加藤芳郎
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ヒストリー

出身地

北海道札幌市

幼少期の暮らし、体験

(幼少期 右下のお猿さんのような子が私です笑)

北海道旭川市にて生まれ、物心ついた時には札幌にて過ごしていました。


姉が二人いた関係もあり、外交的でとてもおしゃべりな性格だったと両親から聞いています。

母は専業主婦で、とてもおっとりした性格。大人になってからすぐに父と結婚したこともあり、社会経験はないようでしたが、調理師・栄養士の資格を持ち、子育てに邁進してくれました。

父は獣医師の仕事をしており、何かと「生物」にふれあう機会の多い幼少期を過ごしました。父と共に、虫採り・釣り・野球など、休日は頻繁に外を走り回っていました。

特に今でも覚えているのは

「芳郎、社会を一つの生物と考えた時、一体お前はどんな役割を果たすだろうか?!酸素を運ぶ赤血球?!生物の体を支える骨だろうか?!お前が将来大人になり仕事をする時は、一体どんな役割をもって働くのか?!このことを考えて仕事に注力してみなさい。」

こう思うと、この言葉が私の仕事への意識に大きな影響を与えている気がします。


中学・高校時代

(中学時代 修学旅行の一枚。多感な時期ですね。)

中学・高校 は、バスケットボールに明け暮れた日々を過ごしていました。

中学時代は、弱小バスケットボール部に所属し、2年生からキャプテンになり、チームを引っ張っぱろうと頑張っていたのを覚えています。


とはいえ、札幌市中央地区大会においても、1勝できるかできないかの弱小校で...負け試合が続きましたが、チームで目標を持ってバスケに打ち込みことを楽しんでいました。この時から、何かとチームのリーダーを担うことが多かった気がします。


姉が二人いる関係からか、少しませた中学時代を過ごしたようにも思います。熱い気持ちがある一方で、どことなく冷めていた自分もいたり。


また、所謂、中二病にしっかりと陥り...笑 友達に「俺のことを一発殴ってくれ!!」なんて、よくわからないお願いをして血だらけになった記憶があります笑 一体何がしたかったのか...笑


高校受験勉強はそこまでせずに、運良くそこそこの高校に受かることができました。本当は家の近くにある札幌南高(北海道で一番の高校)に行きたかったのですが...チャレンジすらせずに、逃げていました。きっと落ちるのが怖かったのでしょう。


(大好きな祖父が、進学に関して私に期待してくれていたことを知っているからこそ、なおさら怖かったのかもしれません。)


高校時代は、中学と変わって比較的バスケが強いチームに所属することになりました。ここで大きな「挫折」を味わいます。弱小校とはいえ、キャプテンとしてスタメンを張っていた自分が、ベンチにすら入ることができない。周りには地区の選抜メンバーも多数いて、全然自分にスポットライトが当たらない...。加藤芳郎 暗黒時代の高校生活の始まりです。


試合はおろか、練習ですら足を引っ張ってしまう。チームメートと自分の力量を比べ自信をなくしました。ただそれが嫌で、悔しくて悔しくて、一生懸命練習したのを覚えています。朝6時には起床し、苦手な朝練にも毎日参加しました。


しかし結果は、3年生になっても主力として活躍することはできませんでした。万年2軍です。今思うと本当に心から一生懸命行動(練習)し続けられていたか?!というと、「NO」です。


「どうせ自分には才能がないだろう」「どうせ自分は活躍できないだろう」


こう心のどこかで自分自身を信じきれていなかった気がします。心が折れてました。だから、全力で練習もやりきれていなかった...。

(※3年生最後の試合では、練習していた3ポイントを三連続決めることができたのは唯一の成果でしょうか。)


また、部活以外についても、あまりいい思い出がないのが高校生活です。ごめんなさい、少し暗い話になってしまってますね。でもこれが本音です。


友人関係も広く浅く...といったところで、楽しかった記憶は若者らしく初々しい[彼女との時間]です恥 ピュアでしたね笑


部活漬けで、勉学には一切励んていませんでした。授業中、教科書に隠して漫画を読んでいることが多々あったくらいです。もちろん、大学受験にも見事に失敗しました。


センター試験段階で、新潟大学に高確率で受かると確信し、2次対策をあまりせずに挑んだ結果、落ち...。しかもこの時、調子にのって新潟大学一本に絞って受験したために必然的に浪人しました。「俺は新潟大学に受かるから、他は受験しないわ〜」一体、どこから湧き出てくる自信であったのか笑


2次試験の難しさで、回答用紙に汗が「ポタポタ」としたたり落ちる姿が思い出されます。軽くトラウマです。


そして、浪人生活1年を経て、高望み?し、大阪大学を狙い、落ち...最終的には滑り止めだった山梨の公立大学[都留文科大学]に入学することになります。(北海道教育大学にも受かりましたが、北海道から逃亡するために進学せず...。)





大学・専門学校時代

(大学時代 カメラにのめり込んでいました。)

心機一転「独りになりたい!!」と北海道を出て、山梨の片田舎の大学に入学した私は、北海道民でも驚くほどの田舎っぷり(大学周辺)に最初は戸惑いましたが、

この大学(通称:文大)に入学できたことが人生の転機になった気がします。

今まで「バイト経験」がほぼなかったので、「よっしゃ、稼ぐぞ!!」とWeddingカメラマンのバイトを先輩に紹介していただきました。


「三脚につけたカメラを適当に動かしてればいいから!!しかも高給!!」

という、「簡単×金」という至極単純な人参に食いついた私なのですが、実際はそう甘くはなかったのです。撮影見学にいくと...「ガチガチのプロやんw」とついつい突っ込んでしまいたくなるような仕事内容+現場でした。


「これは俺にはできないんじゃないか...?!!?最初の話と違うー涙」


と嘆く一方で、なぜか自分の中で「逃げるな!!!」という気持ちが沸々と込み上げてきたのを覚えています。約一ヶ月ほど、バイトをするか考えた後、この撮影の仕事に挑戦することを決意しました。


今までのヒストリーをお読みいただいた方にはご理解いただいていると思いますが、それまでの私の人生は「本気で物事に打ち込み、困難を乗り越えた先に成果を得る経験」がなかったと思います。


心のどこかで何かと理由をつけ、逃げてみたり、努力を怠ったり、目先の楽に手を伸ばしてきました。文大に来たのも、浪人してしまい学年が1個上にかつての同級生がいることが嫌だったから。大した学歴も得ることが出来ず、北海道から逃げたかったから。(もちろん、他に研究したい内容もあったので、全てではないですが...)


そんな自分と本気で向き合い、変化させなければ、これからの人生もこの繰り返しだと思いました。だからこそ、辛そうな選択肢を敢えて選び、撮影のバイトをはじめました。(偉そうに語ってますが、全然大したことじゃないですね笑)


「生き方を変えてやる」と、心から湧き出てくるものを抱えながら、本気でバイトに挑みました。最初の1~2ヶ月はカバン持ち、見学のみです。覚えられないことも多く、バイト代はもらわずにバイト先の会社に、映像や撮影について勉強させてもらいました。


タイミングがよかったこともあると思うのですが、こういった努力のお陰で、カメラマンとして活躍できるようになり、気づけば後輩のカメラマンが増え、1つの結婚式場のリーダー的なポジジョンに立つこととなりました。


さらに、新商品の開発などにも携わらせていただくようになり、映像というものにどっぷりと浸かっていきました。ウェディングカメラマンをしながら、個人事業として大学や知り合いの先輩経営者から映像制作の仕事をいただくようになっていきました。


そして、東アフリカの旅(ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニア)を機に、

起業することを決意し、大学3年生の時に今の会社である「株式会社KNOCK」を設立しました。






職歴


(事業主様 150名の前でセミナーをさせていただいた時の一枚。)

職歴
2011年10月個人事業主として映像制作開始
2013年5月屋号 kic.production 代表
2013年12月屋号 KNOCK 代表
2014年7月株式会社KNOCK 代表取締役
2018年9月株式会社Sword Spirit 取締役
2019年2月宣伝会議 動画ディレクション部門 講師

2011年、山梨/静岡/東京エリア内にある某ブライダル映像会社にて、映像技術を学びました。

前述のとおり、映像・商品開発を約3年間勉強・実践に励み、撮影した新郎新婦は200組を超えます。映像に魅了され、一心不乱に映像技術を頭に叩き込みました。

ブライダルに携わりながらも、2011年より同時並行で個人事業主として映像制作事業を独自に始めました。2013年の夏には、バックパッカーで東アフリカ一周の旅の中で、

「世の中は不平等で、資本主義社会。」
「映像の魅力を日本・世界に伝えられる組織と世の中を変えられるくらいの資本力を手にしたい。」
「将来、貧困地域の子ども達に教育の場、そして、独自の就職ルートを創りたい。」
「人生は一度だ。」

旅の経験を契機に、事業を本格化始動させ、仲間を募り会社の立ち上げを目指しました。2014年7月に株式会社KNOCKを設立。映像制作事業を進める中、制作した映像物にマーケティング要素を取り入れた形でサービス展開を実施しました。

2016年以降〜複数代理店様と契約し、多くの映像制作をクリエティブし実績を積み重ねられるようになっていきました。

「見てもらいたい人」に「動画を届ける」をルートを創り出すことにコミットできるよう日々精進しています。

現在では、映像領域をYouTubeを中心に拡大させ、クライアントを動画マーケティングでプロデュースしています。