松浦 健寿(ぱくちー)
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ヒストリー

出身地

富山県南砺市

幼少期の暮らし、体験

田舎の純朴な少年。というのが、わかりやすい説明です。田んぼの畔を走り回り、友達とスポーツやゲームを楽しむ、ごく普通の幼少期を過ごしました。

中学・高校時代

富山県立砺波高等学校

高校に関しては、私が研究室誌に載せた自叙伝から引用します。

僕は、意識して「良い子」を演じるようになった。それが加速したのは、中学で生徒会活動を始めてからである。横並びの成績に変化が生じ、頭の良い悪いという意識が芽生え始める頃、わたしはそれまでの読書経験の賜物か、読解力と語彙力に優れ、どの教科に対しても優秀な成績を示した。それは、母親を安心させ、自分への悪感情を減衰させることのできるレッテルとなったし、その「教科書通りの」「良い子」という処世術は、日々を過ごす上で、常に有利に働いた。それに味をしめたわたしは、意識して「良い子」に見られるような行動や活動をして、それを、努力せずともついてくる好成績が後押しをした。そして、この方法は、小中高の12年もの間、基本的に、私の行動原則となった。

大学・専門学校時代

金沢大学

以下引用

◯転換期

大学三年になり、ついに就職活動が始まる。国立大学を、就職のための大卒という肩書を得るための機関と位置付けるわたしは、当然就職活動を他の誰よりも早く始める「つもり」だった。そのため、2年の秋から各種セミナーに参加し、モチベーションをあげていた「つもり」だった。だが、いざ夏のインターンシップや合同説明会が近づいても、わたしは訪問することも、参加申し込みすることも、説明会に赴くこともできなかった。なぜなら、「どのような業界で、どのような職種につき、その志望を満たす企業はどこにあるのか」といった、就活の軸が何一つ定まっていなかったからである。これは、小中高大と、常に受け身の姿勢で学生生活を送ってきた自身の落ち度が大きい。また、「教科書通り」の生き方に未だ囚われ、小中高の間、安定というただ一点のみを見て、教職を就職先に設定し続けてきたわたしは、その夏、教職の道に挫折していた。その原因は、教職課程の講座で学んだ、教職のやりがい搾取と、その労力対報酬の不均衡という問題、さらには、思いつきで始めた塾講師のアルバイトが自身の働き方と著しい不一致に陥り、逃走していたからである。塾講師に関しては、規則だけ厳しいにもかかわらず、生徒への指導に関しては放任な塾のシステム、また、時給に対して時間が入れず、拘束時間に対して、稼ぎとしても割が合わなかった。これは、今思い返しても、強引な抜け方は反省するにしても、辞めたこと自体は間違っていなかったと確信している。

以上の経緯から、意識と行動の乖離に苦しんだ自分は、自己同一性の喪失、平たく言うなら精神的に病み、2ヶ月の間引きこもり生活を送る。

僕は、誰よりも、自分に愛想を尽かした。死のうとさえ思った。死んで仕舞えば、家族が悲しもうが、世間から批判されようが構わない。それだけ、それまでの生涯で、家族という存在は見放していた。だが、そこでそうしなかったのは、ひとえに、楽に綺麗に死ぬことが、この国では非常に困難だったためである。

この人生初の大きな挫折、負のスパイラルから抜け出す転機となった出来事が2つある。ひとつ目は、新しく始めたアルバイトである。金策のため、単発バイトのつもりで受けた寿司屋の面接の場で、「できるだけ長く続けてほしい」と言われたのは想定外だった。そして、はじめてみると、忙しさから、がむしゃらに目を回しながら動き回ることとなる。最初は、ひたすら声を出すことに終始していた。それしか自分にできることはないと思い込んでいたからである。しかし、その威勢の良さは、周囲から個性として認められることとなる。そして、がむしゃらに働き続ける毎日と、刺激的な面子に囲まれた職場は、わたしに就活の懊悩を忘れさせた。そして気づけば、板前として職を得て、職人として骨を埋めても良いとまで思うようになった。そうやって、就職の逃げ道ができてからは、閉塞した毎日は、風通しが良くなり、それまで見えなかった多くのことに気づく、心の余裕まで生まれた。

ふたつ目は、ライブキャストへの誘いである。サークルから意識的に距離を置き、就活のためだと自分を律する毎日は、それまで好きだった居場所と人間関係を煩わしいものに変えた。そして、自分に自信を失ってからは、人間そのものが煩わしくて仕方がなかった。そんな中、同期から、自分たちのバンドのライブに、スタッフとして参加してくれないかとの打診を受けた。内心嫌だったが、同期の誘いということもあり、断れず、1日限りのスタッフなら構わないかと承諾した。これが誤解だった。スタッフはスタッフでも、わたしが受けたのは、受付や撮影役ではない。バンドの敵役として登場する、バリバリの演者だった。わたしは言葉の足りない同期を恨んだ。しかし、無責任に辞めるとも言えない。不満を飲み込んで練習にも参加し、人前に出たくない気持ちも押さえ込んだ。そうして迎えた本番は、観客の身内の多さもあったろう。大きな反響を受けた。わたしは自分の殻を破ることができた。こうしてわたしは自己肯定感と自尊心を再び獲得した。

それからは、自分の人間的未熟さ、平たく言えばクズさを認めることができるようになった。開き直って受け入れることができた。就活にも、学業にも、人付き合いにも、関心を向け始めることができた。この挫折は、自分の生きたいように生きる自我と、自分のわがままを自分で許す寛容さ、そして、死をも恐れぬ覚悟を、わたしに身につけさせた。

◯現在

挫折以前とは、比べるべくもなく充実した毎日を送っている。それは、終活を終え、死への恐れを克服したことによるところが大きい。毎日を最期の一日だと思えば、自然と後悔のしない即断を下せるようになった。また、死が怖くなければ、人間など恐るべくもない。なんとなれば、わたしは気に入らない相手に諫言と制裁を加えることも厭わない。