「私の言った通りでしょ」
先輩はそう言って小さく微笑んだ。先輩は感情を顔に出す事が少ないから、こういう風に笑ってくれるのは中々レアだ。
机の上に広げられている雑誌には、僕の書いた詩と僕の名前が大きく印字されている。「最優秀賞」というその冠は、僕には未だ計り知れない価値だ。
「どうして分かったんですか」
「読んだ瞬間分かったよ。これ本当に凄いよね」
そう言って先輩は雑誌に載せられた僕の詩を指差す。タイトルは〝その色をなぞる〟。
* * * * *
あの日の小さな始まりは淡香色
輝きだす穢れた光は紅色
見上げていた明日を照らす山吹色
空回りの無駄を教えてくれた藍色
綺麗すぎたあの瞬間だけは柳色
芽生えた臆病者の遠回りは橙色
苦しい程に純朴な愛は焦茶色
追い越してく永遠を求めた紫色
消化不良のまま完成した定理は黒色
何もかもが幸せなレプリカだった白色
されど、全て終われば結局は灰色
さよなら、僕の群青色。
* * * * *
「詩の部門でも賞は狙ってたんだけど、まさか舞茸君に取られちゃうとは思わなかった」
自分の作品を提出する前に、部長である先輩に読んでもらうというのが文芸部の決まりだった。コンクールに提出する直前、この詩を読んでもらった際に「これいいね。賞とか取れちゃうんじゃない?」と軽々しく言われたのだ。まさかと思っていたので、賞を取った自分自身と、何よりそれを言い当てた先輩にも心底驚いている。
「舞茸君って才能あるんじゃない?」
「そんなわけないです。初めて書いたんですよ」
「だからだよ。初めて書いたのに最優秀賞とれるのは才能ある証拠じゃん」
〝舞茸〟というのが、僕が創作をする上で使っているペンネームだった。名付け親は他でもない、先輩だ。
「それを言うなら、先輩だって賞を取ってるじゃないですか」
僕はそう言いながら雑誌の違うページを開き、そこにあった一遍の小説を指差した。そこには先輩の書いた小説と、先輩の名前がフルネームで載せられている。被せられている冠の大きさはもちろん「最優秀賞」。
「私はほら、三年間も小説書いてるから。大体は書けちゃうよね」
「でも小説部門って競争率高いんですよね。凄いと思います」
「そんな事ないよ。適当に書きながら適当に思った事を、適当に書いていっただけ」
先輩はまた少し口角を上げてヘラヘラと言った。先輩は分かりづらい冗談をよく言うけど、嘘は滅多につかない。彼女自身は本当になんとも思っていないのだろう。なら、その才能とかいうものは先輩にこそあるように僕は思える。
「私の小説は読んだの?」
「もちろん」
「どうだった?」
「……なんて言うか、難しかったです」
「ええ? そうかなあ」
先輩の小説は、大まかに言えば「死」と「関係性」をテーマに扱っているものだった。不慮の事故に合い、植物状態になった友人のお見舞いに通い続ける主人公。「君のいない世界なんて何の価値も無いんだよ」と言葉をかけ続ける主人公に対し、死の狭間、自らの意思でこの世から遠ざかっていこうとする友人。
果たして、二人の関係性は本当に「友人」に留まるものなのだろうか。それ以上の何かがあるような気もするし、そもそも関係性に名前を付けようなんて考えが傲慢なのかもしれない。ともかく、お互いがお互いに抱いている価値がアンバランスで、小さく些細でいて、けど、その決定的な差はどこまでも悲しいものだった。
「難しいですけど、でも、何か凄い事が起きてるんだっていうのは何となく分かります」
僕がそう言った時、ふと部室に日差しが差し込んだ。先輩の後ろの景色を見ると、朝から降り続いていた雨はいつの間にか止み、分厚い雲の切れ目から光が差し込んでいる。
窓に背を向けていた先輩は、僕が目を細めたのを見て「眩しいね」と言って立ち上がり、窓を開けてカーテンを閉め切った。ペトリコールを運ぶ夏風が部室に吹き込み、少し黄ばんだカーテンを弱く揺らす。先輩は窓際に立ったまま、振り向いて僕の方を見た。
「舞茸君は小説書かないの?」
「……どうでしょう。絶対難しいですよね」
「そうでもないよ。書き始めちゃえば流れに乗るだけだから」
先輩は優しい表情のまま言った。僕と彼女とでは二年分の差がある。もしも彼女のようになろうとすれば、きっと僕はその二年の全てを小説に費やさなければならない。
「僕には無理ですよ」
「どうして?」
「だって僕は、先輩みたいにはなれない」
僕の言葉に先輩は眉をひそめ、ほんの少し難しそうな顔をした。
僕にとって彼女は、僕の全てだった。彼女が「青色だよ」と言えば赤色でも青色に見える気がしたし、彼女が「綺麗だね」と言えば、この世界すら綺麗に思えるような気がした。
僕にとって先輩は、世界そのものだった。彼女が見ているもの、聞いているもの、嗅いでいるもの、味わっているもの、触れているもの、感じているもの。それが世界の全てなのだ。僕は彼女のようになりたかった。僕はずっと彼女に憧れていた。僕は、彼女になりたかった。
「私は読みたいよ。舞茸君の書いた小説」
「どうしてですか」
「だって、舞茸君の書いた詩はこんなに綺麗だもん。君が書く小説がどんなものなのか、私は気になる」
先輩の背後で、風に当てられたカーテンが優しくなびく。時々の切れ目から入り込む陽の光は、全てが彼女の為に存在するようにすら思えて、やっぱりその光景はどこまでも綺麗だった。いつか小説を書くのなら、彼女のように美しいものを文字にしたいと思った。でも同時に、それを言語化するのはどんな言葉を持ってしても不可能だとも思った。
「いつか小説を書いたら、私に読ませてね」
先輩はそう言って優しく微笑んだ。僕の脳裏に焼き付いて離れない彼女の笑顔は、まるで呪いのように今も僕を蝕んでいる。
僕が先輩へ宛てた告白紛いの小説は完成しないまま、彼女は卒業してしまった。それをコンクールに提出する事もしなかった。
僕が彼女を想っていたただ一つの証明であるそれは、今でも僕の手元に遺り続けている。きっといつまでも彼女を忘れられないまま、またあの日を追憶してしまうのだろう。
それから数年後、僕は手紙を書いた。先輩へ、ではない。かつての文芸部の顧問へだ。あの部活がどれだけ幸福だったか。あの部室がどれだけ僕の救いになっていたか。そういう事を切実に、丁寧に書き記した。
手紙には一編の小説を同封した。小説のタイトルは〝終わらせられなかった青春の持ち主へ〟。僕の高校時代の話をベースに、僕が得たかったものを書き記した物語だ。
あの時、彼女に小説を渡せていたらどうなっていたのか。そんな、もう存在しない「もしも」の世界線を書き殴った。僕の唯一の後悔を物語にした。
物語の中には、とある詩が出てくる。これは僕が学校を卒業した後、実際に書いた詩だ。あの三年間の全てが過去になったからこそ、文字にできることを必死に綴った。詩のタイトルは〝青〟。
* * * * *
「青」を見た。
それは確かに、あの日々で僕が作り上げた、
過去の遺物と呼ぶべきものだった。
夕焼けの赤が差し込むその場所で、
それでも僕はひたすらに青を紡いでいた。
綴った言葉達は涙が流れるような優しさ、息の詰まるような苦しさ。
だけどそれは、あの日々でしか成し得ないものだった。
始まりは彼女だった。
向こう側まで透けて見えるような
ひたすらに無色透明な彼女に
僕はどうしようもなく憧れていた。
僕は彼女になりたかった。
彼女の見ている世界を知りたかった。
彼女のように言葉を紡いでみたかった。
彼女のように、僕は透明になりたかった。
ガラスそのものみたいな彼女が割れていなくなった時、
僕は初めて夕焼けの赤を目に焼き付けた。
初めて嘘みたいな雪の白を知った。
初めて群青色した空を見上げた。
綴った過去の遺物は涙が流れるように優しく、
息の詰まるように苦しく、
そして言葉さえ失うように美しい。
僕が「あの日」見たそれは、
透明を求めて紡いだ日々の、その全てだった。
彼女のいない世界でひたすらに感情を書き殴った。
次は僕が、彼女に青を伝える番だった。
僕はあの日確かに、何よりも綺麗な「青」を見た。
* * * * *
この小説を書いた時、僕はふと思ってしまった事がある。もしかして僕は、彼女に小説を渡さなくて正解だったのではないか、と。
彼女に小説を渡せていたら、この未練がましい片想いにピリオドが打たれていたのだろう。間違いなく、青春をどこまでも綺麗な形で終わらせられただろう。
果たして僕は、それを望んでいただろうか。もしかすると僕はこうやって、彼女に一生を呪われる事を望んでいたのではないか。こうやって、彼女だけを文字にする事を選びたかったのではないか。彼女を描いた物語なんて、彼女に渡したくないのではないか。
そんな考えが頭を過り、でもすぐに振り払った。僕は間違いなく、彼女に小説を渡したかった。例え青春が終わると知っていても、僕は彼女になら青春を終わらせられてもよかった。僕をめちゃくちゃにして欲しかった。僕の青春を、ぶっ壊して欲しかった。
気持ちの悪い執着だと分かっている。醜い追慕だと知っている。それでも、あの日々を文字にしないなんて、僕にはできなかった。それが、僕の生きてきた意味だから。それだけが、僕が小説を書き続ける理由だから。
僕のスマホの中には、あの部室の写真がある。それを見返さない日は無い。南2A教室。それが部室の名前だった。
黒板の隅に書かれた落書きと張り付けられたプリント、少し黄ばんだカーテン、棚に並べられたパソコンやプリンター、小道具の入った段ボール、積み重なったプリント類、壁に備え付けられた古い扇風機、薄汚れた天井と白い蛍光灯、それを反射させるリノリウムの床、並べられた机と椅子。まるでついさっきの事のように、全て鮮明に思い出せる。
自分自身の卒業式の後で、僕は部室の黒板に詩を書いた。その詩にはとあるタイトルがあった。僕が三年間刊行していた部誌の名前をタイトルにあてた。でも、ここには記さないでおこうと思う。これだけは、誰にも知られたくない言葉だから。
* * * * *
最初は一つの青。
あの日、偶然のように拾い上げたそれは、
僕には綺麗過ぎる言葉。
その色に染まった日々の中で、
ただひたすらに感情を書き殴った。
僕が持ち合わせていなかったそれを、
暴力のようなもので埋め合わせていたかった。
次は僕が誰かに届ける番だと、
次は僕が君を救う番だと、ひたすらに叫んでいた。
過ぎ行く群青は奇跡のようなもので、あるいは奇跡以上の何かで。
この青い春の日々を、感情を、言葉を、
輝いていたその全てを、僕は「」と呼ぼう。
これは、僕が残す、最後の青春だ。
* * * * *
彼女になりたかった。
彼女のように生きてみたかった。
彼女だけを覚えていたかった。
彼女だけを言葉にしたかった。
彼女を想い出になんかしたくなかった。
彼女だけが、僕の青春だった。
先輩はそう言って小さく微笑んだ。先輩は感情を顔に出す事が少ないから、こういう風に笑ってくれるのは中々レアだ。
机の上に広げられている雑誌には、僕の書いた詩と僕の名前が大きく印字されている。「最優秀賞」というその冠は、僕には未だ計り知れない価値だ。
「どうして分かったんですか」
「読んだ瞬間分かったよ。これ本当に凄いよね」
そう言って先輩は雑誌に載せられた僕の詩を指差す。タイトルは〝その色をなぞる〟。
* * * * *
あの日の小さな始まりは淡香色
輝きだす穢れた光は紅色
見上げていた明日を照らす山吹色
空回りの無駄を教えてくれた藍色
綺麗すぎたあの瞬間だけは柳色
芽生えた臆病者の遠回りは橙色
苦しい程に純朴な愛は焦茶色
追い越してく永遠を求めた紫色
消化不良のまま完成した定理は黒色
何もかもが幸せなレプリカだった白色
されど、全て終われば結局は灰色
さよなら、僕の群青色。
* * * * *
「詩の部門でも賞は狙ってたんだけど、まさか舞茸君に取られちゃうとは思わなかった」
自分の作品を提出する前に、部長である先輩に読んでもらうというのが文芸部の決まりだった。コンクールに提出する直前、この詩を読んでもらった際に「これいいね。賞とか取れちゃうんじゃない?」と軽々しく言われたのだ。まさかと思っていたので、賞を取った自分自身と、何よりそれを言い当てた先輩にも心底驚いている。
「舞茸君って才能あるんじゃない?」
「そんなわけないです。初めて書いたんですよ」
「だからだよ。初めて書いたのに最優秀賞とれるのは才能ある証拠じゃん」
〝舞茸〟というのが、僕が創作をする上で使っているペンネームだった。名付け親は他でもない、先輩だ。
「それを言うなら、先輩だって賞を取ってるじゃないですか」
僕はそう言いながら雑誌の違うページを開き、そこにあった一遍の小説を指差した。そこには先輩の書いた小説と、先輩の名前がフルネームで載せられている。被せられている冠の大きさはもちろん「最優秀賞」。
「私はほら、三年間も小説書いてるから。大体は書けちゃうよね」
「でも小説部門って競争率高いんですよね。凄いと思います」
「そんな事ないよ。適当に書きながら適当に思った事を、適当に書いていっただけ」
先輩はまた少し口角を上げてヘラヘラと言った。先輩は分かりづらい冗談をよく言うけど、嘘は滅多につかない。彼女自身は本当になんとも思っていないのだろう。なら、その才能とかいうものは先輩にこそあるように僕は思える。
「私の小説は読んだの?」
「もちろん」
「どうだった?」
「……なんて言うか、難しかったです」
「ええ? そうかなあ」
先輩の小説は、大まかに言えば「死」と「関係性」をテーマに扱っているものだった。不慮の事故に合い、植物状態になった友人のお見舞いに通い続ける主人公。「君のいない世界なんて何の価値も無いんだよ」と言葉をかけ続ける主人公に対し、死の狭間、自らの意思でこの世から遠ざかっていこうとする友人。
果たして、二人の関係性は本当に「友人」に留まるものなのだろうか。それ以上の何かがあるような気もするし、そもそも関係性に名前を付けようなんて考えが傲慢なのかもしれない。ともかく、お互いがお互いに抱いている価値がアンバランスで、小さく些細でいて、けど、その決定的な差はどこまでも悲しいものだった。
「難しいですけど、でも、何か凄い事が起きてるんだっていうのは何となく分かります」
僕がそう言った時、ふと部室に日差しが差し込んだ。先輩の後ろの景色を見ると、朝から降り続いていた雨はいつの間にか止み、分厚い雲の切れ目から光が差し込んでいる。
窓に背を向けていた先輩は、僕が目を細めたのを見て「眩しいね」と言って立ち上がり、窓を開けてカーテンを閉め切った。ペトリコールを運ぶ夏風が部室に吹き込み、少し黄ばんだカーテンを弱く揺らす。先輩は窓際に立ったまま、振り向いて僕の方を見た。
「舞茸君は小説書かないの?」
「……どうでしょう。絶対難しいですよね」
「そうでもないよ。書き始めちゃえば流れに乗るだけだから」
先輩は優しい表情のまま言った。僕と彼女とでは二年分の差がある。もしも彼女のようになろうとすれば、きっと僕はその二年の全てを小説に費やさなければならない。
「僕には無理ですよ」
「どうして?」
「だって僕は、先輩みたいにはなれない」
僕の言葉に先輩は眉をひそめ、ほんの少し難しそうな顔をした。
僕にとって彼女は、僕の全てだった。彼女が「青色だよ」と言えば赤色でも青色に見える気がしたし、彼女が「綺麗だね」と言えば、この世界すら綺麗に思えるような気がした。
僕にとって先輩は、世界そのものだった。彼女が見ているもの、聞いているもの、嗅いでいるもの、味わっているもの、触れているもの、感じているもの。それが世界の全てなのだ。僕は彼女のようになりたかった。僕はずっと彼女に憧れていた。僕は、彼女になりたかった。
「私は読みたいよ。舞茸君の書いた小説」
「どうしてですか」
「だって、舞茸君の書いた詩はこんなに綺麗だもん。君が書く小説がどんなものなのか、私は気になる」
先輩の背後で、風に当てられたカーテンが優しくなびく。時々の切れ目から入り込む陽の光は、全てが彼女の為に存在するようにすら思えて、やっぱりその光景はどこまでも綺麗だった。いつか小説を書くのなら、彼女のように美しいものを文字にしたいと思った。でも同時に、それを言語化するのはどんな言葉を持ってしても不可能だとも思った。
「いつか小説を書いたら、私に読ませてね」
先輩はそう言って優しく微笑んだ。僕の脳裏に焼き付いて離れない彼女の笑顔は、まるで呪いのように今も僕を蝕んでいる。
僕が先輩へ宛てた告白紛いの小説は完成しないまま、彼女は卒業してしまった。それをコンクールに提出する事もしなかった。
僕が彼女を想っていたただ一つの証明であるそれは、今でも僕の手元に遺り続けている。きっといつまでも彼女を忘れられないまま、またあの日を追憶してしまうのだろう。
それから数年後、僕は手紙を書いた。先輩へ、ではない。かつての文芸部の顧問へだ。あの部活がどれだけ幸福だったか。あの部室がどれだけ僕の救いになっていたか。そういう事を切実に、丁寧に書き記した。
手紙には一編の小説を同封した。小説のタイトルは〝終わらせられなかった青春の持ち主へ〟。僕の高校時代の話をベースに、僕が得たかったものを書き記した物語だ。
あの時、彼女に小説を渡せていたらどうなっていたのか。そんな、もう存在しない「もしも」の世界線を書き殴った。僕の唯一の後悔を物語にした。
物語の中には、とある詩が出てくる。これは僕が学校を卒業した後、実際に書いた詩だ。あの三年間の全てが過去になったからこそ、文字にできることを必死に綴った。詩のタイトルは〝青〟。
* * * * *
「青」を見た。
それは確かに、あの日々で僕が作り上げた、
過去の遺物と呼ぶべきものだった。
夕焼けの赤が差し込むその場所で、
それでも僕はひたすらに青を紡いでいた。
綴った言葉達は涙が流れるような優しさ、息の詰まるような苦しさ。
だけどそれは、あの日々でしか成し得ないものだった。
始まりは彼女だった。
向こう側まで透けて見えるような
ひたすらに無色透明な彼女に
僕はどうしようもなく憧れていた。
僕は彼女になりたかった。
彼女の見ている世界を知りたかった。
彼女のように言葉を紡いでみたかった。
彼女のように、僕は透明になりたかった。
ガラスそのものみたいな彼女が割れていなくなった時、
僕は初めて夕焼けの赤を目に焼き付けた。
初めて嘘みたいな雪の白を知った。
初めて群青色した空を見上げた。
綴った過去の遺物は涙が流れるように優しく、
息の詰まるように苦しく、
そして言葉さえ失うように美しい。
僕が「あの日」見たそれは、
透明を求めて紡いだ日々の、その全てだった。
彼女のいない世界でひたすらに感情を書き殴った。
次は僕が、彼女に青を伝える番だった。
僕はあの日確かに、何よりも綺麗な「青」を見た。
* * * * *
この小説を書いた時、僕はふと思ってしまった事がある。もしかして僕は、彼女に小説を渡さなくて正解だったのではないか、と。
彼女に小説を渡せていたら、この未練がましい片想いにピリオドが打たれていたのだろう。間違いなく、青春をどこまでも綺麗な形で終わらせられただろう。
果たして僕は、それを望んでいただろうか。もしかすると僕はこうやって、彼女に一生を呪われる事を望んでいたのではないか。こうやって、彼女だけを文字にする事を選びたかったのではないか。彼女を描いた物語なんて、彼女に渡したくないのではないか。
そんな考えが頭を過り、でもすぐに振り払った。僕は間違いなく、彼女に小説を渡したかった。例え青春が終わると知っていても、僕は彼女になら青春を終わらせられてもよかった。僕をめちゃくちゃにして欲しかった。僕の青春を、ぶっ壊して欲しかった。
気持ちの悪い執着だと分かっている。醜い追慕だと知っている。それでも、あの日々を文字にしないなんて、僕にはできなかった。それが、僕の生きてきた意味だから。それだけが、僕が小説を書き続ける理由だから。
僕のスマホの中には、あの部室の写真がある。それを見返さない日は無い。南2A教室。それが部室の名前だった。
黒板の隅に書かれた落書きと張り付けられたプリント、少し黄ばんだカーテン、棚に並べられたパソコンやプリンター、小道具の入った段ボール、積み重なったプリント類、壁に備え付けられた古い扇風機、薄汚れた天井と白い蛍光灯、それを反射させるリノリウムの床、並べられた机と椅子。まるでついさっきの事のように、全て鮮明に思い出せる。
自分自身の卒業式の後で、僕は部室の黒板に詩を書いた。その詩にはとあるタイトルがあった。僕が三年間刊行していた部誌の名前をタイトルにあてた。でも、ここには記さないでおこうと思う。これだけは、誰にも知られたくない言葉だから。
* * * * *
最初は一つの青。
あの日、偶然のように拾い上げたそれは、
僕には綺麗過ぎる言葉。
その色に染まった日々の中で、
ただひたすらに感情を書き殴った。
僕が持ち合わせていなかったそれを、
暴力のようなもので埋め合わせていたかった。
次は僕が誰かに届ける番だと、
次は僕が君を救う番だと、ひたすらに叫んでいた。
過ぎ行く群青は奇跡のようなもので、あるいは奇跡以上の何かで。
この青い春の日々を、感情を、言葉を、
輝いていたその全てを、僕は「」と呼ぼう。
これは、僕が残す、最後の青春だ。
* * * * *
彼女になりたかった。
彼女のように生きてみたかった。
彼女だけを覚えていたかった。
彼女だけを言葉にしたかった。
彼女を想い出になんかしたくなかった。
彼女だけが、僕の青春だった。