「……美咲(みさき)?」
息子が連れて来た婚約者が、数十年前の俺の元カノだった。
名前は「遠見(とおみ)美咲」だったはずだけど、息子は彼女を「近藤麗花」と紹介した。
「……いえ、私は麗(れい)花(か)、です。近藤(こんどう)麗花」
少し目を泳がせながら彼女は自己紹介した。初対面の人に変な事を言われたからなのか、嘘をつこうとしているのか。どちらとも取れる表情だった。
「お父さんどうしたの、ボケたの?」
妻と息子が軽く笑う。俺も「人違いだった」と、頭を掻きむしって愛想笑いを浮かべた。
出会い頭の玄関で、しかも妻と息子がいるこの状況で、それを問い詰めるほど俺も馬鹿じゃない。その場は何となくごまかして、それで四人で食卓を囲んだ。妻と、息子と、元カノで同じ釜の飯を食べた。頭がおかしくなりそうだった。味が全くしなかった。
* * * * *
誰もが寝静まった午前二時半。リビングで一人コーヒーを飲んでいる俺の元に、彼女がやってくるのは自然な事のように思えた。むしろ、どうしてかそれを待っていたような気さえする。
「味の好みが変わってないなら、コーヒー入れるけど」
彼女はそれに何も応えず、座布団の上で正座をした。あの頃と変わらない、とても綺麗な姿勢だった。
姿勢だけじゃない。無言が肯定の意を表しているのも、少し機嫌が悪い時の目の細め方も、若々しくて艶やかで綺麗な黒髪も。顔も体も心も、全てが、「変わらない」の一言では済まされないくらいに何も変わっていなかった。
「あいつは?」
「寝てる。いびきがうるさい。どっかの誰かさんそっくり」
暖かいブラックコーヒーを入れ、そっと彼女の前に差し出す。彼女は少し迷って、小さく「ありがとう」と呟いてから口を付けた。
「色々訊きたいけど、結局どっちの名前で呼べばいい?」
「どっちでもいい」
「……じゃあ美咲、で」
頭をガシガシと掻きむしる。考えたくなかった。他人の空似であって欲しかった。
せめて、そういう演技をして欲しかった。もちろん、四人で食事をしていた時は、そういう話はしなかった。だから、そのまま「近藤麗花」でいて欲しかった。なのに。
「困ると頭を掻きむしる癖。変わらないね」
「……説明してくれるよな」
俺が訊ねると、美咲はカップを置き、大きな息を一つ吐いた。変わらないな、と思った。
「私が覚えてる一番古い記憶は、どこかの屋敷で、十二単を着せられて白塗りの化粧をさせられる記憶。多分、五歳くらい」
話を端的にまとめてしまうと、美咲はいわゆる不老不死の人間なのらしい。
自分の年齢はもう覚えておらず、幼い頃の記憶は恐らく平安時代のもの。二十代を迎えた辺りから見た目が変わらなくなり、以来ずっと今の容姿で生きてきたと。
もちろん驚くべき話だ。でも逆に言えば、そこまでの話ではある。不老不死の人間が、巡り巡って息子と付き合っていました。それだけの話なのだが。
「若さをいい事に、若い男をとっかえひっかえしてるわけか」
「貴方に私の何が分かるの」
「不老不死の人間が考える事なんて分かってたまるか。そもそも人間なのかどうかすら知らないけど」
「五十年毎に住居地を移さないといけない、法律を犯したお金で生計を立ててる人に頼んで国籍と名前を変えなきゃいけない、私の存在を知った裏の組織みたいな人に連行されかけた事もあった。こんな生活を千年近くも続けてきた私の気持ちが、そう簡単に分かられてたまるか」
いつもこうだった。些細なきっかけであれどうであれ、喧嘩をするとこういう言い合いになる。彼女が少しムキになって、一息もつかずに早口で言葉をまくし立てる。
「……あいつとはどこで知り合った?」
だから、こうやって俺が少しずつ話題をすり替える。これが俺と彼女の喧嘩の常だった。
「バイト先のコーヒーショップ。彼がそこの常連さんで、少しずつ話すようになった」
数十年前、美咲とは俺の働いていた魚市場で出会った。彼女が店によく顔を出してくれて、少しずつ話すようになった。
「積極的に誘ってくれて、よくデートに行った。デートなのに、お金が無いって言って海とか山に行くだけだった。でも、彼らしくて面白くて、楽しかった」
俺はよく美咲をデートに誘った。当時はお金が無くて、海とか山に行くだけだった。「また?」って言いながら、美咲は楽しそうだった。
「それで、三年が経って、公園でプロポーズされた」
美咲が少し言いづらそうに話す。
ここ付近で公園と言えば、少し離れた場所にある庭園の事を指す。夜は人気がなくなり、ライトアップされた木々が綺麗で、デートやプロポーズには最適な場所として有名だ。
「……そうか」
コーヒーに口を付ける。一瞬の静寂が周囲を包む。よく耳を澄ますと、二階から息子のいびきが聞こえてくる。同時に、隣室から妻のいびきも少し聞こえる。息子のいびきがうるさいのはどっちに似たんだか分からない。
「奥さん、意外な感じの人だね」
「……どういう意味で」
「その、なんて言うか、貴方らしくないっていうか」
「悪い意味じゃないよ」と少し慌てたように弁解をする。
らしくない、という言い方が正しいかは分からないけど、美咲の言いたい事は分かる。服はいつも通販で若々しいのを選ぶし、髪は少しウェーブのかかった金髪だ。三十代、二十代と間違われる事もあった。
「いい人だよ」
ぽつりと、口から言葉が零れた。本当に、そう思う。俺には勿体ないくらい、かっこよくて可愛い人だ。
「……そっか」
美咲も小さく言って、カップに口を付けた。左手の薬指に、天井のシーリングライトを返して光るものがある。
「……言おうか迷ったけど」
言うつもりはなかった。でも、彼女の指輪を目にした瞬間、我慢できなくなった。
「あの日の事、覚えてるか?」
あの日の記憶は、まだ色褪せず脳裏にこびりついている。
息子と同じだ。あの公園で、日付が変わる直前に待ち合わせをしていた。俺は不格好なりに服装を整えて、右ポケットにはリングケースを入れて、少しボロボロに剥げたベンチに座って待っていた。
「はっきり言うと、悲しかったよ」
待ち合わせの時間になっても、美咲は来なかった。
日付が回って数時間が経ち、俺はその場に指輪を置いて帰った。俺らが知り合って、丁度三年が経った日の事だった。
美咲はカップを机に置き、逡巡するような表情を見せる。彼女のこの表情は、俺を傷付けてしまうのが怖くて何かを躊躇っている時の表情だ。その隠し切れない不器用な優しさが、俺は大好きだった。
「……あの日、公園には行ったんだ。ベンチに座ってる貴方を見て、プロポーズしてくれるんだって思って、嬉しかった」
「でも」と、また言葉を躊躇う。静かな部屋に、掛け時計の秒針が進む音が嫌に響く。時間を確認すると、もう三時を回っていた。
「それと同時に、怖かった。一緒に歳を重ねて、一緒に死ねないんだって。どれだけ貴方が私を受け入れてくれても、私は貴方を見殺しにするんだって思って。何より、そんなのは貴方に申し訳ない」
まあ、不老不死とはそういうものだろう。どう足掻いたって、彼女の時計の針は進まない。
もし当時の俺が、彼女が不老不死と知っていたらどうしただろう。もちろん、受け入れた。それでも一緒にいたいと思った。でも、彼女がそういう不幸を背負うと分かって、結局は離れる事を選んだかもしれない。分からない。もう過去の話だ。
「傷付けたのは分かってる。本当にごめん」
弱々しい語尾と態度で、美咲は謝った。
彼女と過ごした日々の中で、彼女の方から謝ってくれた事が何度あっただろう。片手の指で数えるくらいかもしれない。両手の指じゃ足りないくらい、俺が先に折れていたから。
「俺の妻を、俺らしくないって表してくれたね。悪口とは思わないよ。でも」
彼女がゆっくりとこちらを見る。少し怯えのあるような目で。少なくとも、舅を見るような目ではない。
「どうして彼女に惹かれたのか、今なら分かる気がする。君と真逆だからかもしれない」
おしとやかな性格と、がさつな性格。
綺麗な寝相と、少し悪い寝相。
端正な立ち振る舞いと、乱雑な立ち振る舞い。
大人しめの服装と、活発な服装。
共に歩けなかった彼女と、共に歩きたくなるような彼女と。全てが真逆だ。
別に、彼女の気を逆立てたいわけじゃない。「君に傷付けられたから君みたいな人間とはもう過ごせません」、なんて言いたいわけじゃない。
「それでも、今の妻と一緒にいられるのは、少なからず君のおかげだ。過去はどうであれ、感謝してるよ」
それが本心だ。
例え、数十年前に美咲と結婚できていたとしても、それで幸せな生活を送れていたとしても。俺は今、幸せなんだ。だから、それが全てなんだ。
「……それは、私もだよ」
言葉の意味が分からず、俺は眉をひそめる。
美咲は近くにあった自分の鞄を手元に寄せ、中身をゴソゴソと漁り出した。そして、何かを取り出し、机の上に優しく置く。
「……これ」
それは、指輪だった。
経年劣化で汚れ、錆びれ、朽ちかけている。でも紛れもなく、俺があの日右ポケットに忍ばせていた指輪だった。
「そろそろ捨てなきゃって思ってたけど、結果オーライだ。貴方に返せるんだから」
そう言って、指輪を机に這わせて俺の前に持ってくる。だからと言って、おいそれと受け取れるわけでもない。俺は「どうして」と彼女の顔を見た。
「決まってるじゃん。あの日、貴方が置いていったのを拾ったの。ずっと持ってた」
「数十年も? ずっと?」
「だって、貴方以上に好きになれる人がいなかった」
実際の年齢は別として、そりゃあ数十年も若さと美貌を保ったままなら、たくさんの人に言い寄られただろう。恋愛関係に発展する事もあっただろう。でも。
「ずっと貴方が忘れられなかった。私がコーヒーを好きになって、コーヒーショップでアルバイトまでするようになったのはどうしてだと思う? 悩みがあって眠れない日の午前二時半、布団から抜け出す習慣が付いたのはどうしてだと思う? 全部、貴方のせいだよ」
付きあった当初、美咲はコーヒーなんて飲めなかった。規則正しく生活していて、何となく眠れない日なんて無かった。なのに、今では。
「でも、彼と出会って、貴方以上に好きだって思った。これを手放したくないって、千年生きて初めて本気で思った。どれだけ傷付いても、どれだけ傷付けても、彼と一緒にいたいって思った。我儘だけど」
美咲は、とても優しい。相手が傷付く事を極端に嫌う。相手が傷付かない為なら、自分はどれだけ傷付いてもいいと思ってしまう。俺はその優しさが大好きで、ほんの少し、嫌いだった。
「一緒に傷付いてもいいって、思えたんだな」
俺が訊ねると、彼女はこくりと小さく頷いた。
「そう思えたのは、貴方がいたからだよ。貴方がいたから、今の私がいる。今の貴方と同じ。貴方は、昔も今も、ずっと、大切な人」
そんなの、俺だって同じだ。
秒針が動こうと動くまいと、過去は残り続けるんだ。何があろうと、どうしようもなく変わらないものなんだ。そこにいる大切な人は、ずっとずっと大切な人で在り続けるんだ。
「数十年越しに、俺はようやくフラれたんだな」
机の上の指輪を受けとる。美咲は「そうだね」と、花のように優しく笑った。
それから、俺らは思い出話をした。何て事のない、一週間後には半分以上を忘れていそうな過去の話だ。初対面でいきなり俺の方から連絡先の交換を申し込んだ事。初めてのデートでいきなり山登りはさすがにと思われた事。初めてコーヒーを飲んだ夜には眠れなくて困った事。でも、少しずつ慣れて、お互いに悩みを打ち明ける午前二時半が少し好きだった事。
気が付いたらもう日が明けていて、カーテンの隙間からは白い光が漏れていた。
「まさか一緒に朝日を見る日が来るとは思わなかったな」
「そうだね。最初で最後だ」
机の上の二つのカップは、もう空になっていた。
その後は、四人で朝食を取った。
いつも通りに、妻の朝食は美味しかった。
美咲と息子は同棲しているらしく、お互いに仕事の休みを取って来てくれたらしい。だから数日だけ泊まって、すぐに戻る事になった。
「ほら、もう二人共帰るって」
「今行くよ」
妻に言われ、重い腰をゆっくりと上げる。その時だった。
手元に、見慣れない色の、長い髪の毛が落ちていた。
俺のものではない。まず長さが違う。
息子も同じだ。俺より少し長いけど、ここまで長くない。
妻の髪の長さは丁度このくらいだ。でも、色が違う。妻は髪を染めている。
落ちていた髪の毛は、明らかな白髪だった。
じゃあ、この髪の毛は。
「ほら、早く」
カチッ。秒針が鳴る。
妻と秒針に急かされ、玄関へと向かう。二人は俺の姿を目にすると、「じゃ、また」「お世話になりました」と言い残し、扉を開けようとした。
「麗花さん」
驚いた彼女がこちらを振り向く。その「驚き」には色々な意味があるだろう。彼女の薬指を確認しながら、俺はこう言った。
「お幸せに」
妻と息子が、それに少し怪訝な表情を見せる。
麗花さんは一瞬だけ呆気に取られたような表情を見せたが、でもすぐに、花のように優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」
息子が連れて来た婚約者が、数十年前の俺の元カノだった。
名前は「遠見(とおみ)美咲」だったはずだけど、息子は彼女を「近藤麗花」と紹介した。
「……いえ、私は麗(れい)花(か)、です。近藤(こんどう)麗花」
少し目を泳がせながら彼女は自己紹介した。初対面の人に変な事を言われたからなのか、嘘をつこうとしているのか。どちらとも取れる表情だった。
「お父さんどうしたの、ボケたの?」
妻と息子が軽く笑う。俺も「人違いだった」と、頭を掻きむしって愛想笑いを浮かべた。
出会い頭の玄関で、しかも妻と息子がいるこの状況で、それを問い詰めるほど俺も馬鹿じゃない。その場は何となくごまかして、それで四人で食卓を囲んだ。妻と、息子と、元カノで同じ釜の飯を食べた。頭がおかしくなりそうだった。味が全くしなかった。
* * * * *
誰もが寝静まった午前二時半。リビングで一人コーヒーを飲んでいる俺の元に、彼女がやってくるのは自然な事のように思えた。むしろ、どうしてかそれを待っていたような気さえする。
「味の好みが変わってないなら、コーヒー入れるけど」
彼女はそれに何も応えず、座布団の上で正座をした。あの頃と変わらない、とても綺麗な姿勢だった。
姿勢だけじゃない。無言が肯定の意を表しているのも、少し機嫌が悪い時の目の細め方も、若々しくて艶やかで綺麗な黒髪も。顔も体も心も、全てが、「変わらない」の一言では済まされないくらいに何も変わっていなかった。
「あいつは?」
「寝てる。いびきがうるさい。どっかの誰かさんそっくり」
暖かいブラックコーヒーを入れ、そっと彼女の前に差し出す。彼女は少し迷って、小さく「ありがとう」と呟いてから口を付けた。
「色々訊きたいけど、結局どっちの名前で呼べばいい?」
「どっちでもいい」
「……じゃあ美咲、で」
頭をガシガシと掻きむしる。考えたくなかった。他人の空似であって欲しかった。
せめて、そういう演技をして欲しかった。もちろん、四人で食事をしていた時は、そういう話はしなかった。だから、そのまま「近藤麗花」でいて欲しかった。なのに。
「困ると頭を掻きむしる癖。変わらないね」
「……説明してくれるよな」
俺が訊ねると、美咲はカップを置き、大きな息を一つ吐いた。変わらないな、と思った。
「私が覚えてる一番古い記憶は、どこかの屋敷で、十二単を着せられて白塗りの化粧をさせられる記憶。多分、五歳くらい」
話を端的にまとめてしまうと、美咲はいわゆる不老不死の人間なのらしい。
自分の年齢はもう覚えておらず、幼い頃の記憶は恐らく平安時代のもの。二十代を迎えた辺りから見た目が変わらなくなり、以来ずっと今の容姿で生きてきたと。
もちろん驚くべき話だ。でも逆に言えば、そこまでの話ではある。不老不死の人間が、巡り巡って息子と付き合っていました。それだけの話なのだが。
「若さをいい事に、若い男をとっかえひっかえしてるわけか」
「貴方に私の何が分かるの」
「不老不死の人間が考える事なんて分かってたまるか。そもそも人間なのかどうかすら知らないけど」
「五十年毎に住居地を移さないといけない、法律を犯したお金で生計を立ててる人に頼んで国籍と名前を変えなきゃいけない、私の存在を知った裏の組織みたいな人に連行されかけた事もあった。こんな生活を千年近くも続けてきた私の気持ちが、そう簡単に分かられてたまるか」
いつもこうだった。些細なきっかけであれどうであれ、喧嘩をするとこういう言い合いになる。彼女が少しムキになって、一息もつかずに早口で言葉をまくし立てる。
「……あいつとはどこで知り合った?」
だから、こうやって俺が少しずつ話題をすり替える。これが俺と彼女の喧嘩の常だった。
「バイト先のコーヒーショップ。彼がそこの常連さんで、少しずつ話すようになった」
数十年前、美咲とは俺の働いていた魚市場で出会った。彼女が店によく顔を出してくれて、少しずつ話すようになった。
「積極的に誘ってくれて、よくデートに行った。デートなのに、お金が無いって言って海とか山に行くだけだった。でも、彼らしくて面白くて、楽しかった」
俺はよく美咲をデートに誘った。当時はお金が無くて、海とか山に行くだけだった。「また?」って言いながら、美咲は楽しそうだった。
「それで、三年が経って、公園でプロポーズされた」
美咲が少し言いづらそうに話す。
ここ付近で公園と言えば、少し離れた場所にある庭園の事を指す。夜は人気がなくなり、ライトアップされた木々が綺麗で、デートやプロポーズには最適な場所として有名だ。
「……そうか」
コーヒーに口を付ける。一瞬の静寂が周囲を包む。よく耳を澄ますと、二階から息子のいびきが聞こえてくる。同時に、隣室から妻のいびきも少し聞こえる。息子のいびきがうるさいのはどっちに似たんだか分からない。
「奥さん、意外な感じの人だね」
「……どういう意味で」
「その、なんて言うか、貴方らしくないっていうか」
「悪い意味じゃないよ」と少し慌てたように弁解をする。
らしくない、という言い方が正しいかは分からないけど、美咲の言いたい事は分かる。服はいつも通販で若々しいのを選ぶし、髪は少しウェーブのかかった金髪だ。三十代、二十代と間違われる事もあった。
「いい人だよ」
ぽつりと、口から言葉が零れた。本当に、そう思う。俺には勿体ないくらい、かっこよくて可愛い人だ。
「……そっか」
美咲も小さく言って、カップに口を付けた。左手の薬指に、天井のシーリングライトを返して光るものがある。
「……言おうか迷ったけど」
言うつもりはなかった。でも、彼女の指輪を目にした瞬間、我慢できなくなった。
「あの日の事、覚えてるか?」
あの日の記憶は、まだ色褪せず脳裏にこびりついている。
息子と同じだ。あの公園で、日付が変わる直前に待ち合わせをしていた。俺は不格好なりに服装を整えて、右ポケットにはリングケースを入れて、少しボロボロに剥げたベンチに座って待っていた。
「はっきり言うと、悲しかったよ」
待ち合わせの時間になっても、美咲は来なかった。
日付が回って数時間が経ち、俺はその場に指輪を置いて帰った。俺らが知り合って、丁度三年が経った日の事だった。
美咲はカップを机に置き、逡巡するような表情を見せる。彼女のこの表情は、俺を傷付けてしまうのが怖くて何かを躊躇っている時の表情だ。その隠し切れない不器用な優しさが、俺は大好きだった。
「……あの日、公園には行ったんだ。ベンチに座ってる貴方を見て、プロポーズしてくれるんだって思って、嬉しかった」
「でも」と、また言葉を躊躇う。静かな部屋に、掛け時計の秒針が進む音が嫌に響く。時間を確認すると、もう三時を回っていた。
「それと同時に、怖かった。一緒に歳を重ねて、一緒に死ねないんだって。どれだけ貴方が私を受け入れてくれても、私は貴方を見殺しにするんだって思って。何より、そんなのは貴方に申し訳ない」
まあ、不老不死とはそういうものだろう。どう足掻いたって、彼女の時計の針は進まない。
もし当時の俺が、彼女が不老不死と知っていたらどうしただろう。もちろん、受け入れた。それでも一緒にいたいと思った。でも、彼女がそういう不幸を背負うと分かって、結局は離れる事を選んだかもしれない。分からない。もう過去の話だ。
「傷付けたのは分かってる。本当にごめん」
弱々しい語尾と態度で、美咲は謝った。
彼女と過ごした日々の中で、彼女の方から謝ってくれた事が何度あっただろう。片手の指で数えるくらいかもしれない。両手の指じゃ足りないくらい、俺が先に折れていたから。
「俺の妻を、俺らしくないって表してくれたね。悪口とは思わないよ。でも」
彼女がゆっくりとこちらを見る。少し怯えのあるような目で。少なくとも、舅を見るような目ではない。
「どうして彼女に惹かれたのか、今なら分かる気がする。君と真逆だからかもしれない」
おしとやかな性格と、がさつな性格。
綺麗な寝相と、少し悪い寝相。
端正な立ち振る舞いと、乱雑な立ち振る舞い。
大人しめの服装と、活発な服装。
共に歩けなかった彼女と、共に歩きたくなるような彼女と。全てが真逆だ。
別に、彼女の気を逆立てたいわけじゃない。「君に傷付けられたから君みたいな人間とはもう過ごせません」、なんて言いたいわけじゃない。
「それでも、今の妻と一緒にいられるのは、少なからず君のおかげだ。過去はどうであれ、感謝してるよ」
それが本心だ。
例え、数十年前に美咲と結婚できていたとしても、それで幸せな生活を送れていたとしても。俺は今、幸せなんだ。だから、それが全てなんだ。
「……それは、私もだよ」
言葉の意味が分からず、俺は眉をひそめる。
美咲は近くにあった自分の鞄を手元に寄せ、中身をゴソゴソと漁り出した。そして、何かを取り出し、机の上に優しく置く。
「……これ」
それは、指輪だった。
経年劣化で汚れ、錆びれ、朽ちかけている。でも紛れもなく、俺があの日右ポケットに忍ばせていた指輪だった。
「そろそろ捨てなきゃって思ってたけど、結果オーライだ。貴方に返せるんだから」
そう言って、指輪を机に這わせて俺の前に持ってくる。だからと言って、おいそれと受け取れるわけでもない。俺は「どうして」と彼女の顔を見た。
「決まってるじゃん。あの日、貴方が置いていったのを拾ったの。ずっと持ってた」
「数十年も? ずっと?」
「だって、貴方以上に好きになれる人がいなかった」
実際の年齢は別として、そりゃあ数十年も若さと美貌を保ったままなら、たくさんの人に言い寄られただろう。恋愛関係に発展する事もあっただろう。でも。
「ずっと貴方が忘れられなかった。私がコーヒーを好きになって、コーヒーショップでアルバイトまでするようになったのはどうしてだと思う? 悩みがあって眠れない日の午前二時半、布団から抜け出す習慣が付いたのはどうしてだと思う? 全部、貴方のせいだよ」
付きあった当初、美咲はコーヒーなんて飲めなかった。規則正しく生活していて、何となく眠れない日なんて無かった。なのに、今では。
「でも、彼と出会って、貴方以上に好きだって思った。これを手放したくないって、千年生きて初めて本気で思った。どれだけ傷付いても、どれだけ傷付けても、彼と一緒にいたいって思った。我儘だけど」
美咲は、とても優しい。相手が傷付く事を極端に嫌う。相手が傷付かない為なら、自分はどれだけ傷付いてもいいと思ってしまう。俺はその優しさが大好きで、ほんの少し、嫌いだった。
「一緒に傷付いてもいいって、思えたんだな」
俺が訊ねると、彼女はこくりと小さく頷いた。
「そう思えたのは、貴方がいたからだよ。貴方がいたから、今の私がいる。今の貴方と同じ。貴方は、昔も今も、ずっと、大切な人」
そんなの、俺だって同じだ。
秒針が動こうと動くまいと、過去は残り続けるんだ。何があろうと、どうしようもなく変わらないものなんだ。そこにいる大切な人は、ずっとずっと大切な人で在り続けるんだ。
「数十年越しに、俺はようやくフラれたんだな」
机の上の指輪を受けとる。美咲は「そうだね」と、花のように優しく笑った。
それから、俺らは思い出話をした。何て事のない、一週間後には半分以上を忘れていそうな過去の話だ。初対面でいきなり俺の方から連絡先の交換を申し込んだ事。初めてのデートでいきなり山登りはさすがにと思われた事。初めてコーヒーを飲んだ夜には眠れなくて困った事。でも、少しずつ慣れて、お互いに悩みを打ち明ける午前二時半が少し好きだった事。
気が付いたらもう日が明けていて、カーテンの隙間からは白い光が漏れていた。
「まさか一緒に朝日を見る日が来るとは思わなかったな」
「そうだね。最初で最後だ」
机の上の二つのカップは、もう空になっていた。
その後は、四人で朝食を取った。
いつも通りに、妻の朝食は美味しかった。
美咲と息子は同棲しているらしく、お互いに仕事の休みを取って来てくれたらしい。だから数日だけ泊まって、すぐに戻る事になった。
「ほら、もう二人共帰るって」
「今行くよ」
妻に言われ、重い腰をゆっくりと上げる。その時だった。
手元に、見慣れない色の、長い髪の毛が落ちていた。
俺のものではない。まず長さが違う。
息子も同じだ。俺より少し長いけど、ここまで長くない。
妻の髪の長さは丁度このくらいだ。でも、色が違う。妻は髪を染めている。
落ちていた髪の毛は、明らかな白髪だった。
じゃあ、この髪の毛は。
「ほら、早く」
カチッ。秒針が鳴る。
妻と秒針に急かされ、玄関へと向かう。二人は俺の姿を目にすると、「じゃ、また」「お世話になりました」と言い残し、扉を開けようとした。
「麗花さん」
驚いた彼女がこちらを振り向く。その「驚き」には色々な意味があるだろう。彼女の薬指を確認しながら、俺はこう言った。
「お幸せに」
妻と息子が、それに少し怪訝な表情を見せる。
麗花さんは一瞬だけ呆気に取られたような表情を見せたが、でもすぐに、花のように優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」