いてはこの二つの音の違いによって意味の違いが生じてしまうのだ.そして有気音の [kʰ] を χ (kh) で表し,無気音の [k] を κ (k) で表していた.今問題となっている khártēs の語頭の子音は有気の k (厳密に言うならば,有気無声軟口蓋破裂音) である.
 ここからは逆に,古典ギリシャ語の khártēs がロシア語の карта に至るまでの過程を見てみよう.古典ギリシャ語にもロシア語と同様に(gender)  (case) という文法項目がある.具体的に古典ギリシャ語の格を列挙するならば,主格・属格・与格・対格・呼格の五つである.古典ギリシャ語に於ける名詞は格に応じて形を変えるのだが,その変化の種類にも幾つかあり,大まかには第一変化・第二変化・第三変化に分類される.今問題となっている名詞 khártēs は第一変化男性名詞であり,これの語形変化表は以下の通りである: 

単数双数複数
主格khártēskhártākhártai
属格khártoukhártainkhartôn
与格khártēikhártainkhártais
対格khártēnkhártākhártās
呼格khártakhártākhártai
※この表には単数と複数に加えて双数 (dual) という形があることにお気づきだろう.これは二つのものを表すことに使われる形である.現代の印欧語には双数形が残っていないことが多いが,アラビア語等には現代でも双数形が見られる.
 古代ギリシャ語と同様にラテン語にも性や格がある.通常,古代ギリシャ語の第一変化名詞がラテン語に借用された場合,それの名詞は再び (ラテン語に於ける) 第一変化と呼ばれる種類の語形変化をする名詞になる (厳密に言うと,古代ギリシャ語由来の語の格変化には (i) 古代ギリシャ語の形を一部残したまま,不規則な変化をする (ii) 完全にラテン語化されて規則的な変化をするというに種類がある.khártēs の場合は後者である).ラテン語の第一変化名詞の殆どが女性名詞であり,その主格は -a で終わるものが多い.このような事情のもとで khártēs はラテン語に借用され,charta や,或いは異綴 (= 綴り方の変種) として carta などと綴られる単語になった.参考までに,charta (carta) の語形変化表を下に載せておこう:

単数複数
主格 (呼格)charta (carta)chartae (cartae)
属格chartae (cartae)chartārum (cartārum)
与格chartae (cartae)chartās (cartās)
対格chartam (cartam)chartīs (cartīs)
奪格chartā (cartā)chartās (cartās)
 さて,次の舞台は古フランス語である.ラテン語は主格・呼格・属格・与格・対格・奪格の六つの格を持っていたが,古フランス語ではこれらの格は殆ど失われ,主格と斜格という二つの格のみが維持されていた.文法上の性としては男性名詞と女性名詞の二つがあり,男女それぞれに対して名詞の語形変化が三種類あった.今我々の関心の的になるのは,第一変化女性名詞という種類の名詞である,というのも,ラテン語で第一変化名詞であったものは古フランス語に於いては殆どが第一変化女性名詞になっているからである.しかし,ラテン語とは対照的に,第一変化女性名詞の語形変化は非常に単純である.これらの名詞は単数主格と単数斜格は同形で -e という語尾を持っており,複数主格と複数斜格も同形で -es という語尾を持っている.ただそれだけである.斯くして,ラテン語の charta (carta) は古フランス語に於いては charte (carte) という形で受け継がれた (ラテン語と同様,ここにも綴りに揺れがある.これらの異綴は恐らく地域的な発音の差などを反映しているのだろう).上述のことから分かる通り,この単語の語形変化は非常に簡単であり,態々表にするまでもないかもしれないが,一応以下に纏めておく:

単数複数
主格charte (carte)chartes (cartes)
斜格charte (carte)chartes (cartes)
 この carte (当時のフランス語には発音の地域的な差があり,恐らくこの単語の語頭の子音も地域によって異なる発音がなされていたと思われるが,ドイツ語に伝わったのは語頭が [k] で発音される地域のものであったのだろう) が中高ドイツ語に借用された形が karte であり,時代が降り現代ドイツ語の Karte となった.細かい話だが,中高ドイツ語では karte と全て小文字であるのに対して現代ドイツ語では Karte と語頭が大書されているのは,気まぐれや誤りではない.現代ドイツ語では名詞は必ず語頭を大文字で書くが,これは近世にヨーロッパの一部の国々で一般的になった風習なのである.実は英語やデンマーク語も嘗ては名詞を必ず大文字から始めていたが,その後この習慣はドイツ語以外では廃れていった.
 次にこの Karte という単語がポーランド語に借用されて kartaという単語になるのだが,ここでも単語の形が少し変わっている.即ち,ドイツ語では -e と終わっていたものがポーランド語では -a となっている.これは,Karte がポーランド語では女性名詞として受容され,ポーランド語の女性名詞の主格は通常 -a で終わる為である.ここでも karta という単語の語形変化表は必要ではないが,今まで語形変化表を載せてきたので一応ここでも載せておくことにしよう: 

単数複数
主格kartakarty
属格kartykart
与格karciekartom
対格kartękarty
造格kartąkartami
前置格karciekartach
呼格kartokarty

 以上の長い道を経て漸くロシア語の карта に至るのである.これを以て,当初の目的であった「карта という単語の語源を追う」という作業は完了されたのであるが,これに関してまだ幾つか興味深いであろう話題が残されているため,以下ではそれらに関して述べたいと思う.
 この記事の冒頭で,日本語の「かるた」について言及した.日本語のかるたは現代では国語化されてしまった感があるが,元来は外来語であり,その由来はポルトガル語の carta である.これはラテン語の charta が古ポルトガル語を経由してポルトガル語に至ったものである.因みに,ラテン語の charta に由来する日本語は他にもある.例えば,「カルテ」はラテン語の charta がドイツ語に借用されたものが日本語に借用されたものであるし,英語の card から借用されたところの「カード」もまた charta に由来を持つ.
 ところで,Wiktionary では語源の他にも様々な情報を見ることが出来る.例えば,Descendants の欄を見ればその単語に由来する単語を調べることが出来る.今,試しに khártēs の Descendants を見てみよう.すると以下のようになっている筈である: 
 注意深くこれらの単語群を見てみると,ロシア語の項目が含まれていることに気がつくだろう.しかしこれは先ほどまで話題にしていた карта とは別の単語のようである.その単語は хартия (hartija, [xartʲɪjə], ハルチヤ, 古代の写本や,それに用いられたパピルス,羊皮紙の意) である.карта と хартия ではかなり違うように思われるが,この差は何に起因しているのだろうか?
 ロシア語の хартия を Wiktionary で調べてみると,この単語はギリシャ語 (古代ギリシャ語ではなく現代ギリシャ語であることに注意) の chartí ([xaɾti], ハルティ) が借用されたものであると述べられている.この chartí という単語は先ほども登場した古代ギリシャ語の khártēs にから来ているものである (khártēs に由来する語はこれの他にも chártis というものがある).「カルテース」と「ハルティ」では,語頭の子音が大きく異なっているように感じられるかもしれないが,これはギリシャ語の χ の音価が古代ギリシャ語から現代ギリシャ語に至るまでの間に [] (有気無声軟口蓋破裂音) から [x] (無声軟口蓋摩擦音) に変化したことに起因している.この [x] という音について少しく説明をしよう.
 まず,[k] の音を発声する時,即ち例えば日本語で「カ」と言う時などに,軟口蓋 (口の奥の上側の柔らかい部分) で一旦気流を閉鎖した後に破裂が発生していることを確認して頂きたい.即ち,[k] の音は「軟口蓋」で「破裂」によって調音される無声音 (声帯の振動を伴わない音) である為,無声軟口蓋破裂音 (voiceless velar plosive) と呼ばれる.これに帯気をつけたものは有気無声軟口蓋破裂音 (aspirated voiceless velar plosive) であり,これが [] である.今,軟口蓋と舌で細い道を作って気流を通すときに摩擦が生じるようにした状態で声帯の振動を伴わない音を出すと,日本語の「ハ」に近い音が出る筈である (実際,この音は日本語でも拗音や促音の後のハ行を発声する際に出現する).これが無声軟口蓋摩擦音 (voiceless velar fricative) [x] である.今見た通り,これらの二つの音声はどちらも口の同じ部分を用いて発声され,違いは「破裂」を起こすか「摩擦」を起こすかという点だけである.
 今,ギリシャ語に話を戻すと,元来古典ギリシャ語の χ は有気無声軟口蓋破裂音 [kʰ] を表しており,これは帯気音である為にとりわけ呼気が強調された音であったことを鑑みると,時代が降るにつれて [kʰ] の「破裂」が徐々に弱まって「摩擦」になったのはそれほど不自然な変化ではないと思われるだろう (これは子音弱化 (lenition) と呼ばれる変化の一例である).
 如上の変化がギリシャ語の中で起こった後に,chartí が再びロシア語に借用された為,この単語は х  — ロシア語で無声軟口蓋摩擦音を表す文字 — から始まる単語として受容されたことは何も不思議ではないだろう.
 最後に,以前に少しだけ言及した英語の chart について述べておこう.今や我々は карта がラテン語の charta に由来していることを知っており,従ってこれが英語の charta と関係があることも直感的には明らかに見えるが,ラテン語の charta の発音「カルタ」と英語の「チャート」はかなり異なるように思える.このような差異の原因は口蓋化 (palatalization) という現象によるものである.口蓋化とは,大まかにいうと調音点 (音を出すときに用いる口の中の部位) が前に寄ることで起こる音韻変化である.実際,[k] という音の調音点 (軟口蓋) を口の前の方へずらすと [tʃ] (これは無声後部歯茎破擦音 (voiceless palato-alveolar sibilant affricate) と呼ばれる音である) になること分かるだろう.[k] の口蓋化によって生じる音は [tʃ] 以外にも様々なものがあるが,いずれも [k] より調音点が前によったものである.このような現象は様々な言語に於いて見られるものである.例えば,英語の cheese に相当するドイツ語の単語は Käse (ケーゼ) であるが,これも英語では口蓋化を被ったのに対してドイツ語では口蓋化が起きずに [k] の音が維持されたことに由来するものであるし,日本語の「清ら (きよら)」に相当する沖縄語が「チュラサン」 (美ら海 (ちゅらうみ) 水族館の「ちゅら」である) であるのも口蓋化による.因みに英語で [tʃ] を ch と書くのは嘗てのフランス語の影響によるものだが,現代ではフランス語の ch という綴りは最早 [tʃ] という音を表すものではなくなり,[ʃ] になっている.これは時代の経過とともに [tʃ] の [t] の部分 (破裂) が失われ,[ʃ] (摩擦) のみになったものである.従って,英語の chart に相当するフランス語の charte は「シャルト」のような発音になる 
 これは完全に余談であるが,歌曲でも有名なシャンゼリゼ通りの「シャンゼリゼ」はフランス語で « Champs-Élysées » と綴られる.ここに現れる champs という語はラテン語の campus (カンプス) に由来しており,英語として読めば「キャンパス」である.この違いも同様に口蓋化によるものである.口蓋化は意外と身近なところにある.因みにその歌曲の中の「オー、シャンゼリゼ」というフレーズは人口に膾炙したものであるが,ここに現れる「オー」は Oh のような間投詞ではなく,フランス語の前置詞 à と複数定冠詞の les の縮約形である aux である.「オー、シャンゼリゼ」はフランス語では « Aux Champs-Élysées » であり,「シャンゼリゼ通りで/に」のような意味である.フランス語の原文の意味と音にある程度忠実な邦訳として私は「於シャンゼリゼ」というものを提案したいのだが,如何だろうか? (勿論冗談である.)
 以上で見てきたように,究極的には同一の語に由来する語であっても,それぞれが今の形に至るまでの間に様々な音韻変化を被っており,それによって一見全く違う単語に見える (聞こえる) ようなこともあるのである.このような各々の単語の来歴をも含めて学習すれば,単語の暗記は無味乾燥なものではなく,より興味深いものになるのではないだろうか.

終わりに

 以上でこの記事は終わりである.徒に長く,纏まりのない駄文を最後まで読んで下さった皆様に感謝の意を述べたい.本記事を読んだ皆様が少しでも言語に興味を頂ければ幸いである.
 最後になるが,この記事は「東大りろし! '22」という企画の一環であり,この企画は各々の記事からキーワードを集めてクロスワードを完成させるというものである.この記事のキーワードはヨコ 15G のクレムリン (Кремль, Kremlin) である.クレムリンとは,モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿にある旧ロシア帝国の壮麗な宮殿である.ソ連時代にはここにソ連共産党の中枢が設置されていたことから,クレムリンはソ連共産党の別名としても用いられた.いつか戦争・COVID-19 が収まったら行ってみたいものである.

参考文献

[1] Wiktionary (https://www.wiktionary.org/)
[2] 松浪有: 『英語史』, 大修館書店, 1986
[3] 須澤通,井出万秀: 『ドイツ語史』, 郁文堂, 2009
[4] Oxford University Press: The Concise Oxford Dictionary of English Etymology, 1996
[5] E. Einhorn: Old French Concise Handbook, Cambridge University Press, 1975
[6] Peter Rickard: A History of the French Language, Routledge, 1989
[7] Robert:Dictionnaire historique de la langue francaise, 2010
[8] Klincksieck: Dictionnaire étymologique de la langue latine: histoire des mots (4e éd.), 2001
[9] Online Etymology Dictionary (https://www.etymonline.com/)
[10] Heidelberger Akademie der Wissenschaften: Dictionnaire Étymologique de l'Ancien Français (http://www.deaf-page.de/index.php)