中里 浩士
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ヒストリー

出身地

東京都中野区

幼少期の暮らし、体験

1972年。中野区生まれです。
万国博覧会が開催されて2年。日本が近代化して行く時でもありました。

中学・高校時代

中学になるとバスケットボールを始めました。
バスケットボールはけっこう真剣でした。もともと運動神経はいいほうで、高校3年の時にはキャプテンを務めます。
中学時代はバスケ部の部員が足りず、十分な練習ができなかったため、社会人に交じって、練習に参加させてもらっていました。

「イチ、ニィ、サン、シィ、ゴ」。朝は決まって点呼から始まります。
全寮制の男子校に進学し、高校3年間、寮生活を送りました。
消灯は夜10時。
自宅に帰るのは、月2回と決められていました。
 全寮制の学校に進んだのは、私の人生のなかで大きな意味を持ちます。
3年時には生徒会長を務めました。
高校時代に、人は1人では生きていけないということを学びました。
1年生の時にあてがわれたのは、8人部屋。
当然、いままで顔も知らなかった同居人たちです。
そのなかで、暮らすには協調性が重要でした。
顔をみることで、相手の気持ちを推し量る感性や洞察力など、ある意味、強調性とともにリーダー的な気質も、この3年間で育まれました。

職歴

1人の青年が社会に飛び出す。まだ19歳だ。動物好きな心やさしい青年であり、喧嘩をすれば負けたことがないやんちゃ坊主でもある。
 「これはバイトですが、最初にはたらいたのは、英会話学校の講師助手でした」。「英語が学べる」と選択したが、講師助手とはいうのは、生徒をあつめる営業の仕事だった。
 「飛び込み訪問です。半年くらいやったかな。そのあとトラックにも乗ったし、広告代理店でも勤務しました」。物怖じしない性格と、寮生活で修得した協調性。先輩たちから可愛がられた、というのにも頷ける。
 人生を決めるきっかけになったのは、広告代理店を辞め、つぎに就職した食品関連の会社でのことだった。「最初はトラック運転手として入社するんです。営業しながらの配送ですね。相手はむろん、飲食店です」。
 飲食店を回るうちに、知り合いができる。営業数字は、すぐにトップになった。「まだ子どもでしょ。とにかく一生懸命にはたらいていましたので、相手さんも心を開いてくださって。いろいろ購入してくださったんです」。
 その成績が認められたのか、会社がまったくの異業種である「ピザの宅配事業」を開始した時に、店長に抜擢される。これが21~22歳の時だ。「最初はイヤだっていったんです。だって、原価もわからないし、損益分岐点って言葉も知らないんですよ。しかも、私だけじゃなく、社員全員です(笑)。そんなので、できるわけがないじゃないですか。でも、聞く耳なんてもってもらえません」。
 FCならまだわかるが、いきなり自社オリジナルだったそうだ。「その店をはじめて1年。会社を退職します。だんだん売上も落ちてきたんでしょうね。社長のプレッシャーがきつくなって。でも、こっちも1日2~3時間の睡眠です。しかも1年で休んだのは8日くらい。もう、あかんわと」。
 「飲食はもう辞めよう」と思ったそうだ。しかし、縁がつづく。 

もし、この時、いくばくかのノウハウがあれば、また結果は違っていたはずだ。今頃、ピザショップを展開していたかもしれない。しかし、戦場にできるには、あまりに無防備すぎた。
 「もう、ふらふら。起業することは頭にありましたが、飲食はもういいかな、と。それでも、ご縁があるから不思議ですね。飲食店やカラオケを経営されている会社に、縁あって進みます。こちらで独立までの11年、勤務しました」。
 ここでも、転機がある。「4年目くらいですかね。その時は市川にある店を任されていたんです。採算が取れないなか、なんとか黒字化できそうな時に社長に呼ばれて、『今度、銀座で店をやるので、その店の店長をやってくれ』って言われるんです。最初は、やっぱりイヤだなと思っていました。ようやく黒字化できそうなところまで来ていましたから、せめて黒字化してからだ、と」。
 しかし、銀座にできる店をみて、気がかわった。「和食のダイニングで、それは、それはおしゃれで。まだ、工事の最中だったんですが、いっぺんに惚れてしまいました」。
 17坪。くしくも7年後、中里氏がオープンする店とおなじ坪数だった。
 「『くらのすけ』というお店です。繁盛して、私が不動産屋さんと交渉して、2店舗目も出店しました」。今度は独学ではなかった。先輩たちから様々なノウハウを吸収し、やがて、会社を代表する店長にもなった。
 その頃には、飲食のたのしさにどっぷりつかっていたと言っていい。
 「そして、32歳の時ですね。もう1度、飲食をするなら『10年で独立』と思っていましたが、1年遅れとなりました。社長に『独立します』といって、慣れ親しんだ銀座に1号店をオープンしました。むろん、商圏がかぶらないよう『くらんすけ』がある6丁目はさけ、1丁目に出店します」。
 スタッフも1人もつれていかなかった。その心意気を受け止め、なにかにつけ、当時の社長もバックアップしてくれたそうである。
 今もむろん、交流がある。おなじ、銀座。案外、銀座は狭い。「外からみれば、敷居が高いように思えますが、銀座はいまでもとても人情味ある街というか、町なんです」。 

「最初の2~3ヵ月は、赤字でした。でも、銀座で7年もやっていましたから、ぜんぜんこわくなかった。最初は、大家さんが、しぶってらしたんです。でも、ある人が『こいつはでっかくなるからやらせなさい』って助言してくださって。裏切ることもできませんから」。
 3ヵ月を過ぎる頃から、客が入りだした。そうなると17坪では手狭になる。大家に頼んで店を拡張する。「大きな声じゃいえないけど、あの頃がいちばん儲かったんじゃないかな(笑)」。