7歳頃から続けてきたサッカー。
小学校は男子にまみれて。
中学では女子も男子もみんなで。
高校は強豪、寮生活。
そんな私のサッカー選手人生最終章。
辞めるつもりだったサッカー。それでも声をかけていただいて、続けることを選びました。
自分たちの代はみんなみたいに体験とかなく、監督も未発表のまま集まった人たちでした。
自分は栄養の勉強がしたかったから、正直、サッカーの環境なんかどうでもよかった。
コロナ禍から始まった4年間の大学生活。
公園でみんなで集まってやるところからのスタート。
いざサッカーをやるとなると11対11の紅白戦もできない、コロナで自由にやらせてももらえない。どうでもいいって思ってたはずやのに、何にもできなくなってから今までの環境が当たり前じゃなかったことに気付きました。
1年の冬、全部がしんどくなって、サッカーが嫌いになりそうで、何に対しても感情が湧かなくて、辞めようと決めました。
その時、ただ見てるだけの自分に普通に接してくれて、はよ戻ってこいとか、色々話聞いてくれたり、そんな周りの人達がいてくれたから戻ることができたし、戻るって決めた時も何も文句言わず受け入れてくれて、人に恵まれてたって振り返って改めて思います。
そこから人数増えて11対11もできるようになりました。でもその代わり自分の出場時間は減っていくばかり。
まぁ休んでたししゃーないとか言い訳ばっか並べて、どんどん試合に出たいって気持ちが無くなっていきました。
2年の時の記憶がほぼないのでたぶんサッカーをただやってるだけだったんだと思います。
3年では関西リーグが始まって、Bチームで目指すものができて、毎日の練習どうしたら良くなるのかってめちゃくちゃ考えてました。
この時、やっとサッカーと向き合えてた気がします。
この関西リーグでの得点が今まででいっちばん嬉しかった得点。苦しい試合やったけど最後の最後で決めれてみんな駆け寄ってきてくれた時、サッカー辞めんくてよかったって心から思いました。
学校の先生から、3年で実習始まったらもう両立は難しいからどこかで区切りをつけなあかんって言われて、関西リーグの最終節で引退(仮)することにしました。
でも、4年になっても関西リーグのメンバーには入れてもらってました。
ほんとはまだやらせてもらえるんやって嬉しかった。
けど、いつ勉強が大変になってチームを離れるかわからんなら私達の枠がもったいない、経験積むべき人達がおるって言い聞かせて、メンバーから外してもらい、完全にチームのサポートに回ることにしました。
ここからはほんまに苦しかったです。
出る試合がないから目標もない、Aチームの子達と同じチームでサッカーできることはほとんどない。
こうなることは覚悟で決めたことやのに、何のためにここまでしてサッカー続けてるんやろうとか、思ってしまったこともありました。
それでも続けてこれたのは、一緒にB.Cチームでやってた人達が、週に1回授業で休んだだけで、はなさん来てよ!って言い続けてくれて、自分が行く意味があるって思わせてくれたからです。
どんなに個人の力が技術が無いって言われてもチーム力で補って、紅白戦でも練習試合でも、練習してきたチームで勝つことが何よりも嬉しくて頑張ってこれました。
最後の結果はベスト8という目標には届かなかったけど、このチームで最後まで闘えてよかったって心から思います。
このチームを作って声をかけてくれた登先生、あの時引き止めてくれた一期生、三輪さん、チームを背負って闘い続けてくれたAチームのみんな、どんな立場でも一緒に闘ってくれたB.Cチームのみんな、リハビリもしながらたくさんサポートしてくれた怪我人の子達、対戦相手の分析やチームのことをたくさん考えてくれた小春、いっしーさん、影ながら支えてくださった外部コーチの方々、メディカルスタッフの方々、本当に感謝してもしきれません。
オフでは声でかいのにピッチでは静か。
でも負けず嫌いで熱い気持ちを持ってる。
リカバリーは全力で遊ぶ。
1人1人の個性が強すぎていろんな色で溢れかえってる。
たぶん日本一ベンチで笑える(しばかれる)。
こんなチームで闘えたことを心から誇りに思います。
最後に、同じ学科の後輩たちへ。
絶対に勉強を理由にサッカーから離れないで。
時間は自分で作れる。
本音を言えば、ここまでサッカーするなら自分もみんなと同じ立場で、ピッチに立ちたかった。
両立が大変になることはあるし、他のみんなが遊んでる中で4年になっても授業があって、我慢することは多くなるかもしれん。それでもサッカーを最後までやり遂げることが一生の宝になると思うから。頑張ってね。
国試合格して、できるってことを証明できるように頑張ります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。