Like a Bible

 とある瞬間から、私はずっと天使だった。
 欧米出身の両親を持つ日本生まれ日本育ちの私の外見は、日本という国の学校ではあまりに異物だった。髪は金髪で、女子にしては身長も高くて、顔立ちは(日本から見れば)外国人のそれで。小学生の頃はよく苛められたものだった。
 でも唯一、人美(ひとみ)という女の子だけが普通に接してくれた。彼女の存在は私にとっても救いだった。「どうして私を避けないの?」と訊ねても、「別に普通じゃん?」と興味の無いように言うだけだった。
「それに、天音(あまね)って天使みたいだし」
 彼女のその言葉が、どういう意味だったかは分からない。名前が天使っぽいという意味なのか、日本人離れした私の容姿が天使じみているという意味なのか。高校三年生になった今でも分からない。
 でも、大好きな彼女がそう言うのだから、私はきっと天使なのだ。
 だから私は、天使になろうとした。
 思春期に入れば、この容姿は全てプラスに作用する。優等生で、優しくて、何より美しい。高校に入学してすぐ、私は校内一の有名人になった。アイドルで、完璧で、偶像で、崇拝するべき存在。正しく、見紛う事のない「天使」だった。
 
 話は進み、現在高校三年生の春。とある昼下がり。
 私は今、女子トイレの床にへたり込んで、目の前に撒き散らされたゲロと対峙している。
「今日はこのくらいで勘弁してやるから、また頼むわ」
 そう言うと、私と同じクラスの阿久津(あくつ)さんは、取り巻き二人を連れて女子トイレを出て行った。
 天使がゲロだなんて、笑える。人には見られたくない姿だ。そう思った瞬間だった。
「……天音?」
 女子トイレに、女子にしては少し低い声が響く。顔を上げると、人美が立っていた。黒髪のショートカットで、スカートは短く折って太腿を露わにしている。全てが私とは真逆だ。
「何があったんだよ」
「……別に」
 人美とは小学生以来、約十年ぶりに同じクラスになった。もちろん教室以外でも軽い会話はあったが、久しぶりに同じ教室で授業を受けられるという事で、私も喜んでいた。
 でもまさか、進級早々に人美に見せる姿が、ゲロを前にトイレでへたり込む姿だとは。
「体調悪いか?」
 首を横に振る。
「変なもん食べたとか?」
 首を横に振る。
「じゃあ精神的なもの?」
 少し迷い、首を横に振る。
 人美は私の様子を見て、「とりあえず先生呼んでくる」と踵を返そうとした。けど、私は人美の手首を掴んで制した。
「他の人には、知られたくない」
 そう言った私がどんな表情をしていたのかは分からない。けど、人美は小さく息をついて、「私になら話せる?」と優しく訊ねてくれた。首を縦に振る代わりに、私は口を開く。
「その、お腹を殴られた」
「それでゲロったのか?」
「お昼を食べた直後だったから」
「そういう話じゃないだろ。こういう事は今までにもあったのか?」
「まさか。初めてだよ」
「どうせ妬みだろうよ。私、やっぱり先生に言ってこようか?」
「それは駄目」
 トイレに響くくらい大きな声で言う。人美は少しだけ驚いた表情をした。
「私は、天使だから。完璧じゃないといけないから。苛められてる事実なんか存在しちゃいけないの。誰がどう見てもいつも通りに、天使でい続けないと」
 私は人間ではない。天使だ。人間ごときのいざこざに巻き込まれるなんて事、あってはいけないのだ。
「……それは、どのくらい大事?」
「天地がひっくり返っても、バレるわけにはいかない」
「なんでそこまで」
「だって、人美が私を『天使』って呼んでくれた」
 私は頬を引きつらせて笑った。あの時から、人美のその言葉が全てだ。他の事はどうだっていい。それだけを一生大切に抱き留めていればいい。
 何の事かすぐに思い当たったらしい人美は、「分かったよ」と溜め息交じりに言って納得してくれた。私もそれに「ありがとう」と言う。
「でもとりあえず、このゲロは掃除しないと」
 人美が床に散乱したものに目を向ける。私もそれに「そうだね」と苦笑いする。
 人美は掃除を手伝ってくれた。何も言わず、淡々とゲロを片付けてくれた。理由を訊くと、「別に普通じゃん?」と。
「私は普通の人間だから、普通の人間がやるような事しかやらないよ。普通の人間は、友達が困ってたら助ける」
 彼女は昔から、「普通」が口癖であり生き様だった。何をするにしてもそこが基準だった。人を殺すのが当たり前の世界なら、彼女は躊躇いなく誰でも殺しただろう。
「それに、私には友達がお前しかいない」
 人美の言葉に私は小さく笑った。果たしてそれは「普通」なのだろうか。
「『吐く』って英語でなんて言う?」
「知らない。そんなの授業でやってない」
「その見た目で英語できないとか面白すぎるだろ」
「うわ、ガイコクジンハラスメントだ」
「正解は〝Throw up〟でした」
「え、何で知ってるの」
「純アメリカ人より英語できるって気持ちいいなあ」
 人美は「カッカッカ」と悪魔のように大きく笑って、私も静かに笑った。
 昼下がりのトイレでゲロの掃除をしているとは思えないくらい、私は楽しかった。
 
 私は天使だ。
 校門をくぐる時、先生に指名された時、廊下を歩く時、グラウンドを走る時、タコさんウインナーを口にする時。どんな時だって、全ての人の目を惹く存在で在り続けた。この人が白と言うなら黒だって白になるんだと、そう思わせるような概念でい続けた。
 ただ、数分間の例外を除いては。
 それは、昼休みの終わりかける数分間。私は阿久津さん達と共に女子トイレへと向かう。
 腹部に拳が入る。胃を圧迫していたお昼ご飯が徐々にせり上がり、やがて嗚咽と共に口から零れ落ちる。
「……どうして? ちょっと、意味が」
「口答えすんな。殺すぞ」
 その後、阿久津さん達が女子トイレを出て行き、私がしばらく呆然としていると、人美がやってくる。そして、決まってこう言うのだ。
「悪魔だな」
 そうして、二人でゲロの掃除をするのだった。変な話だけど、私はこの時間が一番楽しかった。
 彼女はどこまでも私に配慮してくれて、一切を口外せず、全てをこの場所で完結させていた。だってこれだけは、天地がひっくり返っても隠さなきゃいけない事だから。
「聖書みたいだよな」
 人美の発言に、私は漂白剤をばら撒きながら「何が?」と訊ねた。とっくに昼休みは終わり、時間的には五限目へと突入している。
「天使だったり悪魔だったり普通の人間だったり。なんか聖書みたいじゃね?」
「そもそも聖書ってどんな本なのか知らないや」
「私も知らない。でもそんな感じだろ?」
「ゲロを吐く天使はさすがにいないと思うけどね」
「地上にゲロ撒き散らしながら飛んでる天使って面白いな」
「ゲロっていうよりテロじゃん」
 人美が「カッカッカ」と大きく笑った。私も笑った。ああ、幸せだなあ。ずっと二人でいたいなあ。いつまでも、人美とゲロを掃除しながら話していたいなあ。
 
 とある日の休み時間。廊下の先から、阿久津さんが歩いてきた。
 阿久津さんは、人美と腕を組むようにして歩いてきた。
「……どういう事?」
 なんとか、声を震わせながら訊ねる。人美は首を傾げて「何が?」と言い放った。
「どうして、二人が一緒にいるの」
「……まあ別に、友達だし、普通じゃん?」
「そーそー。ふつー」
 自然と、手足が震える。奥歯がガチガチと音を鳴らす。
 そこで私は、はっと息を呑んだ。
「……そっか、人美は、阿久津さんの事をまだ知らない」
 阿久津さんが眉をひそめるのが分かった。人美も「何の話だよ」と少し怪訝な表情で言う。
「私が、誰からあんな仕打ちを受けてると思ってるの? そこにいる阿久津さんだよ?」
 人美が、信じられないという風に「は?」と声を漏らした。阿久津さんは更に苛立ったように眉間に皺を寄せる。
「どうして? 知らなかったのはまだ分かるよ。思い返してみれば確かに、私が阿久津さんの名前を出したわけでも、鉢合わせたわけでもなかったから。でも、だからってどうしてよりによって阿久津さんと仲良くするの? いや、阿久津さんじゃなくてもだよ。どうして、私以外の人と楽しそうにするの? 友達は私だけじゃなかったの?」
「……とりあえず、天音の言ってる事はホントなのかよ?」
 人美が戸惑ったように阿久津さんに訊ねる。阿久津さんは人美から腕を解くと、「おい天音」とこちらに向かってきた。
 だから、私は逃げた。「死ね」とだけ言い残し、二人に背を向けて、さっき歩いてきた道を逆走した。
 そうして気が付くと、いつの間にかいつもの女子トイレの前に着いていた。
 息を整え、顔を上げる。目の前には、こちらを見下ろす阿久津さんの取り巻き二人が立っていた。
 
 その日の放課後。私は、阿久津さん達と共に空き教室にいた。
「せっかく阿久津が友達といたのに、邪魔してんじゃねえよ」
「しかもだっさい捨て台詞言うだけ言って逃げて。お前が死ねよ」
 阿久津さんが私の腹に拳を入れる。思わずえずく。でも、ゲロは出てこない。足元の床には、既にゲロが撒き散っている。
 ちらりと教室の出入り口を見る。阿久津さんの取り巻きの一人が立っている。他の人間が来ないように見張っているのだ。
「天音ってそういう奴だったんだな」
「顔はいいのに性格ゴミ。あと汚ない」
 阿久津さんと取り巻き二人に加え、今日は名前も覚えていないようなクラスメイトの男子もいた。とうとう天地がひっくり返ったのだ。これが、いわゆる公開処刑というやつだろうか。
「おい、来たぞ」
 出入り口に立っていた取り巻きが声を上げる。先生でも来たかと思ったが、そうではなかった。来たのは人美だった。
「おい人美、お前もやるか?」
 阿久津が手招きをする。人美は何も言わず、教室へゆっくりと入る。男子がニヤニヤと気持ちの悪い顔を浮かべながらそれを見ている。
「こいつ、私達を仲違いさせようとして、『死ね』って言ったよな。こういう目に合うのは普通だよな?」
「普通は許せねえよ。殴ってやれ。普通に思いっ切り」
 普通、普通、普通。人美はその言葉に一々眉を反応させた。この場では、どう足掻いても阿久津さん達が普通だ。私はそれ相応の事をして見せたのだから。
 人美は、力の込められた手を、ゆっくりとこちらに近付ける。そして次の瞬間。
「お前らが死ね」
 人美は躊躇う事なく、手にゲロを付けると、勢い良く振りかぶって教室中に撒き散らした。
「うわ」「おい」「人美」「ぎゃっ」「何してんだ」。教室には悲鳴に近い声が響く。しかし人美は構わず、「死ね」と言いながらゲロを撒き散らす。
「死ね、殺すぞ」
 そうしているとやがて、教室には私と人美しかいなくなった。
 人美はこちらを振り向き、「ははは」と乾いた笑いをする。
「やっちまったよ。もう戻れねえな」
「……何してるの?」
「私にも分かんねえ」
 その場に座り込んだままの私と、ゲロまみれの手でその場に立ち尽くす人美。
 一瞬の沈黙が流れる。人美はそれを、「前に話した事あるけどさ」という切り出しで壊した。
「吐く事を英語で〝Throw up〟って言う。で、Throwのスペルをひっくり返すと、Worhtになってさ。意味は『価値』になるんだ」
 人美は自分の手を見た。ゲロまみれの手を。
「あいつらの価値はそんなもんだって事だ。天地がひっくり返ったところで、天音のゲロ程度の人間なんだよ」
「テロ、大成功だったな」とピースサインを浮かべる。私はそれに「なんじゃそりゃ」と笑った。
「人美はやっぱり普通の人間じゃないよ」
「なら、私は人間じゃなくていい。天音の為なら、阿久津一人くらい殺せる。天音の為なら、私は悪魔にだってなる」
 そう言って、私に手を差し出してきた。最悪だ。ゲロまみれの手を差し出すなんて。でも。
「じゃあ、もうずっと私の前でだけ笑っててね。ゲロ掃除は私以外とはしないでね」
「そんな事お前以外とするかよ」
「カッカッカ」と、悪魔のような笑い声を浮かべる。私は、彼女のゲロまみれの彼女の手を強く握る。
 これは、私と彼女だけが知る、世界一汚い聖書のような物語だ。
 
*  *  *  *  *
 
 天使は、神に背いたものを残らず殺す存在でもある。
 
 正直、天使には飽きていた。
 いや、正確には、せっかく天使になったのに手に入らないものがあるのかとうんざりしていた。
 当たり前だけど、私は一人の人間なわけで、醜い欲望だってある。つまり、これだけの人間が私に夢中になるのに、人美の心だけは掴む事ができないでいた。どこまでも人間じみていたからだ。
 だから私はこう考えた。人美を、「普通」じゃない人間にすればいいのだ。
 この学校の人間は、人美を除いて一人残らず私の狂信者だ。私の指示であれば大抵の事は受け入れた。
 
 阿久津さんの腹部に拳を入れる。何度かすると、女子トイレの床にゲロを撒き散らした。私はなるべく床の綺麗な部分を選び、そこに座り込んだ。いかにも、私が吐いたのだという風に。
「今日はこのくらいで勘弁してやるから、また頼むわ」
 私がそう言うと、阿久津さんは取り巻き二人を連れて女子トイレを出て行く。
 しばらくすると、人美が私に気付いて掃除を手伝ってくれる。これで、二人だけで喋る口実ができた。加えて、これを繰り返せば、私を助ける事が「普通」になり、どんな状況でも私を優先する事が「普通」になるはずだ。
 しばらくして、またいつものように阿久津さんを吐かせた後で、私はこう言った。
「人美と友達になって普通に仲良く歩いて。それで、私と鉢合わせる」
「……どうして? ちょっと、意味が」
「口答えすんな。殺すぞ」
 そうして、ようやく私達三人が同じ場所に揃った。人美の前で阿久津さんの名前を出さなかったのはこの為だ。一気に戸惑わせて、正常な判断を失わせる。
 放課後、阿久津さんを吐かせた後で私を取り囲む図を作らせた。この日は男子も呼んだ。人数は多い方が圧力がある。
 そして、私を助ける事が「普通」になっている人美は、せっかく新しくできた友達にゲロをぶちまけた。これで本当に、頼れるのが私しかいなくなったのだ。ようやく人美の心は私のものになった。
 
「とりあえず、阿久津殺すか」
 とある日の昼休み。私と人美は昼食を取っていた。もうゲロを見なくてもいいのだと思うと、いつもより弁当が美味しく感じた。
「どうして?」
「それくらいの事を天音にしてたから」
 人美は私の弁当からタコさんウインナーを一つ奪うと、遠慮なく自分の口に放り入れた。
「阿久津さん達は、もう学校に来ないよ」
「なんで? あ、おい」
 人美の弁当からウインナーを奪い、口に放り込む。
 
 聖書の中では、悪魔が殺した人の数より、天使が殺した人の数の方が遥かに多い。
 天使は、神に背いたものを殺す存在でもある。
 あの日教室にいた五人の悪魔は、神の使いである天使の私に背いて逃げた。
 悪魔は英語で〝Devil〟。ひっくり返せば〝Lived〟。
あの五人が生きていたのは、もう過去の話だ。
 
 ウインナーを咀嚼し、飲み込んだ後で私は口を開いた。
「もし人美が同じ事をしたら、あの五人と同じ目に合うかもね」
 私が言うと、人美は「どういう意味だよ」と首を傾げた。
 
 つまりこれは、私だけが知る、聖書のような世界一汚い物語だ。