4月生まれのせいか、幼いころは同学年の中では利発で生意気なこどもでした。小学校高学年になると担任の先生との折り合いが悪くなり、通信簿に協調性がないと書かれていたような記憶が。今思うと申し訳ないとしか言いようがありません。
自己顕示欲も強く、中学校の文化祭の劇ではクラスで自分の案を却下されたことに憤慨して他のクラスにオリジナル台本を書いて提供し、そちらが自クラスよりも上位に入ったので快哉を叫んでいました。協調性ないですね。
しかしながら、4月生まれの先行者利益も中学の終わりごろにはすっからかんで、持ち前の幸運で高校入試はかろうじてクリアしたものの、高校での成績は超低空飛行。しかもいわゆる県立の伝統校の一見理不尽な校風への反発もあり(当時。今はむしろ評価しています)、隴西の李徴のような鬱屈した高校時代を送りました。
詩作に慰めを見出した李徴に倣ったわけではありませんが、文学部しか行かない宣言をしたところ、文学部なら私立は早慶しか許さんと親に言われ、1年浪人して早稲田大学の第一文学部に進みました。ここでは森見登美彦の小説を中途半端に薄めたようなモラトリアムを満喫。3~4年当時、世の中は就職氷河期まっただなかで、私もミーハー気分で受けたキー局を全滅しましたが、早稲田の一文というところは世間一般的な就職にはこだわらないおおらかな雰囲気があり、ついつい職のないまま卒業してしまいました。
年 | 職歴 |
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xxxx 年 | 某学校法人 |
2006年 | 株式会社クインテット 入社 |
こうして順調に無職歴を更新していくわけですが、捨てる神あれば拾う神あり、某学校法人(予備校)が恐らく学歴だけ見て採用してくれました。ここは出席にこだわる、高校の延長のような予備校で、私は公務員受験クラスでたまに授業を持ったりもしましたが、基本的にはクラス担当として生徒たちの面倒を見ることになりました。 ひたむきに頑張る姿というのは応援したくなるものです。世の中にはできる人ばかりではなく、今できなくてもそれでも目標に向かってもがき、前進することは非常に尊い。それをいくらかでも手助けできたことは幸せな経験でした。人は居場所があれば、前向きに生きていけるという信念を得たのもこのころです。
とはいえ、斜陽の教育産業。減る人員、増える業務に慢性睡眠不足で、クインテット(当時メディック)への転職を決めたのでした。