まえがき
1920年、ロシア出身の発明家レフ・テルミンによって世界初の電子楽器「テルミン(Терменвокс; チルミンヴォークス)」が開発されました。手の動きで発振器の周波数を変動させる単純な仕組みでありながら、その電子的な音色や斬新な演奏法は世界中の注目を集めたといいます。
それから1世紀余りの間に電子楽器は目覚ましい発展を遂げ、こんにちの音楽には欠かすことの出来ない存在となりました。そんな電子楽器の歴史におけるひとつの到達点ともいえるのが、YAMAHAのボーカロイドに代表される歌声合成ソフトウェアでしょう。
本記事では、そんなボカロを使用した楽曲と、それらに関係するロシア文化を無理やりこじつけ絡ませながら語っていきたいと思います!
ヘッダーに使用した画像 Hatsune Miku / Crypton Future Media inc. は CC BY-NC ライセンスの下で提供されています.
1. マトリョシカ / ハチ
ニコニコ : 【オリジナル曲PV】マトリョシカ【初音ミク・GUMI】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)1曲目は言わずと知れた超人気曲。2010年8月にニコニコ動画投稿されたハチ氏の第15作目です。BPM200超えでギターが掻き鳴らされる激しいロックスタイルは、後続のボカロ音楽にも大きな影響を及ぼしました。
この曲のタイトルであり、歌詞にも登場するマトリョーシカ人形(Матрёшка)はロシアの伝統的な民芸品です。といってもその歴史はそれほど長くはなく、1897年頃、当時ロシアの民俗や古代文化をイメージした美術工芸品が流行していた中で生み出されたといわれています。日本の七福神入れ子こけしに由来するという説も有名ですが、真偽は定かではありません。『マトリョシカ』のMVにはWikipediaがそのまま引用されていたりするので、詳しい解説はそちらに譲るとしましょう。Original photo: User:FanghongDerivative work: User:Gnomz007 - removed background from File:Russian-Matroshka2.jpg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=227816による
ところで、マトリョーシカ人形の最大の特徴といえば、なんといってもその入れ子構造。ひとつ開けても中にいて、もうひとつ開けても中にいて…そんなマトリョーシカ人形をモチーフに選んだハチ氏が伝えたかったメッセージとは、一体なんだったのでしょうか?
わたしなりに考えてみましたが……わかりませんでした!
どこまでも核心に辿り着けない、そんなハチ氏の作詞の深遠さを象徴しているのかもしれませんね!(投げやり)
Калинка, калинка, калинка моя!
(カリンカ、カリンカ、私のカリンカよ!)
В саду ягода малинка, малинка моя!
(庭には私のマリンカ、マリンカの実よ!)
カリンカ(Калинка)はガマズミ属の植物、特にロシアで森や河原に自生し庭や公園にも植えられる身近な低木「カリーナ(カンボク)」の親しみを込めた呼び方です。目を引く白い花と赤い実からロシアでは若い女性のシンボルとされる一方、苦い実をつけることから民謡においては悲しみや辛さを象徴することもあります。
一方、マリンカ(Малинка)はラズベリーの一種「マリーナ(ヨーロッパキイチゴ)」の愛称です。こちらは赤く甘い実をつけるため、カリンカ同様に若い女性を象徴することもあれば、苦いカリンカと対比的に幸福や美しさを表す場合もあります。
いずれもロシアの民俗文化において重要である二つの植物を併せた『カリンカ=マリンカ』は、愛の目覚めや結婚を想起させるフレーズとしてロシア民謡にしばしば登場します。さらに、現在では伝統的なロシアの民俗そのものを象徴する名称として様々な店名や楽曲に広く使われてもいます。
きっとハチ氏も、マトリョーシカから連想されるロシアにまつわる語呂の良い文句として『カリンカ=マリンカ』を引用したのでしょう。また、一気にテンポが上がり駆け抜けるように終わる『マトリョシカ』のクライマックスは、緩急激しい『カリンカ』の楽曲構成を意識しているような気がします。
さらに加えると、ハチ氏が自ら手掛けているPVにもロシアの文化を意識した要素があるように思います。真夏の8月に投稿された曲なのにミクとGUMIは厚手のパーカーとグラブを身に着けていますし、黄色や赤を基調としたビビットな配色や白黒で描かれたビル群の造形はロシア・アヴァンギャルド的なスタイルを想起させます(この辺りは私自身あまり詳しくないし、深読みしすぎな気もするので自信をもっては言えませんが……)。
画家カジミール・マレーヴィチ『シュプレマティスム』(左)と建築家コンスタンチン・メーリニコフの邸宅(右)
右:Sergei Arssenev - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4159579による
2. トロイカ / ロシア民謡
ニコニコ : ロシア民謡、 トロイカ (合唱:Vocaloid、ソロ:がくぽ) - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)走れトロイカほがらかに 鈴の音高く (劇団カチューシャによる訳詞)トロイカ(Tройка)はロシアでかつて使われていた馬車のことで、積雪時は車輪を外してソリとしても使われたといいます。取り上げた動画のサムネイルにも使われているこの絵は Aleksander Orłowski という18世紀ポーランドの画家が描いた版画です。
響け若人の歌 高鳴れバイヤン (劇団カチューシャによる訳詞)バイヤン(Баян)はアコーディオンの一種で、20世紀初頭に開発されたロシアやウクライナの民族楽器です。現代では音色の豊かさからオーケストラ等にも使われています。Henrydoktorski, Henry Doktorski - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4885373による
ところが日本語訳詞の明るさとは裏腹に、『トロイカ』のロシア語原詞はとても悲壮的で、トロイカ御者の男が金持ちの男に想い人を奪われてしまう悲恋を歌ったものとなっています。トロイカ馭者という存在は帝政ロシアの圧政下で貧苦に喘ぐ庶民生活の一つの典型的な姿であり、彼らの悲運や生活苦を歌ったロシア民謡は他にも多く存在するのだといいます。
原詞に比較的忠実な訳はこちらに引用されています。
(余談ですが、この忠実な方の訳詞はかつて東大音感合唱研究会によってつけられたものだそうです。音感は少々複雑な歴史的経緯をもつ団体ですが、現在ではインカレバンドサークルとして活動されていて、かのwowaka氏が東大在学中に所属していたサークルでもあります!)
ちなみにこんなものも……調声は良いのにどうしてこうなった。
ロシアとかの国歌とか民謡とかを聴いてみる会 #1 ロシア編
3. 1000年生きてる / いよわニコニコ : 1000年生きてる / いよわ feat.初音ミク - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
いま大注目のボカロP、いよわ氏の第16作目。The VOCALOID Collection 2020冬の楽曲ランキングで第5位に輝いた、作者の代表曲の一つでもあります。どこか不安定で独創的な音楽性と、ポップな可愛さの中に毒々しさを孕んだMVといういよわ作品の魅力はこの曲でも遺憾なく発揮されています。ハチ氏と同様、MVまで自身で制作されているというから驚きです。
こちらのいよわさん、私がいま最も推しているボカロミュージシャンの一人です。これを言うためにこの記事を書いているといっても過言ではなくて(過言)、マジで最高なので知らなかった人はぜひ聞いてほしいです。一番人気のある楽曲として取り敢えず『きゅうくらりん』がオススメ。1st, 2ndアルバムもサブスクで聴けるので聴いてください。さて、ここで取り上げたいのは、『1000年生きてる』で主題的に用いられている誰もがご存じ「あのフレーズ」。ロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』で各曲の合間に挟まれる小曲『プロムナード』の特徴的なメロディが、間奏・後奏に引用されています。さらに、よく聴くと2番Aメロやラスサビの伴奏でもこのフレーズが歪んだピッチで鳴っていることが分かります。
『展覧会の絵』は、親友の画家ヴィクトル・ガルトマンの死をひどく悲しんだムソルグスキーが彼への追悼として作曲したとされています。芸術家ガルトマンはロシアの民衆の伝統芸術をモチーフとして採り入れる「ネオ・ロシア」様式の先駆者であり、ムソルグスキーの音楽や後の芸術の潮流に大きな影響を与えました。10枚のガルトマンの絵画をイメージして作曲された『展覧会の絵』は、ガルトマン作品の民衆様式を引き継いで伝統的なロシア民衆音楽の要素をふんだんに採り入れ、新しいロシアの音楽語法の創造へと繋がりました。こうしてムソルグスキーにより死後大きくスポットを当てられたガルトマンは、歴史的に重要な芸術家として現在に至るまで高く評価されています。
狂ったフリでごまかしていこうぜ『1000生きてる』の歌詞では、芸術家、あるいはより広く「何かを成そうとする人間」の営みの儚さがやや皮肉めいて語られています。同時に、それでも朽ちることなく遺り続ける本質とは何かを問いかけているように思います。
骨も残らぬパパママよ
ガルトマンとムソルグスキー。残酷な死によってその仲を裂かれ、それでも100年以上の時を経て世界中で親しまれる二人の芸術家の生涯に思いを馳せれば、これらの歌詞にまた違った聴き方が生まれてくるのではないでしょうか。
残り時間の少ないヒューマン
見ててあげるわ 楽しませて
生き汚く生きて何かを創ったら
あなたの気持ちが1000年生きられるかもしれないから
4. 体操 & 階段 / YMO(Cover)
Yellow Magic Orchestra(YMO)といえば、80年代日本にテクノブームを巻き起こし後年の日本音楽界にも多大な影響を遺した、レジェンド的な音楽グループです。『ライディーン』や『テクノポリス』等の有名曲はみなさんも耳にしたことがあると思います。そんなYMOの楽曲をボーカロイドを使ってカバーする「HMO(Hatsune Miku Orchestra)」というジャンルがかつてニコニコ動画で流行したのはご存じでしょうか?
冒頭に載せた『体操』のカバー動画はそんな「PAw LABORATORY」が製作したHMO作品の一つですが、今回もう一つ取り上げたい動画がこちら。
【第17回MMD杯本選】STAIRS / YMO - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
6.紹介しきれなかった曲たち
執筆時間や記事の尺的に紹介しきれなかった曲たちです。
【初音ミク】 ライカ 【オリジナル曲/彩音 〜xi-on〜】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)モスクワを擁して / ふる feat. 初音ミク - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
疾走感のある曲調と力強い歌詞が魅力のオリジナル楽曲。歌詞にはロシア語のことわざも含まれます。詞やMVで描かれるストーリーは『さらばモスクワ愚連隊(五木寛之作・新潮文庫)』というソ連時代のモスクワが舞台の短編小説をモチーフとしているようですが、作者のブログがリンク切れになっているので詳細は不明です……。
【巡音ルカオリジナル】 filozofio 【ロシア語ルカ】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
【巡音ルカ】 filozofio -Другой- 【オリジナル】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
ロシア語の詞がついたボカロオリジナル曲の中では最も有名だと思います。
VOCALOID2 初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせてみた - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
ロイツマ・ガールのFlushがロシア発祥ってマジ……?ヾ(゚□゚@)
7.あとがき
というわけで、若干迷走気味にはなってしまいましたが、私の好きなボカロ音楽をロシアの文化との繋がりという新しい目線で見直すことができたと思います。執筆中、曲を聴き直したりネットや本の情報に当たったりして新たに学ぶこともありました。少しでも面白い / 勉強になった / 長文乙とか思っていただけていたら幸いです。クロスワードのカギを再掲して締め括りとします。Спасибо за чтение!
タテのカギ 1P『マトリョーシカ』
8.参考
- 沼野充義,沼野恭子,平松潤奈,乗松亨平 編著『ロシア文化 55のキーワード』ミネルヴァ書房
- 狩野昊子『ロシア語の比喩・イメージ・連想・シンボル辞典 -植物-』 株式会社日ソ
- 山碕雄一『われらの青春のうた -ロシア民謡翻訳歌詞考-』渓水社
- オーランドー・ファイジズ 著/鳥山祐介,巽由樹子,中野幸男 訳『ナターシャの踊り(上)』白水社
- タチヤナ・ヴィクトロヴナ・コトヴィチ 著/桑野隆 監訳『ロシア・アヴァンギャルド小百科』水声社
- YMO history text (dti.ne.jp)
- Wikipedia