皆さんはじめまして。理ロシ4組のじおふぃーと申します。東京の人の多さに辟易としながらもなんとか食らいついております。どうぞお見知りおきを。
今回の理ロシ企画を聞いたとき「自分もやりたい!」と即座に思ったのですが、はて自分ならではの記事とはどんなものだろうかと困ってしまいました。
そこで隣の本棚に目をやると、2か月前の自分はなんだか妖しげな本を実家から持ってきていました。その名も『モスクワの森』。なんとも奥ゆかしい題名です。
実はロシアは旧ソ連時代から物理学がとても盛んだった国で、これまでに計11名のノーベル物理学賞受賞者を輩出しています。中でもレフ・ランダウという物理学者はその独創性から、現在でも物理の歴史に燦然と輝く大科学者として影響を与え続けています。(ちなみに筆者は高校時代にランダウ先生が書いた『力学』に魅了され、それもあって理ロシに進むことを決めたのでした。)
そして問題集『モスクワの森』(写真)は、物理大国ソ連のなかでも特に物理が盛んな「モスクワ物理技術大学(MITP)」で編纂された、第一級の問題集です。しかし残念ながら、日本語版も30年ほどまえに発行されたきりで、今は絶版になってしまっています。唯一無二の問題集という評判を聞きつけた数年前の筆者は、某ネット通販サイトで中古品が安くなったタイミングを狙い、運よくこの問題集を手に入れたまま、あろうことか本棚の肥やしにしてしまっていたのでした。
そんななかでこの企画が舞い込んできて、渡りに船だ!と感じた筆者は、隣クラスの理ロシ仲間を誘い、『モスクワの森』に迷い込むことにしたのでした。くわばらくわばら。
モスクワの深い森
さて、この『モスクワの森』という問題集。とにかく手強いのです。
では一体何がそんなに手強いのか。
それは、問題文の短さにあります。「え?問題文が短いなら簡単じゃないの?」と思った、そこのあなた。僕も初めはそう思いました。しかしそこに大きな落とし穴、そしてソ連の物理の伝統に底流する趣深さがあるのです。
先ほど紹介した大物理学者ランダウはこんな言葉を残しています。「物理をやるうえで最も大事なのは、近似についての理解だ」。物理は数学とは異なり、現実現象を扱う中で何が無視できて何が無視できないかを吟味する学問です。そのため、計算を始める前に考察の的を予め絞っておかなければなりません。
そして問題文が端的であればあるほど、問題から読み取れる情報が少なくなり、結果的に初動の見極めが難しくなるのです。つまり、問題文が短いと「初めの一手」のハードルが飛躍的に高くなるということです。
旧ソ連の物理の教科書は難解なものが多い背景には、記述をできるだけ簡潔にしようとする、いわばお国柄的なミニマリズムがあります。道理でうんうん唸りながらもやみつきになってしまうわけだ。。。『モスクワの森』は古き良き気風をそのまま反映した問題集というわけですね。
決戦は土曜日
いよいよ当日を迎えました。筆者を含めて3人で問題を解き始めます。せっかくだし今受けている授業と関連させたい!ということで、1年生の1学期(Sセメスター)の必修科目である力学と熱力学の章の中から、適当に目についた問題を解いてみることにしました。
当日はお昼14時にベンチ(写真)に集合。お昼ご飯も食べ終え、まったりしてくる時間帯だけに、そよ風にあたりながら果敢に突っ込んでいく作戦です。
まずは1問目。問題は以下のようになっています:
月の最高峰の頂上からロケットが打ち上げられた。噴射ガスの方向と水平線の間の角度はφ=0.1radに保たれた。ロケットに対する噴射ガスとの相対速さはu=4km/sである。ロケットが水平に飛ぶためには、ロケットの質量m(t)はどのように変化しなければならないか?それまでにどれだけロケットの質量を減らすことになるか?
(月の半径はR=1700km、月の表面付近での重力加速度はg=1.7m/s²である)
一見長ったらしそうに見える問題ですが、これでも東大の物理の入試よりははるかに短く、またはるかに難しい問題です。並の物理の問題集ならもう少し立式しやすい設定になっています。
腕に覚えのある人は、ここから先のネタバレパートは敢えて読まずに、ぜひ一度自分で取り組んでみてください。
実は「ロケット」を最初に考えたのはロシア人のツィオルコフスキー(1897年に考案)という人物で、彼が「運動量保存則」という至って初等的な物理法則を使ってツィオルコフスキーの公式と呼ばれる最も基本的(高校生でも難なく導ける!)な公式を発見したのが宇宙開発の嚆矢とされています。そのため、ご多分に漏れず『モスクワの森』にもロケットがたくさん登場します。
話を設問に戻しましょう。この問題が難しいポイントはどこにあるのでしょうか。
いくつか考えられますが、
①水平方向でも鉛直方向でもない運動なので2方向で分けて考える必要がある。
②ある時刻におけるロケットの速さv(t)がわからない状態で計算を進める必要がある。
の2点が特に深刻です。そのため、今までに見たことのないテクニカルな式変形を要求されるのがこの問題の急所です。
問題を解き始めたはよいものの、3人とも久しく物理の難問に触れていなかったこともあり、はたと手が止まってしまいました。最初15分くらいは「良い問題やな~」とのんきに言っていたものの、次第に筆が止まりだし、進捗のなさと風の冷たさに震えてしまった1人が寒い寒いと訴えて学生会館に場所を移す始末でした…。
(ちなみに、長考中に隣接するお花畑みたいなスペースから五分どころではない魂がありそうな虫さんがビビりな筆者の眼前を颯爽と駆け抜け、思わず素っ頓狂な声を上げてしまいました)。
運動方程式を立てて解くという道筋でいいのか…?などと疑心暗鬼になりながら考えること約1時間、筆者がついに有望な道筋を見つけました。
(道筋)
⑴ vを鉛直方向と水平方向の2つの成分に分ける。鉛直方向の運動方程式1⃣を立てる。
→mとvの関係が知りたくなる。
⑵ツィオルコフスキーの公式(<運動量保存則)2⃣を用いてmとvの関係を導く。
→1⃣からいったんmを消せるので、ここぞとばかりにvを決めたくなる。
⑶得られた微分方程式からv(t)がどのように書けるかを決定したのち、ツィオルコフスキーの公式2⃣を使ってm(t)を表す。目標達成!
さて、やり方がわかればあとはがむしゃらに計算するだけです。artanhとかいう関数と感動の再会を果たしつつ、久しぶりだけあって鈍っている計算脳をほぐしながらゴリゴリ進めていきます。
そして仕上がったものがこちら!おそるおそる計算していったので全部でA4の紙3枚を消費しました。大仕事…
計算が終わったのはなんと15時20分!解決までに80分ほどかかってしまいました。
意気揚々と答えを見ると…あれれ?違う???何か知らない因子が書かれてあります。これは一体…。
実は、筆者は初っ端に出てきた「速度ベクトルの分解」を最後の計算でもう一度反映させる処理をすっ飛ばしてしまっていたのでした!これは非常にもったいない。
しかしながら、0.1radというきわめて小さな角で議論されていたためにそれほど計算値に影響は出ず、結果的に問題集の答えとほぼ同じ形の式・ほぼ同じ値を得ることができました。及第点をあげてよいでしょう。
意外なことに物理のミスの大きな部分をこの手の「筆の誤り」が占めているといっても過言ではありません。皆さんも、書き写し間違いや書き写し忘れには細心の注意を払いましょう。
2問目へ突入
続いて2問目。問題は以下のようになっています:
30km/hで走る自転車の車輪の角運動量の値を評価せよ。
実にシンプルな問題ですね。ざっくりしています。この手の丸投げは日本の問題集だと滅多にお目にかかれませんが、ロシアに限らず海外の問題集だとしばしば見かけますね。
細かい形状を考慮することは要求されていない問なので、ざっくりした値だけ出しておけばよさそうですね。
先ほどの計算を終えて休憩モードの筆者を横目に、一緒に解いている2人は学内の駐輪場でいそいそとタイヤの直径と厚みを図っていました。アブナイ人だと勘違いされていないかが後から心配になってきましたがまあよいでしょう。
ざっくりした寸法さえわかってしまえばざっくりした近似でざっくりした値が出ます。オーダー(10の何乗くらいの値になるか)は一致していたのでこれで問題ないだろうとなり、あっさりと次の問題へ移行しました。
試練の3問目
お次は3問目。いよいよ後半戦突入です。問題は以下のようになっています(注、説明が難しいため、やむなく問題文をそのまま掲載します):
これまたなるほど(??)と思わせるような問題です。
だいぶ日も傾いてきて、予定を超過して熱中している3人衆はこの問題で沼にはまってしまうことになります。逢魔時の森は怖い。
筆者は剛体と呼ばれるタイプの問題に対して経験値が浅く苦手だったこともあり、筋悪な思考に進んでしまっていました。しばらく膠着状態にあったところ、はす向かいに座って解いていたIくんが「答えが出た」と言ったので、一緒に検証することにしました。彼の道筋はこのようになっています。
(道筋)
⑴弾性衝突⇒力学的エネルギー保存 なので、エネルギー保存則を使う。1回目の衝突後は回転が生じるため、慣性モーメントを考慮する。
⑵同じ角度になるということは棒の重心が同じ高さに戻ってきたときのはずなので重力下での棒の重心の移動を考える。
⑶これらを連立し、hについて解く。
これを計算すると確かに答えは出て、φに依存する形でhを書き表すことができます。導出された結果をうまく物理的に解釈できないものの、それらしい結果が出てきました。
いよいよ運命の解答チェックです。ざわ…ざわ… (逆境無頼!)
!?!?!?!? 全然違っているように見えます。
なぜだろうとなり、一同しばし沈黙。そのまま持ち帰って各自考えることになりました。
そしてこの記事を執筆するにあたり計算過程を読み返していたところ、致命的な間違いに気づきました。「回転速度と並進速度がごちゃごちゃになってる!」あろうことか2つの全く異なる量に同じアルファベットを宛がってしまい、混乱が生じていたのです。これでは解けるはずがありません。
しかし、回転速度と並進速度を正しく分けて扱うとなると明らかに条件が足りません。仮定すべき条件をもう一つ増やす必要があります。
ここで作問者が持ち出しているのが「与えられた状況が実現されるためには、棒の重心は静止しなければならない」という条件。あとは角運動量の変化を式にするだけで、力学的エネルギー保存則を軸にした鮮やかな解決が可能になります。思わず呻ってしまいました。重心が重力を受けてどう運動するかを殊勝に考え苦しんでいた自分たちは何だったのか。かなしい気持ちになりました。
ちなみにこの仮定は十分高いところから落とした場合実質的に成り立つとしてよいものなので、確かに妥当ではあります。ただただ悔しい。
物理の問題を考えているとき、人は熱中しすぎるあまり「次元が同じだが全く異なる2つの物理量を同じ文字にしてしまう」というミスをやらかしがちです。そしてこの種のミスは式変形を後から辿るだけでは気づかないことがしばしばあるため、修正に難を要する類の厄介な誤謬です。物理量がたくさん登場する際に基本的な関係式を一つ一つ枠に囲んで書き記しておくこと、そして「文字の被りがないか」や「未知の物理量の数と独立な式の本数が対応しているか」といったごく基本的な確認を怠らないことの大切さを身をもって感じた一問になりました。
いざ、最終問題
自棄気味の私たちは、このままでは終われないという思いに駆られました。ついに最終問題。シェイクスピアよろしくAll’s Well That Ends Wellといきたいところです。
いよいよ問題文を読みます。問題は以下のようになっています:
1molのファンデルワールス気体を垂直に置かれたシリンダー内に入れ、上から面積S、質量Mの重いピストンで押さえる。この気体の定数b(筆者注:ファンデルワールスの状態方程式に出てくる定数)は既知とする。ピストンが平衡点の回りで行なう小振幅振動の振動数を求めよ。圧縮ー希薄化の過程はT=2Tcr(筆者注:Tcrは臨界温度と呼ばれ気体の種類に依存する温度)の等温過程であると仮定せよ。この実験条件の下で、気体の平衡体積Vは臨界体積Vcrに等しいとし、外圧は無視せよ。
「これぞ干天の慈雨!!!」筆者の顔に生気がみなぎります。
一見とても晦渋な問題に見えますが、ファンデルワールスの状態方程式を知っていれば単なる計算問題です。相棒の2人は拍子抜けしたような問題にかえって萎えてしまっているようでした。
ファンデルワールスの状態方程式の臨界点に関する諸性質を忘れていたためややもたついたものの、確かめ終わってからは一本道で計算を進めることができ、慎重を期したこともあって無事正解を導出できました。
ちなみに解答はというと、体積弾性率という概念(そこそこよく使う)を持ち出すことで記述の分量を最小限に抑えており、またもややられたという気分を味わわされたのでした。
こうして時計の針は19時を指し、空腹と脳の疲れに抗えなくなった私たちは、妙な達成感と確かな敗北感を胸に抱き、駒場の学生会館をすべり出たのでした。
魂の延長戦
このままでは終われない。そう決意した我々は、定期的に『モスクワの森』を探勝することにしました。しかしながら、五月祭の記事の締め切りはひたひたと迫っています。そこで、駒場祭までになんとか3人で集まって「泣きの一問」と格闘することにしました。
『モスクワの森』の中でもブログ読者の皆さんに雰囲気を伝えやすい問題を選んできていたため、当然問題の選択肢も限られます。あれでもないこれでもないと嘆きながら問題を吟味していたそのとき、熱力学の章に置かれたお誂え向きの一問を筆者は見逃しませんでした。
その問題がこちらです:
体積がVで一定の断熱容器内に単原子分子理想気体が入っている。容器には面積Sの穴が開いており、容器のまわりは真空である。また容器内の空気と容器外で熱のやり取りは行われないものとする。
このとき、容器内の温度の時間変化T(t)を求めよ。
とりあえず理想気体の状態方程式PV=NkT(Nは総分子数、kはボルツマン定数)を立てたほうがよさそうという見込みは立ちます。しかしこのままでは、n、P、Tの3つが時間変化するため、状態方程式でこの3つのうち1つを消せるにせよ未知の物理量が2つ残ってしまいます。そのため、温度Tの時間依存性を調べるにはもう二つ式を立てなくてはなりません。
そこで、我々はしばらく考えたのち、「素朴に」アプローチして二つの式を立てることを思いつきました。
①単位時間当たりの総分子数の変化(dN/dt)をN、Tを用いて書き表す
②単位時間当たりの気体の内部エネルギー変化(dU/dt)を用いてdN/dtとdT/dtの関係を出す。
高校の熱力学では気体分子運動論というものが登場します。実はこれがまた色物で、熱力学を名乗っておきながら考察の進め方はまさしく力学という、けったいというよりほかない存在です。しかしながら一方で、気体分子運動論の議論は時として決定的な役割を果たしてくれるため、この手の中途半端さがあっても初等物理の基礎知識として定着しています。
今回の私たちも例外ではありません。高校生に戻った気持ちで、気体分子を素朴に、言い換えれば「粗野に」扱いつつ、工夫しながら着実に計算を進めていきました(写真)。
しかしここでトラブルが発生。答えとして出した解の次元がどうもあっていないのです。いかにもあっていそうな答えなのにこんなことになるのはどこかがおかしいぞ、ということになり調べたところ、ホワイトボードの切り替わりのタイミングで写し間違えが発生してしまい、それに引きずられる形で式の中も一文字足らなくなっている、ということが発覚しました。
皆さんも、物理の問題を解き終わったら必ず次元を確認しましょう。次元チェックは物理での計算ミスを発見できる数少ない常套手段です。次元チェックを意識的に行うだけで間違いの二、三割は減らせる気がしますね。
さてさて、前出の式に立ち戻ることで次元を修正することもでき、これで完璧!と言ってよさそうです。意気揚々と問題集の解答を開けます。
あれ、何か係数が違うぞ…?あれれ…??
ここで3人は一斉にあることに気づきました。そう、この問題は熱力学ではなく統計力学を前提にしていたのです!
熱力学という枠組みでは、分子の速さは平均化されており、あたかもすべての分子が同じ速さで動いているかのような扱いをします。実際の分子には遅い分子も速い分子もいるのでこれは不正確な描像といえます。
しかし統計力学という更に進んだ枠組みでは、分子の速さはある分布に従ってバラけているものとして扱えるのです。
では統計力学の枠組みを採用した場合どうなるのでしょうか。遅い分子と比べて速い分子のほうが穴に該当する部分に到達する可能性が高い以上、遅い分子よりも速い分子のほうが早々に穴から出て行ってしまいます。そのため、「穴から出ていく分子の平均速さ」は「容器内の分子の平均速さ」よりもいくらか大きいはずです。
筆者含め3人はこの重大な前提に立脚せず進めてしまったがために、統計力学を運用して精密に導いた答えにただ感嘆するしかありませんでした。
とはいえ、係数さえ目を瞑れば式の形は全く同じになっており、そういう意味では温度Tの時間依存性は見出すことができました。早起きが報われて純粋に嬉しかったですね。
もしかしたら皆さんも、物理に関する問題を考えたり嗜んだりする機会があるかもしれません。そんなときに、より高級な理論体系が視界に入ってきた中で問題解決を試みる場面にもしばしば出くわすことになるでしょう。このような場合、初等的な理論で考えをアバウトに組み上げてしまうべきか、それとも高級な理論で緻密に答えを出そうと目論むべきか、この2択を突きつけられることになります。特に問題集の問題を解く場合は、作問者の想定するスキルを想像することが決定的に重要です。今回の場合は、統計力学的に解いてほしい問題を熱力学的に答えてしまったため、齟齬を生んでしまいました。皆さまも「道具」の過不足には重々注意してくださいね。
深い森を抜けて
ここまで長々と『モスクワの森』の冒険譚を書いてきましたが、我々の向上心が燃え尽きてしまったわけでは全くありません。これからもまめに問題を解き進めていき、一見地味であっても地に足のついた「いぶし銀の物理屋」を目指していきたいです。いささか冗漫な記事を辛抱強くお読みいただき誠にありがとうございました。
おまけ
ヒントは次の通り。カタカナ9文字で書くことに注意してください。勘の良い皆さんなら、もうおわかりですね…?
(ヒント)
「地球は青かった」などの名言で知られる、ソ連出身の世界初の宇宙飛行士。ちなみに、彼が訓練を受けた宇宙飛行士訓練センターは、モスクワ近郊の森の中に作られた「星の街(Звёздный Городок)」という地区にあります。