増田 珠直
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ヒストリー

出身地

山口県

幼少期の暮らし、体験

うなちゃんはアホな子(保育園時代)

 小さい頃、私の幼なじみ達は「じゅなちゃん」が言えなくて「うなちゃん」と呼んでいた。「うなちゃん」時代の私は、車の中で歌いながらジャンプして頭を打ったり将来の夢が周りの子がプリキュアや仮面ライダーなのを他所に「犬のしろちゃん」や「ガソリンスタンド」と謎なうえにアホな子どもだった。その中でも1番アホな出来事は、ブランコに立ち乗りしていたら手が離れて空中一回転して正座で着地。目の前にはジャングルジム。怪我してもおかしくなかった状況で無傷だった。周りの親は「じゅなちゃん大丈夫?」と急いで私の近くに来たが、1番心配しなければならないはずの母親が近くで大爆笑していたのは今でも忘れない。私も私で他の親の心配を他所にまたすぐにブランコをはじめたからやはり、アホだったのだろう。

アホな子から先生の子どもならできて当たり前と言われる(小学校時代)

昔から、どっちかというと勝っても負けてもどっちでもよくて凄くマイペース。人見知りも激しくて人前にたつのがとっても苦手な子どもだった。ちまちま何かをすることが好きで、1年生の夏休みの課題物を全部した。感想文はもちろんアイデア貯金箱や自由研究、全部したのだ。数打ちゃ当たるじゃないが、先生が全部クラス代表で出したお陰で賞状を扇子みたいにあおげるくらい貰えた。嬉しかった自分に対して当時の担任が「増田先生の子どもなんだからできて当たり前」と言われたのを鮮明に覚えている。この言葉が6年間ついてまわるとは当時の自分は考えもしなかった。2年生。人生の転機となった陸上と出会った。先生は私に陸上を勧めてくれた。走ることが好きだったからだろう。持久走大会で担任の先生に「新記録でるぞ」と応援したのを私は怒られたと勘違いしてしまい、また大きな声を聞いたのがはじめてでびっくりして止まってしまったほど相変わらずアホだった。担任には未だにこのことを謝られる。そして、持久走大会の日の給食で大好きなキウイフルーツを食べアレルギー反応発症。先生にはこの日だけでたくさんの思いをさせてしまい申し訳ないと思う。3年生になり、陸上を習い始めた。大好きな先生に進められて始めた陸上。努力すればその分秒数として結果が見えるのに達成感を覚え毎日練習し続けた。4年生になり陸上チームの中でトップになり始めていた。そして、感想文では、全国で賞を得た。自信をもっても「増田さんだからできて当たり前だよね」と言われまた自信を折られた。5年生になると、本格的に何をしても「増田先生の子どもならできて当たり前」と言われ続けた。それでも、傷つくことなくなんともなく思えたのは、日中韓子ども童話交流会に参加したのがきっかけだった。日中韓で大人は、増田先生の子どもとしてではなく、増田珠直として扱ってもらえた。同じグループの子達も、皆私より何百倍も凄くて優しくていい子だった。そんな子達のように自分らしくなりたいと思った。離れていても手紙を交換して色々な話をした。市の駅伝で新記録が樹立されたとき手作りのメッセージカードをお祝いで作ってくれた。そんな大切な友達に出会えた日中韓は私にとって大切なきっかけとなった。6年生になると学校代表になることが増えた。今でも忘れられないのは、運動会の児童代表挨拶だ。前日から38.0°の熱が出ていて帽子の下に冷えピタを貼って選抜リレーと児童代表挨拶だけしたのは多分一生忘れられない。ここまでの話だと、アホな様子がないように感じられそうだが、今でも友達に会うと笑い話のネタになることが2つある。1つ目は、高跳びで捻挫をしたのにそのまま800mで新記録を出し、走り終わった瞬間に歩けなくなりそのまま病院送りになり松葉杖生活になったこと。そして2つ目は、その後プールの授業中に私が松葉杖ごとプールに落ちたことである。試合でやるからには最後までと走ってしまったのが重症化した原因である。プールに関しては、本当は座って居なければならないのに先生に他の子のタイムを測れと言われプールサイドを松葉杖で歩いてしまったことが原因である。そして、この2つの事件は、ほぼ同時期に起きたことである。そして、何がおかしいかと言うとプールを習っているから泳げる私を助けてくれた幼なじみである。彼は泳げないのに落ちた私を見て1番に助けてくれたのである。それもお姫様抱っこをして。今考えるとときめいてもおかしくない瞬間だったのだが当時の私達は落ちたことに大爆笑だった。こんな状況でも笑ってるのだから昔から対して変わっていないのかもしれない。その後、私がプールに落ちたことは大問題になり先生が教育委員会に訴えそうになるほど大問題になったのは言うまでもない。ちなみに怪我した日に病院送りになる私とたまたまあったのも私をお姫様抱っこしてくれた幼なじみだったのだ。運命とは思いたくない。

中学・高校時代

はじめての挫折(中学時代)

小学生のときから頑張っていた陸上で私立中学のスポーツコースの特待生として入学した。そのときは、大好きな陸上をすることができる、夢に希望に溢れていた。だが、すぐに目の前が真っ暗になった出来事があった。それは監督に食べ物を制限されたときだ。恥ずかしい話、食べることが大好きだった私は小学生時代、毎日5食食べていた。そして大好きな食べ物は甘いもの。1日1箱、箱アイスを食べていたほどである。今考えると恐ろしい話である。それでも太らなかったのは水泳に陸上と運動をしていたからだと思う。そんな私に監督が言ったことは「お菓子・甘いもの禁止」「パン禁止」「食べ過ぎ禁止」禁止だらけだった。その禁止事項を辛いながらも守った私は、ストレス性の病気になった。それほど、私にとっては食べることはなによりも楽しみだった。そんな私に見かねて監督は、「試合で自己ベストが出たらその日は好きなものを食べてもいい」と言ってくれた。そしてデビュー戦では無事、小学生の時の自己ベストを20秒縮めることができた。試合帰り監督に「今日はケーキ食べてもいいぞ。」と言われ、きっと私は凄く笑顔だったのだろう、すかさず「ワンカットだぞ。ワンホールじゃなくてワンカットだぞ。」と必死な顔で言っていたのを今でも覚えている。ワンカットのケーキをちょっとずつ食べたこの日がとても幸せだった。だが、結局幸せな気持ちでケーキを食べれたのは後にも先にもこのときだけである。結果的に言うと私の中学3年間は、故障で終わった。これが私の人生はじめての挫折である。最初は、ちょっとしたことだった。小学生のときも何度も故障していた。だから当時は、今回もすぐに治ると思ってた。だが、故障は長引きやっと治ったと思っても、またすぐに故障した。故障した中走った試合で、はじめて入賞できなかった。それだけではなく、今まで私より遅かった人に負けた。自己ベストが出せなかった。人生ではじめて挫折した瞬間だった。故障したまま走ったせいで故障した箇所は悪化した。故障して走れない時期が長引けば長引くほど周りと差がついた。走りたいけど走れないという思いとまた走っても故障するかもしれない、また負けるかもしれない、様々な思いがいつの間にか私の心を支配していた。それでも頑張り続けられたのは、全中駅伝のメンバーになり走りたかったから。毎回メンバーを決める時期に練習しすぎて故障してしまっていた私はメンバーになれても直前に外されることも多かった。結局走ったらその子より速くても結果論である。中3のとき私の代わりに走った子のせいで入賞できなかったと周りがその子を非難しているとき、「やっぱり○○じゃなくて珠直が走ったら入賞できたのに」という言葉を聞いた時、陸上をやめようと思った。心が折れた瞬間だった。怪我したくてしているわけじゃなく走りたかったのを我慢していた。小さな挫折が3年間で積み重なり大きな挫折として心に残った。そんな私に母は、忙しいからという理由で私を小学校へボランティアに連れていきコキ使いまくった。忙しすぎて何も考えることなく過ごすことができた。そして、なんといっても一人っ子の私にとって低学年の子達は弟妹のように可愛かった。小学校でボランティアをはじめたきっかけだった。

将来なりたい夢を見つけた(高校時代)

陸上をやめ中高一貫校をやめ、地元から通える高校に通いはじめた。私は、資格を取りながら週に3回介護施設で働いた。また、ボランティアで母の学校で子ども達に勉強を教えたり遊んだりしていた。そして、いつの間にか陸上部に所属させられていた。監督の荒業に当時はため息だったが今ではとても感謝している。走れない私に監督はマネージャーをさせてくれた。試合で記録を取ったり雑用だったが陸上が高校3年間でまた好きになれていた。そしてなんでも話せる仲間ができた。同級生の女子は私と友達。どんなときも一緒に頑張ってきた友達だからこそなんでも話せる仲間になったのだと思う。先生、私を陸上部に無理やりいれてくれてありがとう。こんな慌ただしい日々を送っていたがずっとこれからどうするか悩んでいた。そのときに思い出したのは母の姿だった。私の人生の大半には、小学校の先生がついてまわった。そして、子どもができなかったことができた瞬間の達成感、頑張る姿・成長する姿を見ることの楽しさをいつの間にか私は知っていた。昔は絶対になりたくないと言い続けた教師という仕事。小学生の時に母が入学式や参観日などに来てくれた記憶はない。プラスで先生達のせいもあり死んでもなりたくないと思ってた。だけど大きくなればなるほど、いつの間にか教師という仕事、母の姿を私はいつの間にか尊敬していたのだと思う。そして、介護職員でもなくスポーツトレーナーでもない、私の本当になりたい職業は小学校の先生だと気付いた。

大学・専門学校時代

夢に向かって走り続けてます(現在)

女子大最後の学生として入学した。どこを見ても女子で男は先生だけ。男子がいないのをいいことに1年生の頃は毎日すっぴんで登校していた。今は無理。私服、高校までの授業とは違う、そして皆学校の先生になりたいという思いが不思議で、でも楽しくて環境に毎日が新鮮だった。県外の大学に入学したため寮に入寮したのだが一言で言うと監獄である。見た目はとても古く、なんと寮一面に有刺鉄線が張り巡らされている。そして1年のとき寮の門限は21:15までだった。2年生のときに22:00までになったが県内の大学で門限が22:00までなのはうちの大学だけである。そして、ご飯があまり美味しくなくヘルシーである。入学して1週間で1kg痩せた。あまりの辛さに同じ寮生の友達とケンタッキーを無言でむさぼりついたのは今でも笑い話になっている。それから月一お肉会が開かれた。それで太るのは言うまでもない。そんな女子学生?とは言いづらい生活を送っていたが、1年生の8月に日中韓子ども童話交流の夏の交流会のジュニアリーダーとして1週間、日中韓の小学生達と一緒に過ごした。言葉の壁や、上手くいかないこともあったが楽しそうに活動する班の子ども達を見ると疲れも吹っ飛ぶほどだった。最終日、泣かないために化粧を濃いめにし、泣くのを我慢したのにも関わらず、新幹線の中でメッセージを見た瞬間号泣してしまったので顔がブッサイクになっており、化粧を濃いめにしたのは失敗だったと思った瞬間だった。今でも、当時の子ども達から連絡くるのが嬉しい。はやく大人になりたいという子どもたち。この子達が20歳になったら私何歳だろう…。想像もしたくない。