1000年先のあなたの涙を止めに行きたい

これは小さな、遠い世界からのプレゼントで、われわれの音・科学・画像・音楽・考え・感じ方を表したものです。私たちの死後も、本記録だけは生き延び、皆さんの元に届くことで、皆さんの想像の中に再び私達がよみがえることができれば幸いです。
   ボイジャーのゴールデンレコード より





 貴方の泣き顔に一目惚れをした。
 遥か千年先の、何も知らない貴方の泣き顔だった。
 
*  *  *  *  *
 
「今年のワープ賞って誰かな」
「結局『地球』って星は見つかったの?」
 ここ最近の学校での話題は、もっぱらこの二つに分類される。
 一年に一回、最もこの星に貢献した人間に贈呈される「ワープ賞」。これを手に入れた者は多額の賞金と、一生に一度だけ、好きな星へとワープできる権利が与えられる。当然往復分。この星の人間はこの権利を否が応にでも手にしたがる。でも、私はあまり興味がない。
 私の最近の興味を強いて言えば、もう一つの話題の方だ。つまり、「地球」という星について。
 私達の星に、どこかの星からの飛来物が不時着した。その飛来物には様々な言語で何かが記されていたらしい。この星の歴史上で最も驚くべき大事件だ。この星以外にも、文明を築くような生命体がいるという事なのだから。私のような何でもない学生に分かる事なんて少ないけど、ただ一つだけ知っている事。「地球」という星の名前。その名だけが、私達の中に深く刻まれている。
「電波と光は同じ速度で進むわけです。つまり自由空間におけるアンテナゲインを考慮すると……と、今日はここまでにしておきましょうか」
 先生がちらりと時計に目をやる。授業終了の五分前だった。生徒もその緊張から解かれて少しざわざわとし出す。必然、四方から「地球」という単語が耳に入る。
 私達の先生は不思議な人だった。一見するとどこにでもいるような中年の女性なのに、どこかに色気というか魅力がある。この人の言葉なら、例え「死ね」と言われたって盲信できてしまうような、そんな説得力と存在力のある人だった。
「学者の友人が言っていた事ですが、地球からの飛来物には言葉だけでなく、何かを伝えようとするイラストも数多く描かれていたらしいです」
 教師モードを解いた先生が、「地球」という単語を拾ってそう言った。ここ最近は、「地球」という星について少しでも何かを知っている事が、それだけで一種のステータスになりつつある。馬鹿な話だと思う。
「それによると、『地球』に住んでいる——ここでは便宜上私達と同じ『人間』としますが——人間は、恐ろしいくらいに私達と酷似しているらしいのです。顔があり、手があり、胴があり、足があり、脳があり、心があり、愛がある。信憑性は不確かですが、とてもロマンチックな事だと思いませんか」
 スカートから伸びる足、特に太くも細くもない腰回り、何の変哲も無く肩甲骨まで伸びた黒髪。私は無意識に、そうやって自分の体を撫でていた。これを全く同じ構造をした生き物が、宇宙のどこかにいる。
 先生の話を聞いていた生徒が少しざわつきだす。この反応は予想の範疇だったのか、先生は満足そうに微笑む。そして、足元にあった箱から何か道具を取り出した。その瞬間、教室の喧騒が鳴り止む。あれは、「双眼鏡」だ。
「これが何か、もうお判りでしょう。明日から始まる夏休みの間、学校からこの『双眼鏡』をお貸しします。学校の備品ですので性能は低いですが、範囲はざっと千光年といったところです。くれぐれも扱いには気を付けて」
 先生が教室を練り歩き、生徒達に直接双眼鏡を手渡していく。本物を見るのも触るのも、私は初めてだ。ワープ賞ほどではないにしろ、それなりの成績優秀者にしか触れる事が許されない道具。「傍聴機」や「電話」と並んで、三神器と大層な括りをされる事もある。
「この学校はそもそも、よその学校と比べてもレベルの高い学校です。ある一定の成績であれば、『傍聴機』も『電話』もお貸しできます。ワープ賞を目指す人間であれば、必ず手にするものです」
 双眼鏡を配り終えた先生が、教卓の前に立ちながら言った。ワープ賞はどうでもいいが、傍聴機や電話はなまじ手に届く距離にある分、少し興味が湧いてしまう。
「この双眼鏡を使って、好きな星を見付けてください。そして、その星についてのレポートをまとめる。それを夏休みの課題とします」
「もしかすると、地球も見つけられるかもしれませんね」。先生は、少し不敵な笑みを浮かべて授業を終えた。私にとってはあまりに長く、退屈な夏休みが始まろうとしている。
 
 ワープ賞と比べれば地球の方に興味があるというだけで、躍起になってその星を見付けたいとは思っていない。文字通り「星の数ほど」浮かぶ中から、たった一つの星を見付けられるとも思っていない。そもそも、地球を見付けたとしてもそれが「地球」だという証明はできないのだ。
 双眼鏡のダイヤルを、マックスの「千年」に合わせる。最新技術では百万光年先まで見える道具もあるらしいが、それがどのくらいの距離かなんて想像もできない。簡単に「一光年」とは言うが、光が届くのに一年かかる距離すら実感が湧かないのだ。
 家の窓を開けると、湿度を多分に含む夏の夜が部屋に入り込んできた。クーラーを付けるにはまだ早いと何となく思う。温い夜風が、私の髪を優しくなびかせる。
 部屋の明かりを消し、瞼を閉じて眼が闇に慣れるまでを少し待つ。そしてもう一度眼を開けた時、夜空に点在する星々が瞬いて見えたから、私はそっとレンズを覗き込んだ。
 宇宙には、様々な星があった。舞い上がる赤い砂や、渦巻く黒い炎。ただただ広がる白い地平線と、無数に降り注ぐ青の雨。私はこの日やっと、「世界は広い」という言葉の本質に近付けた気がした。
 十分ほどした時、直感的に「駄目だ」と思った。このままだといつまで経っても終わらない。レンズから一度眼を外し、また瞼を閉じて一つ息をつく。次に眼に入った星をレポートにまとめよう。そう決めた。そうしないと延々と迷ってしまいそうだった。
 瞼を閉じたまま、レンズだけを当てる。適当な方角に双眼鏡の先を向け、適当なタイミングでそっと眼を開けた。
 
 後にも先にも、宇宙の歴史という尺度で考えても、馬鹿な話だと心底思う。
 千光年先の、知らない誰かの泣き顔に恋するなんて。
 
 綺麗だと、率直に思ってしまったのだ。
 たった一分前、宇宙の美しさを目の当たりにしたこの眼で、それすら笑い飛ばしてしまうくらいに綺麗だった。
 彼は「人間」だった。どこか広い草原のような場所で、たった一人で泣いている。声も出さず静かに。ともすれば、涙が出ている事にすら自分で気付けていないかのように、あまりに自然に。彼の手には、手紙らしきものが握られていた。
 もう一度言うが、彼はあまりにも「人間」だった。私は疑う事もなく、彼のいる場所はこの星のどこかだと、つまり双眼鏡が故障したのだと思った。
 しかし、次に眼に留まったものに私は混乱する。彼の傍には看板らしきものがあって、そこには私が見た事のない言語で何か書かれていた。草原にあるのは、手紙を握って涙を流す彼と、看板と、大きなスピーカーの供えられた一本の電柱。それだけだった。
 この星の言語は一つに統一されていて、私の知らない言語なんてあるはずがない。あるとすればどこか遠い星の言葉。でも、あまりに広い草原で、世界でたった一人のように泣き続ける彼は、どこからどう見ても人間で。
 何がどうなっているのか分からない。彼は誰なのか。彼はどこにいるのか。彼は、どうして泣いているのか。レポートの存在などとうに忘れていた私は、とある単語を思い出した。最近になって、私の耳を通り抜けるようになったあの単語を。
「……『地球』?」
『地球』に住んでいる人間は、恐ろしいくらいに私達と酷似している。先生の言葉を思い出す。
 彼のいる場所が、私が見ている千光年先が、地球だとすれば。彼に泣くような「心」がある事も、あそこに私の知らない言語がある事も、全て辻褄が合う。
 でも、理解はできたって納得はできない。この永遠にすら思える宇宙の中で、どれだけの時間をかけたって把握できるはずもない無数の星々の中で、たった一つの星を見付けられる可能性がどれだけあるだろう。そんな天文学的な確率。まさか、そんなはずがない。
 いや、多分違う。私は否定したかったのだ。信じたくなかった。そんなはずはないと思いたかった。
 だって、もしあそこが地球で、彼がこの星にいないんだとしたら。私は、千光年先の宇宙人に恋をしたという事になってしまうじゃないか。どう抗ったって叶うはずのない恋をしてしまったという事じゃないか。
 なのに、私は彼から目が離せない。叶わない恋も、余りに広すぎる宇宙も、全てがどうでもいいくらい、彼が綺麗だったから。
 彼はまだ泣いている。どこか遠くを見つめ、瞳から雫を零し続けている。あの涙を止めるのが私であればいいと、そんな事をふと思った。
 
*  *  *  *  *
 
「申し訳ないですが、見覚えがないですね」
 先生が私のメモ書きを見て呟く。昨日の晩、彼が手にしていた手紙の一部を見様見真似で書いたものだ。まあ、これで先生が知っていたらそれはそれで驚く話だけど。
「何かの古代文字でしょうか?」
「ええ、そんなところです」
 何となくごまかしておく。ここで馬鹿正直に「地球を見付けて、そこにいた人間が書いたと思われる文字です」なんて言ったらどうなるか。想像もしたくない。
「珍しいですね。貴女が勉強だなんて」
 先生が細い目を少しだけ開いて言った。私は視線を逸らし、ごまかすように「そうでしょうか」とだけ言った。
「貴女はとても頭が良いのに、それを活かそうとも伸ばそうともしない。教師からすれば、これほど惜しい生徒はいません。私は少し嬉しいです」
 勉強が嫌いなわけではない。いや、普遍的に嫌いではあるけど、苦痛を感じるほどではない。でも、私が本気で勉学に向き合ったところで、私が勝てない人間なんていくらでもいる。一番にもなれない、私にしかできないわけでもない。そんなものに、本気でのめり込む意味なんかない。
 先生は「ワープ賞を取れるかもしれませんね」と冗談交じりに言った。教師が冗談の種に使うくらい、それを取るのは非現実的という話だ。私はそれになんとなく愛想笑いを浮かべる。
 話が一段落して一瞬の沈黙が私達を包んだ時、先生が「あの」と目を細めながら呟いた。
「このメモ、少し預かっていてもいいですか?」
「それは構いませんけど、どうしてです?」
「単純に興味が湧きました。私も個人的に調べてみたいです」
 先生がメモを見つめながら言う。まさかこれで地球という星に辿り着くわけでもない。私は適当に「お願いします」と返した。先生もそれに了承の意を込めて微笑んでくれる。まあ、こういう事があるなら、先生の信頼を得ておくのは悪い事じゃないかもしれない。
 窓の外を見ると、空が夕焼けの橙色に染め上げられている。地球のある銀河にも、太陽のような惑星があるのだろうか。
 今日も彼はあの場所にいるだろうか。今日は泣いてはいないだろうか。なんて、無気力な私がこんなにも彼で満たされつつある事実に笑ってしまう。先生はそれに不思議そうに首を傾げた。私は「何でもありません」と首を横に振る。
「では、先生。お邪魔しました」
 それだけ言い残し、私は職員室を早歩きで退室する。夜は、もうそこまで来ている。
 
 双眼鏡には、一度見付けた場所の座標のようなものを登録する機能がある。そもそもそれが無ければレポートを書くなんて到底無理な話だ。ともかく、私は昨晩のうちに地球の場所を登録しておいた。
 思い出すだけで胸が高鳴る。少し怖くすらある。自分が変わる瞬間というのを、生まれて初めてこの身に刻んでしまった気がした。私はもう少し、理性的だと思っていた。この恋は終わりにしか向かわないのに。でも、止められない。私は、私がこんな人間だなんて知りたくなかった。
 恋だとかいう余りに不透明な概念。それに振り回される自分に自己嫌悪する。でもそれすらも、もうすぐ彼を見られると思うとどうでもよくなる。私は深い息を一つ吐いて、双眼鏡のレンズを覗いた。
 かくして、彼はそこにいる。胸の容器みたいなものが、瞬間的に満たされていくのが分る。私は多分、この瞬間の為だけに生まれてきたのだと思う。
 彼は、今日は泣いてはいなかった。ただ広い草原の真ん中、どこか遠くをぼんやりと見つめながら、優しく吹く風に少し目を細めている。その手にはやはり、手紙のようなものが握られている。
 彼と出会ってから、知りたい事ばかりが増えていく。そこは本当に地球なの? いつも何をしているの? いつも何を思っているの? その手紙は何? どんな声をしているの? どうして泣いていたの? 貴方は、誰? 訊きたい事はこんなにも溢れるのに、それを問うにはあまりに距離が遠い。私はただ、貴方の事を知りたいだけなのに。
 彼はしばらくぼうっとした後で、どこからかペンのようなものを取り出し、そして手紙に何かを書き始めた。やっぱり、私達人間と同じだ。地球からの飛来物と同じように、自分の意思を他者に伝えようとする欲求と手段を持っている。極めて高度な文明があると思わざるを得ない。
 彼が何を書いているのか、私にはすぐにわかった。顔があり、手があり、胴があり、足がある。この星にも、おそらく彼のいる地球にも溢れているもの。あれは多分。
「……『人間』だ」
 別に、とてもリアルな造形で描かれているわけではない。ただ、シンプルな形でも分かってしまうのが人間で、あるいは、それっぽい形でもそうだと直感的に分かるのが私達が人間という証明かもしれなくて。
 やがて彼は、そのイラストを図解するような文字を書き始めた。これもまた直感だけど、昨晩の彼が持っていた手紙の言語と同じだと思う。雰囲気が似ている。もちろん、何と書いているかはさっぱり分からないけど。
 そこで私は、ふと思った。
 分からないのなら、分かればいいだけじゃないか。
 あの単語は多分、「手」、あるいは「腕」という意味だ。なら、あれが「頭」だし、あれは「足」で、あれは「胴」とか「体」とか、そういう意味だろう。
 いや、材料はあの手紙だけじゃない。彼以外にも目を向ければ、彼のいる星にはたくさんの言葉があるはずだ。私達と同じくらいの文明を築く彼らだ。言葉はどこにだって溢れているに違いない。
 長くて退屈になるはずだった夏休みが途端、とんでもなく短いものに感じられる。全てを網羅するのは到底無理だろう。それでも、彼が誰に何を伝えようとしているのか。それだけを知りたい。私はただ、貴方だけを知りたい。
 同時にふと、私は妙案を思い付いた。
 
*  *  *  *  *
 
「大変失礼な言い方になってしまいますが、どうしたのですか」
 レポートを提出すると、先生は目を見開いて驚いたように言った。しかも、夏休みが始まってたった数日。驚かれるのも無理はない。でも、私はなんとなく「何の話でしょうか」とでも言いたげに首を傾げてみた。
「今までは課題なんて出さずに単位ギリギリだった貴女が、夏休み明けの課題を夏休みが明ける前に提出するなんて」
「私が言うのはなんですが、課題を提出するのは当たり前の事です。それで驚かれていたら、ちゃんとやっていた他の生徒が報われませんよ」
「私が言っているのはそこです。それだけなら驚きません。いや、多少は驚くかもしれませんが何も言いません」
 先生は私のレポート用紙を、正確に言えばノートをそっと閉じた。用紙数枚分でいいはずのレポートが、事細かに丸々一冊分書かれたノートを。
「星の詳細があまりに正確に書き表れている。それも、ノート一冊分も。他のどんな優秀な生徒でも、ここまでやった人はいません」
 地球の言語を勉強しようと、できる限りあの星を観察した。その中で分かった事は二つ。私達では区別できないほどの言語が点在している事と、この星と地球とでは科学技術にかなりの差があるという事。
 もしこれらをレポートにまとめれば、大きな称賛を得られると思う。ワープ賞も夢ではない距離になるかもしれない。でもそれは私の努力ではなくて、あくまでも偶然の産物に過ぎない。そうでなくても、彼のいる星を学校の課題なんかで消費しようとは思わない。
「よくこんな星を見付けましたね。自然がある星というのも珍しい」
 だから私は、できる限りの事を隠した。言ってしまえば、高度な文明を築いた生命体が存在している事を。代わりに、自然が綺麗な星という事だけを書き記したのだ。これまでにそういう星が見付かった例は無いわけじゃなかったから。
「ラッキーでした。他の生徒はどうだったんですか?」
「今年の生徒にはいませんでした。二、三年に一度見つかればいい方ですから」
 先生は会話を戻すように「本当にどういう気まぐれですか」と問う。二、三年に一度の発見より、私が真面目に課題を提出した事の方が驚きらしい。
 これで先生の信頼を得た、なんて思うのはあまりに虫のいい話だと思う。でも、このタイミングで言うしかなかった。
「実は、先生にいくつかお願いがありまして」
 そう言うと、先生は一瞬だけ呆気に取られたような表情を見せたが、すぐに小さく息を吐いた。「そっちが真意か」とでも言いたげに。
「とりあえず聞いてみましょう」
 私はここで、ほんの少しの間を作った。これから言う事は、少なからず私にとって大切な事であると強調したかったから。
「双眼鏡を、もう少しの間お借りできませんでしょうか」
 先生は細い目を更に細め、「理由は?」と訊ねる。糸目というか最早ただの線だ。
「その星をもう少し調べたいんです。それでもまだ一部しか書き表せていませんので」
 私は先生の机にあるノートを指差した。まあ、半分嘘で半分本当と言ったところだ。
 先生は少し眉をひそめて考える仕草を見せた後、「いいでしょう」と息を吐く。納得してくれたようだった。
「勉学の為、という事であれば駄目だとは言えませんし」
「ありがとうございます」
 よかった。これでまだ、もう少しの間だけ彼を見ていられる。全部全部どうでもよくなるような恋に、まだ縋っていられる。
 先生は私の顔をじっと見つめる。「他には?」とでも問いたいのだろう。私はそれに応えるように頷き、また一泊の間を置いて口を開いた。
「それと、あと一つだけお願いを」
 
 彼が使っている言語は、大きな括りで「日本語」というらしい。しかもこの言語は厄介な事に、文字にすると三種類ほどの区別ができる。さすがに夏休みの数日で全てを使い分ける技術は身に付かない。でも、「ひらがな」というものだけは何とか使えるようになったつもりだ。
 双眼鏡を覗く。まず目に入ったのは、最初に彼を見付けた時にも見た看板だった。今なら分かる。あれは『そうげん』だ。その前に二つ、「漢字」が付いているがあれは読めない。とにかく草原の名前なのだろう。
 双眼鏡の位置を少しずらすと、今日も彼はそこにいる。いつものように、手紙を手にしてどこか遠くを見ている。目にかからないくらいの黒い髪が、風に流されて繊細になびいている。チャンスだと思い、私は双眼鏡を手紙の方にズームさせた。
『……どこの、かも、からないでしょうが、……は、あなたと、になりたいです。……は、という、に……んでいます。もしこの、を、んだら、に、いに、てくれると、……しいです。……る、なら、も、いに、きます』
 とりあえず、読める部分にはそう書いてあった。ちゃんとした意味は分からない。でも、やっぱり誰かに宛てて書いたものらしいというのは漠然と分かる。
 ところで、この場所から彼を見ているだけでは、私が唯一知れないものがある。声だ。音だ。彼がどんな声をしてるのか、私はそれを知らない。加えて、日本語というものがどんな発音なのかも、私には知る方法が無い。それが私達に聞き取れるのか、発音可能なのかどうかも。
 だから私は先生に頼んだのだ。「傍聴機」を貸して欲しいと。
 有線イヤホンとほぼ同じ形をしたそれを鞄から取り出す。任意の場所で鳴っている音を、電波を使ってこのイヤホンから聞き取る。それが傍聴機だ。元々は他の星の偵察に使われるものらしい。まあ、あながち間違ってはいないし大丈夫だろう。自分に言い聞かせる。
 一度双眼鏡を手元に置き、傍聴機に地球の座標を入れる。もっと詳しく言えば、彼がいる場所を。初めて聴く彼の声は、眼を瞑ってそれだけに集中していたかった。
 高鳴る鼓動は、彼の声を邪魔するほどに胸中で音を鳴らしている。少し息を整え、そして私は、そっと傍聴機を耳に挿した。
 最初に聞こえた音は、不思議と聞き慣れたもののように思えた。これは多分、風が耳元を切っている音だ。ただの雑音でもいいはずなのに、風の音は私の身にゆっくりと染みていく。暴れていた心臓が落ち着いていくのが分かる。これが、地球の音。
 しばらくそれに耳を澄ませていて、次に聞こえたのは鋭くて耳を劈くような音だった。小さな音だけど、細く耳を突き刺すような音。私が知っているもので例えるなら、金属音に近いかもしれない。何か、金属の箱を開け閉めしているような音。
 そして、その次に聞こえた音を、私は一生忘れないと思う。
「『どうしてだろう』」
 直感した。彼の声だと。
 例えるならそれは、今日のような夏の夜空に似ている。途方もなく遠く、深く、広く。なのに、私を呑み込む為だけの黒なのだと錯覚してしまうような。そんな、近くて遠い場所の声だった。
「『でも、書かなくちゃ』」
 彼が何と言っているのか、何を言っているのか。当然私には分からない。それでも私は、意味が分からなくともこの声だけを聴いていたかった。世界が、宇宙が、彼の声で満たされる事を祈ってさえいた。
 私はしばらくの間、傍聴機を耳に挿して窓際に座っていた。ほとんどの時間は風が流れる音、時々また金属の音。でも、本当にごく稀に彼が声を発する度、私は私が私じゃいられない気持ちに苛まれた。上手く使いこなせない「幸福」という言葉の、その片鱗に触れたような気がした。
「『あ、違う』」
「『あれ』」
「『どうしよう』」
「『えっと』」
「『またか』」
「『本当に馬鹿だ』」
「『会ってみたい』」
 私には分からない。でも、それでもよかった。瞼を閉じれば、私はあの広い草原にいる。そして、隣には当たり前のように彼がいる。私は彼の傍で風の気持ちよさに身を委ねている。生まれてきて一番幸せな時間だと、確信を持って言える。
 しばらくすると、聞き慣れないざらついたメロディーが聞こえてきた。眼を開けると、遠くの空が白みだしているのがぼんやりと分かる。慌てて双眼鏡を覗くと、彼のいる草原は夕焼けのような赤色を反射させていた。彼が一本だけ立っている電柱のスピーカーを見上げていたから、そこからメロディーが流れたのだと分かる。
 彼は立ち上がってうんと身体を伸ばす。そして、足元に転がっていた何かの箱を拾い上げ、その中身をちらりとだけ確認した。さっきの金属音はあの箱だったんだと、何となく気付く。
 そして彼は、またどこか遠くの空を見つめた後でその場を去って行った。私はその背中を見つめながら、「また明日」と呟いてみる。この声が、彼に届けばいいのにと思いながら。
 
*  *  *  *  *
 
 それから私は、彼をひたすらに見つめ続ける夏の日々を送った。
 夜を待って草原を見ると、彼はいつもそこにいる。私のいる場所とは真逆の、夏のような青を塗り広げる空の下に。
 手紙を書いたり、読んだり、金属の箱を触ったり。基本的にはその三つのいずれかだった。そして、決まった時間に電柱に備え付けられたスピーカーからメロディーが流れると、彼はそれを合図に帰っていく。その繰り返しだ。
 ある日に双眼鏡を覗くと、彼は草原に寝そべって寝ていた。だから私も、傍聴機を耳にベッドに寝転んだ。
 ある日は草原に雨が降っていた。彼はそこに来なかった。その場の名が記された看板が、ただ物悲しそうに雨に打たれていた。
 ある日彼は鼻歌を口ずさんでいた。傍聴機には録音機能というものもあるけど、私はそれを使わなかった。何度も繰り返し聞くより、この一回を大切にしてみたかった。
 ある日彼は手紙を書いていた。彼が使っていたのは私の知らない言語だった。「ひらがな」「カタカナ」「漢字」。そのいずれでもないようだった。
 彼の姿を見つめる日々の中で、並行して日本語の勉強と地球のレポートも行った。前者は彼の言葉を理解する為。後者は学校の備品を借りる理由を作る為。先生はそれに特に何も言わなかった。
 私が彼について、分かっている事は二つ。彼は、いつも誰かに向けた手紙を書いているという事。彼は、私の存在など知る由もないという事。
 私は、彼を知りたい。
 私は、彼に私を知って欲しい。
 そして、「カタカナ」「漢字」を含めた日本語の読み書きに関してはいっちょ前になった頃、あるいは、簡単な日本語なら発音できるようになった頃。私の気持ちは破裂した
 彼に言葉を届けたかった。
 今度は彼に、私を聞いて欲しかった。
 だから、「電話」を使う事にした。
 
*  *  *  *  *
 
「電話」はある意味、「傍聴機」と対極にある。任意の場所に電波を送り、こちらの音をそこから流す。しかし、中継地点というべき電波を通して音を鳴らすような機械の類がなければ何の役にも立たない。新しい星に着陸した時、まずこの中継地点をその星に設置する。そうすれば簡単に連絡が取れるという道具の一つだ。
 今日は夏休みの最終日だった。夏の終わりを予感させるような涼しい夜風が、私を優しく撫でている。いつものように双眼鏡を覗くと、今日も彼はそこにいた。手紙に何かを書き記している。
 視線を少しずらすと、草原の中央には一本の電柱がある。そこには、彼がいつも時報に使っているスピーカーが取り付けてある。草原全体に届く音を鳴らすような、とても大きなスピーカーだ。当然あのメロディーを流すためには、電波を通す必要がある。つまり、私が電話を使って声を届けるれば、あのスピーカーから大音量で流れる事になるのだ。
「電話」は地球で言うところの「スマートフォン」の形と似ているかもしれない。大きな画面に数字の記されたボタンがいくつもあって、そこに座標を入れたりする。
 電話のスイッチを入れ、彼のいる場所の座標を入れる。これで物音を立てようものなら、彼のいる場所にそれが流れる事になる。動作一つすら躊躇われる。
 そして、静かで深い深呼吸をした後に、私は言葉を発した。彼と同じ言葉を。
「……『あ、あなたに、あいた、い』」
 ああ、やっとだ。
 やっと彼に伝えられた。
 やっと言えた。
 やっと、私を知ってもらえた。
 彼はどんな反応をしただろう。すぐに確認したい。でも、双眼鏡を覗くのが怖い。驚きのあまり逃げ出していたらどうしよう。それで、もう二度とあの場所に来なくなったらどうしよう。
 好奇心が恐怖心に上書きされる前に、私は双眼鏡を覗く事を決めた。このまま悩んでいたら、もう二度と彼を観測できない気がしたから。また深い呼吸をして、そっとレンズに目を当てる。
「……え?」
 彼は、変わらずそこにいた。
 でも、あまりに何も変わらなさ過ぎた。
 何事もなかったかのように、手紙に文字を綴っている。
 聞いていなかったのだろうか。いや、あんな大音量で音が流れて「聞こえなかった」という事があるだろうか。それとも、ここまできて電話が故障しているとか? いや、電話は確かに音を届けたと表示している。
「『あなた、にあいた、い』」
 双眼鏡を覗いたまま、もう一度同じ言葉を発する。でも、彼は見向きもしない。顔を落としてペンを走らせている。どうして。聞こえないふり? 知らないふり? どうして?
「『あなたにあい、たい』」
「『あ、なたにあ、いたい』」
「『あなたにあいたい』」
 何度叫んでも、彼は変わらない。こちらを見向きもしない。私の言葉など聞こえていないように振る舞う。分からない。どうして。
 驚いて逃げ出してくれた方がどれだけよかったか。届かないなんて、聞こえないなんて、知ってもらえないなんて、そんな馬鹿な話があるか。私を知ってよ。
 気が付けば、私は泣いていた。泣きじゃくった声で、何度も同じ言葉を叫んでいた。こんなにも気持ちは募る。他に言いたい事も聞いて欲しい事も星の数ほどある。なのに、私はただ「会いたい」としか言えないのだ。どうして、こんなにも遠い。
 そして、何度か分からない「会いたい」を叫ぼうとした、その時だった。
「……え」
 それを見るのは、二度目だった。
 彼は、泣いていた。
 手紙を握りしめたまま、どこか遠くを見つめながら、静かに涙を零している。頬を伝った雫はそのまま、手紙に一滴ずつ吸い込まれていく。
 どうして泣いているの? どうして声が届かないの? どうして私と貴方は、こんなにも違うの?
 何も分からない。貴方の全てを知りたい。私の全てを知って欲しい。なのに、それなのに。そんな事どうでもいいくらいに、私の気持ちはたった一つだった。
 私は、貴方が好きだ。
 私は、貴方の涙を止めに行きたい。
 どれだけ遠くたって関係ない。何をどれだけ投げ打っても構わない。全部捨てたい。全部犠牲にしたい。何もいらない。私はただ、その為だけに、貴方の元へと走りたい。
「『……あなたに、あいたい』」
 それなのに、私と彼を阻む壁はこんなにも厚い。全てがあまりにも、遠い。
 そうやって、私の夏休みは終わりを告げた。
 
*  *  *  *  *
 
 ずっと空を見つめていた。
 夜でもない、ただ青いだけの空の向こうに、彼がいるのだと思いながら。
 夏休みが明けての初日。授業には全く集中できなかった。でも、地球に関するレポートだけは変わらず提出した。だけどそれもそろそろ潮時だ。本当と嘘を織り込んで書き続けるのにも限界がある。書きたい事は溢れるほどあるのに、何も書けない事が酷くもどかしい。でも、これを止めてしまえばもう彼を観測できなくなる。私はどうすればいい。この恋を終わらせろとでも言うのか。
 一人堂々巡りを繰り返していた休み時間だった。突然、先生が教室にやってきた。
 次はあの人の授業ではない。当然、私を含めた生徒全員が先生に注目する。更に珍しく、先生は少し焦ったような表情を浮かべていた。何かあったのだろうか。
 先生は一通り教室を見渡した後で、私と目を合わせる。すると突然、こちらに向けて手招きをした。私は驚き、「私ですか?」という意味を込めて自分の顔を指差す。先生はそれに強く頷く。教室の生徒全員が、私に注目する。
「お話したい事があります。付いてきてください」
 
「あの、何がどうなってるんですか」
 教室を飛び出し、学校を飛び出し、タクシーに乗り込み、目的地に着く。その間に、私はこの質問を十回はした。先生はその十回全てに「話は後です」と答えただけだった。でも、「学校はいいんですか」とだけ質問した時は「公欠になります」とは答えてくれた。
 目的地に着き、「降りてください」と言われ、戸惑いながらタクシーを降りる。すると、目に飛び込んできたのは白くて大きな建物だった。正直、怖い。ここはどこだ。私は何をさせられるんだ。
 先生の後ろを付いていきながら、建物に入る。中は何というか、質素な感じがあった。長い廊下が伸びていて、たまに扉があって。例えるなら、入院病棟というイメージかもしれない。
 建物内ではスーツを着た大人や、白衣を着た大人と大勢すれ違った。そしてその大人達全員が私を横目にし、何かをひそひそと話していた。先生は何も言わず、こちらを振り返る事もなくどんどんと進んでいく。
 そしてしばらく進んだ時、先生が一つの扉の前で立ち止まった。コンコンとノックをし、返事を聞く前に勢いよく扉を開ける。先生にしては珍しく、少しがさつな行動だった。
 扉の先、部屋は教室ほどの広さだった。中央に大きな机がある。机上には様々な書類が乱雑に散らばっていて、それを囲むような形で椅子も適当に並べられている。
 そして、私はふと気付いた。椅子の一つに女性が座っている。
 女性は白衣を着ていて、こちらに背を向けて足を組んでいる。そして、手の中で弄ぶように、何か四角い箱のようなものをじっと見つめていた。
「連れてきました」
 先生が少し早口で言うと、女性がこちらを振り向いた。
 女性は、私ほどではないにしろそれなりに若い人だった。耳が隠れるくらいのショートカットを揺らしながら、「その子がですか」と私を見て驚いたように言う。何の事かさっぱりだが、私はとりあえず「こんにちは」と頭を下げておいた。
「何から話そうか……。まず、結論から言うと」
「いえ、順序立ててください。まずは自己紹介から」
 先生が女性の言葉を遮って言う。女性はそれに「ああそっか」と納得した素振りを見せた。こんな時だから、先生の先生らしい素振りに少し安心してしまった。
「初めまして。私は科学者をやっている者です。今はそれだけ知っててくれればいいよ」
 女性が握手を求めてくる。私もそれにおずおずと手を差し伸べる。先生が横から「以前話した私の友人です」と補足説明を入れる。
「えっと、貴女が科学者という事は、つまりここは」
「研究所みたいなところかな。色々と説明したい事はあるけど、今は割愛するね。何せ急な話で私もびっくりしてるから」
 女性が先生と目を合わせる。先生がそれに頷くと、女性は白衣のポケットに手を入れて、一枚の紙を取り出した。私はそれを見て「あ」と声を漏らす。
「確認だけど、これは君が書いたもので間違いない?」
 私はそれにゆっくりと頷く。間違いない。私が以前メモした、たどたどしい日本語の模写だった。
「私の予想だけど、君は『地球』を見つけたんじゃないかな? つまり、双眼鏡を使って」
 女性と先生が、こちらをじっと見つめる。私はその質問にもゆっくりと頷いた。それを見た女性と先生が同時に「やっぱり」と呟く。
「以前貴女から貰ったメモを、この人にお渡ししたんです。何か分かればと思って。それがまさか、こんな事になるなんて」
 先生がまた補足する形で説明を加える。私も何となく見えた。彼の手紙を見て見様見真似で書いた日本語のメモを、私は先生に渡した。先生はそれを科学者であるこの人に渡した。「この言語を知らないか」と。そしてこの科学者は、「地球」という単語を口にしている。つまり、この場所がなんの研究所かと問われれば。
「ここに、あるんですね? 地球からの飛来物が」
 私の問いに、今度は彼女が頷く番だった。
 言葉では理解していても、やはり心で実感するのとはわけが違う。つい昨日まで半信半疑だった御伽噺が、途端に現実味を帯びて昇華されていくような感覚。
 私は、今までの経緯をかいつまんで話した。双眼鏡で偶然にも、この星とよく似た生物を見つけた事。推測するに、その星が「地球」だと思った事。毎日双眼鏡を使い、地球の人間が使っていた「日本語」を勉強した事。もちろん、その中で彼の存在は、彼を見つめていた事は隠した。
 私が話し終えると、女性は先ほどまで弄んでいた四角い箱を差し出してきた。受け取ってみると、とても硬くて少し重い。触った感覚としては金属に近しかった。
「単刀直入に言うと、メッセージの解読に協力して欲しいんだ」
 箱を開けると、中には少し朽ちかけた紙が大量に入っていた。取り出して見ると、やはりというか文字がたくさん並んでいる。ほとんどがさっぱり分からない言語で書かれていたが、一枚だけ、明らかに日本語で書かれた文章の紙があった。そして、私はその紙を見た瞬間、大きな違和感を覚える。
「珍しくやる気を出した努力が、実を結ぶ時が来たのではないですか?」
 違和感を探ろうとする前に、先生が教師らしく、優しく諭すように言った。私はそれに少し苦笑いをして「どうでしょうね」だけと言った。やる気とか努力とか、そんな崇高なものは何も無い。ただ、彼を知りたい一心だけだ。どこにでもある、純粋で不純な恋煩いだ。
 私は少しだけ考えて、目の前にいる二人にこう言った。
「では、一つだけ条件を付けさせてください」
 
*  *  *  *  *
 
 そこから話はとんとん拍子だった。
 あの科学者が持っていた、メッセージの入っていた箱。あれが他にも数百個ほどまとめて研究所に保管されていたらしい。つまり単純な話、数百の日本語を解読しなければならなかったのだ。これには長い時間がかかった。
 星が直に運営している研究所という事もあって、私は学校を休んで研究所に通い続けた。その分待遇というか報酬もあったから、実質仕事みたいなものだ。
 大体の読み書きはできると言えど、分からない事の方がずっと多い。私の知っている日本語なんて、この目で見たものだけなのだ。自分の知っている事より、知らない事の方が多い。そんなの、宇宙規模で考えれば当たり前の事だ。だから私は、その度に双眼鏡を使って必要な情報を得た。そうやって地道にやっていくしか方法はなかった。そしてその都度、ついでだからと言い訳をして少しだけ彼の姿を見る事だけが、私にとっての生き甲斐だった。
 解読を進めていくうちに、私の予想通りになった事が一つあった。日本語で書かれたメッセージには、地球という星についての詳しい解説が記されていた。科学力や軍事力、「国」という概念についてまで。そして案の定、研究所では「地球を支配下に置けるのではないか」という声が細々とささやかれた。
 だから私は条件を付けたのだ。「地球の位置情報に置ける言語の解読には一切の関与をしない」と。これで、地球の位置は永遠に私しか分からないままだ。単純な科学力や軍事力で圧倒的に劣るあの星に、危害が加わる事は無い。
 そして、初めて研究所を訪れた日から約一年が経った。研究に関する情報や技術をある程度身に付け、研究所から正式に研究員にならないかという誘いがきて、学校を辞めても安泰を手に入れられるような人生設計を歩みつつあった頃。
 私は、史上最年少での「ワープ賞」を受賞した。
 
*  *  *  *  *
 
「星への貢献に加え、どこまでも平和的な姿勢も加味されての結果でしょうね」
 小テストの採点をしながら先生が言った。私は受けていないテストだ。生徒達が一生懸命ペンを走らせていた時、私は双眼鏡で地球を見ていた。
「私はそんな人間じゃありません。どこまでも自分勝手です」
「ですが、その身勝手さが今の貴女を作り出したんです。いき過ぎた自己は時に破滅を呼びますが、少なくとも貴女のそれは誇っていいものなのでは?」
 何も知らない先生は、優しく微笑んでそう言った。破滅というなら、私は既にその中だ。この星の人間全員を騙して、私は彼を選び続けている。
「もう学校には来なくともよいのでしょう? 今日はどうしたのですか」
 赤ペンを置き、不思議そうな顔をして先生が訊ねる。私は正直に「まだ迷ってます」と答えた。研究所に就くか学校に通い続けるか。早く答えを出さねばならないのに。
「学校なんか面倒だと思ってたのに、いざその選択肢が生まれると悩んでしまって。不思議な話です」
 実際、すぐにでも学校を辞めて研究所に就く事が一番いいのだ。星の直轄に当たる職場なんてそうそうあるものではない。そこに卒業を待たずして入れるのだから、私は運が良いのだろう。なのに、私はまだその選択肢を取れずにいる。
 私の不安感を察したのか、先生は少し考えるような表情を見せた後、ゆっくりと口を開いてこう言った。
「失うものだけが、大切になっていくと知っている。それが心です。思い出も、大切な場所も、人も、嘘も、青春も、言葉も、何もかもも。過去形になったものに、どうしようもなく手を伸ばし続ける。それが人間です。私はそう思います」
 先生が少し微笑む。なら、過去形になんかしたくないこの想いはなんなのだろう。何をどれだけ差し出しても、千光年先の想い人の涙を止めに行きたいと、そう願ってしまう恋のどこが人間らしいのだろう。
 私は全てを隠して、人間らしい愛想笑いを浮かべて「そうかもしれません」と言った。
 ふと、窓の外から赤い夕焼けの光が差し込む。あと数時間もすればこの空は黒に染まるだろう。夜は、もうそこまできている。
 
*  *  *  *  *
 
「車」の操縦方法は大体教わった。座標を入れ、アクセルを全開にする。それだけで、私はどこにだって行ける。彼のいるあの場所までも。
 運転席の窓を開け、星が瞬く夜空を見上げてみる。もちろん、肉眼では地球を確認できない。鞄から双眼鏡を取り出してレンズを覗こうとしたところで、やっぱり止めた。もうすぐで彼に会える。その瞬間まで、この気持ちは大切に取っておこう。
 何の手紙を書いていたのか。どうして人間の絵を描いていたのか。金属の箱には何を入れているのか、どうして私の声に聞こえないふりをしたのか。どうして、泣いていたのか。
 訊きたい事は沢山ある。だけどそんなものより、私が彼に伝えたい事は一つだ。
「『貴方に、会いたかった』」
 随分と流暢になった日本語を声に出す。突然現れた宇宙人にこんな事を言われたら、彼はどんな反応をするだろうか。怖がるかもしれない。逃げられるかもしれない。でも、それでもいい。伝えたい言葉を伝えられたら。それで、やっとこの恋を終わらせられるなら。全てを過去形にできるのなら。
 想像するだけで怖い。どう足掻いたって私は、破滅に向かうだけだ。でも、彼に会えるのなら、ただそれだけでいい。それだけの事で、震える足は不思議と落ち着くのだ。
 たった一度だけの、最初で最後のワープ。私の全てを、最大級の愛を、彼に捧げたい。
 大きな息を一つ吐く。ゆっくりと足をアクセルペダルに乗せる。そして私は、彼の元へと向かう一歩を強く踏み出した。
 
「車」と呼ばれる乗り物は、私の星で最も科学の叡智が集まったものだと呼んでいい。任意の場所へと一瞬でワープする。つまり、光のように「線」ではなくて「点」で移動する。どれだけ遠くだろうと関係ない。全ては一瞬だ。
 だから最初、私は私の眼がおかしくなったのだと思った。フロントガラスに映る空の色が、黒から青に変わって見えたから。車のエンジンがかかった弾みに、何かしらの電磁波が起きてそれが脳に作用してしまったのでは、と。
 一秒前に踏んだペダルから足を離し、窓の外に見える景色に目を凝らしてみる。
 そこは、私の星でもなければ、ましてや地球でもなかった。私の知らない場所だったのだ。
 彼方まで広がる地平線。その上にぽっかりと、場違いに綺麗な青空と太陽だけが浮かんでいる。ぽつりぽつりと、所々に建物の残骸がある。廃墟とでも呼ぶべきかもしれない。絡まる蔦は、今日に至るまでの年月を想わせるには充分だった。
 そこは言わば、終わった星だった。文明の滅んだ星だった。痕跡こそあれど、生命体の気配はどこにもない。
 車に入れた座標を確認する。けれど間違いなく地球の、彼のいる場所の位置だ。意味が分からなかった。車が壊れたのだろうか。
 運転席の扉を開けてみる。その瞬間に鼻を通った空気に、不思議と懐かしさを覚える。まるで私の星のようだと思った。車を降りてみると、地面は薄い雑草で茂っている。足の裏にふわふわとした感覚が伝う。
 それからしばらく、私は周辺をあても無く歩いた。しかし景色は変わらない。そこにはただ終末の空気だけが漂っている。不気味なほどに生暖かく吹く風が、私の髪をそっと揺らして去っていく。
 私は焦っていた。「車」を使えるのは、ワープを使えるのは、何が起ころうと例外なく一度だけ。こんなところで、地球への旅路を邪魔されるなんて。もう私は地球に行けないかもしれない。それを考えたくなくて、ごまかすように足だけを動かしていた。
 疲労のせいで再び足が震え出した頃。青空が夕焼けの茜色に上塗りされる頃。私は「車」のある地点まで再び戻ってきていた。どうしようかと途方にくれる。星に帰れば、私はもう「車」を使う事はできないだろう。でも、このままここにいてもしょうがない事は分かる。どんなお咎めを受けても構わないから、死んでもいいから、このままもう一度ワープできないだろうか。地球に、彼の元に走り出せないだろうか。そんな事を考えて「車」の周辺をウロウロしていた時だった。
 車の下に、何かあるのを見つけた。
 それは、看板のような何かだった。
 身を屈めて手を伸ばし、そっと触れてみる。金属のような固い感触。何か文字が彫られている。そこには、見覚えのある字でこう書かれていた。
「『そうげん』……」
 彫られている「ひらがな」を読み上げる。
 そしてその瞬間、私は全身に鳥肌が立ったのがはっきりと分かった。
 まさかと思って、車の周辺を見渡す。そして、数メートル先に私はそれを見つけてしまった。濃い草木に隠れかがった横たわる電柱と、大きなスピーカーを。
 つまりここは、彼がいたあの場所。
 でも、違う。彼がいた場所は、私の見ていた地球は、こんなにも終わった場所ではなかったはずだ。
 もう動かないはずの足が再び回転し出す。分からない。分からないけど、彼を探さなければいけない。どこにいるのかも分からないけど、でも、彼を見つけなければと思った。
 そこからの記憶はあまりない。変わらない景色を横目に延々と走り続け、体力が限界を超えた頃。気付けば私はまた同じ場所に戻ってきていた。橙色の空は、いつの間にか呑むような闇で覆われている。
 その場に倒れるようにして寝転び、夜空を見上げる。どういう事だろう。確かにここは、彼のいた場所で間違いないのに。地球のはずなのに。でも、私の知っている星じゃない。何がどう間違っているのか、どうしてこうなったのか。何も分からない。
 夜空には綺麗過ぎるくらいの星々が輝いている。肉眼では確認できるはずもないけど、あの先に私の星もあるのだろう。ずっとずっと先に、千光年先に。
「……千、光年」
 その距離を、口に出して呟く。
 瞬間、私は、ようやく全てを理解した。
 馬鹿だ。どうして気付けなかったんだ。
 他の誰よりも私が分かっていたはずじゃないか。地球は、千光年先にあるのだと。
 つまり、私が双眼鏡を覗いて見ていた地球は、彼は、千年前の光だった。今、私がいるこの場所は、私が見ていた地球から千年後の地球なのだ。
 電波は光と同じ速度で進む。「傍聴機」を使って聴いていた地球の音、時報のメロディー、彼の声。全ては千年前の音。そして、彼が私の声に反応しなかった理由。聞こえないふりなどではない。届いていなかったのだ。私が発した声は、今も光速で宇宙を進んでいる。千年後にやっと、この場所に届く。
 笑いすら込み上げてきそうだった。馬鹿な話だ。千光年先の泣き顔に一目惚れするだなんて。分かっていたはずなのに。この恋は、破滅にしか向かっていないのだと知っていたはずなのに。
 結果がどうであれ、彼に会う事さえできればいいと思っていた。それで全て終わりにできると思っていた。でも、それすらも叶わない。終わりにする事すら、過去形にする事すら許してくれない。だってこの恋は、始まる前に終わっていた。
 そこでふと、私は気が付いた。涙が目元を伝っている。いつからだろう。あまりに自然だった。自分で気付けなかった。指でそっと拭うと、少し暖かい。
「『……会いたい』」
 私が泣いているこの場所は、奇しくも彼が泣いていたあの場所だ。どうして彼が泣いていたのかは分からない。もう永久に分からないかもしれない。でも、私が涙を流す理由は一つだけ。
「『貴方に、会いたい』」
 目が眩むほど、星はこんなにも綺麗だ。
 心が潰れてしまうほど、宇宙はこんなにも広大だ。
 私はただ、千年前の貴方の涙を止めに行きたかった。
 
「双眼鏡」「傍聴機」「電話」を地球に置いたまま、私は星に帰った。彼との決別の意味を込めて。学校の備品だろうと、どうせ私にはワープ賞の賞金がある。弁償金ならいくらでも払える。
 そんな私を見て何か思うところがあったのか、先生は学校を卒業する事を強く勧めた。だから私は、研究所でのメッセージの解読を片手間に、学校に通い続けた。この日々がいつか、過去形になる日を思いながら。
 メッセージの解読を進めていくうち、分かった事がいくつかある。
 彼のいた場所にあった看板は、こちらの星でいう金属に近い素材でできていた。だから千年たって朽ちていて、錆びてもいた。地球から飛来したメッセージの入っていた箱も同じだ。見た目には似たような経年劣化をしていた。いや、正確には飛来物の方がもっと酷く劣化していたけど。
 だから、気付けなかったのだ。地球に飛来したこの箱が、彼が毎日大切に抱えていたあの箱と同じだったなんて。大人になった彼が、自分の書いた手紙をそっと閉じていたなんて。遥か千年前、彼が宇宙へと放った言葉が私達の元へと届いたなんて。
『どこの誰かも分からないでしょうが、僕はあなたと友達になりたいです。僕は地球という星に住んでいます。もしこの手紙を読んだら、僕に会いに来てくれると嬉しいです。出来る事なら、僕も会いに行きます』
 飛来物に書かれた日本語にも、彼の書いていた手紙にも、こう書かれた一枚があった。いつか、どこかの誰かに自分の言葉が届きますようにと、そう思っていたのかもしれない。
 では、どうして彼は泣いていたのか。
 地球の言語を解析していくうち、私は「英語」という言語に直面した。そこには、彼のものとよく似た筆跡でこう書かれていた。
“I do not even know if this word arrive for you”
 直訳すると、「この言葉が届く事さえ、僕には知る由もない」。永遠のような時間をかけて言葉が届いたとしても、自分はそれを知る事さえもできない。彼は、それを嘆いていたのだ。ずっと泣いていたのだ。
 
 家の窓から見える星々を眺め、過去形にできない彼を思う。どうか、この言葉があなたに届きますように。そう思っていたのは、届かない事を憂いだのは、私も彼も同じだったのに。私と彼は、同じ場所で同じ事を思って、同じように涙を流したのに。違ったのは、距離と時間だけ。たったそれだけの事が、こんなにも果てしない。
「……遠いなぁ」
 夜空に手を伸ばす。何をどれだけ投げ打っても、何を犠牲にしても、全部全部犠牲にしても。私は、彼に届かない。
 ねえ、届いたよ。貴方の言葉。ちゃんと伝わってるよ。会いに行ったんだよ。
 だから、泣かないで。私なら、貴方の涙を止められるはずなんだよ。




 
 貴方の泣き顔に一目惚れをした。
 遥か千年先の、何も知らない貴方の泣き顔だった。
 今日も千年前の貴方は、あの場所で泣いている。
  
「『あなたにあい、たい』」
 片言の日本語で、誰かが泣いていた。
 約二千年前、地球が終わった星となり、人類の総人口数は千人以下にまで減っていた。残された人類は協力しながらなんとかやっている。
 僕はその日、住みやすい土地を探して未開拓の場所を歩いていた。雑草が短く風に揺られ、所々には蔦の絡まった廃墟が経っている。どこを歩いてもこの辺は景色が変わらない。そう思っていた矢先だった。
「『あ、なたにあ、いたい』」
 一本の電柱が倒れていて、そこにスピーカーのようなものが取り付けられている。そこから、声がしたのだ。ざらついた音声で、明らかに使い慣れていない日本語で。
 意味が分からなかった。どうしてスピーカーが生きているのかも、誰が話しているのかも、どこから、どうやって、何の為に音を流しているのかも。全て分からない。
 ただ一つ、理解できる事。彼女は、泣いている。
 スピーカーを凝視しているうち、地面に何かが落ちているのが視界の端に留まった。しゃがんでそれを見ると、どこか見覚えのあるものだ。イヤホンとスマートフォンのようなもの、そして、双眼鏡。
 一見するとなんの繋がりも無いように思える。でも、何か意味があるはずだ。加えて、ずっと垂れ流されているこの泣き声も、無関係とは思えない。
 双眼鏡を拾う。青空の彼方、適当な方角へと先を向ける。少しだけ迷い、そっと、レンズを覗いてみる。
 
「『あなたにあいたい』」
 
 彼女は、泣いていた。
 どこの誰かも知らない。どうして泣いているのかも分からない。
 疑問は沸々と湧き上がる一方のはずなのに。知りたい事が山ほどあって然るべきなのに。
 なのに。そんなもの、全てがどうでもいいいと思えるくらい。
 僕は、恋をしてしまった。
 何もいらないと思えるくらい、彼女の泣き顔があまりにも綺麗だったから。
 彼女はここにあるスマートフォンとよく似たものを手に、ただ切実に泣いていた。
 一体誰に、何を伝えたいのだろう。誰に会いたいのだろう。その相手が僕であればいいのになんて、数秒前に観測した人間相手にそんな事を考えるのはおかしいだろうか。
 おかしくてもいい。どうでもいい。何がどうなってもいい。何もいらない。
 僕はただ、貴女に会いたい。
「『あなたに、あいたい』」
 貴女の泣き顔に一目惚れをした。
 どこの誰かも知らない、何も知らない貴女の泣き顔だった。
 僕は、貴女が好きだ。
 僕は今すぐ、貴女の涙を止めに行きたい。