ワラ
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

神奈川県

幼少期の暮らし、体験

小さいころからいろんな子と仲良くなるのが得意だった。小学生の頃、朝ごはんを食べている際に父の仕事場の会社のしんどいところを伝えられ、サラリーマンは楽しくないところと知りサラリーマンにはなりたくないと思っていた。小学校の頃、友達の家に遊びに行った際に友達の弟や妹の世話を行い、とても仲良くしていたことや、休み時間も低学年とあそんだりしていて子どもと触れ合うのが得意だった。

中学・高校時代

中学校では部活も勉強も中途半端で特に勉強は平凡でした。自分の通っていた塾がかなり昭和チックな塾で一般的には簡単といわれる問題だった問題をぼくは答えられずスリッパで頭を叩かれたりしました。僕はその時こんな大人を作ってはいけないと心の底で感じた。高校には併願校に入学し、テニスを全力で頑張った。高校一年生の時は、自分が教わっていたコーチが小学校三年で習っていてコーチになっていたので自分もコーチになろうと考えていたが、高校の担任にそういうのは全国レベルの人がなるものと言われ、夢がなくなった。そこから高校はテニスができればよいと考えて入ったので、大学も目的をもたないと勉強をしないと考え将来について考えた。その時に自分の頭には安定と言えば公務員しかなく、公務員の中で考えることにした。その中で小学校の頃に子どもの世話ができる所などを考えると先生はできるかもということで教育学部を目指すことにした。しかしこれを決めたのが2年生の夏ごろで1年生の頃は部活に本気で打ち込んでいて、全く勉強しておらず、現役での合格はできなかった。そこでたまたま親が3年の現役時代の夏に大阪に単身赴任することになり関西圏の受験も可能になった。そこで浪人が確定した観光ついでに関西学院大学を見学することになった。大きく広がる芝生の両端に長いヤシの木、そして山をバックに時計台がある校舎を今でも忘れない。その風景を見た瞬間に都心のエレベーターやエスカレーターのあるビルのような大学ではなくここだと感じ、最低ここには受かろうという気持ちで合格を勝ち取った。この浪人の頃の時間の大切さについてはとても学びが大きかった。

大学・専門学校時代

大学生になり、バイトはもちろん塾講師。サークルはテニスとボランティアサークルに入った。そしていろんな障害や、心理学、お金の歴史の内容に興味がありその分野の本を読んだり、FPさんと仲良くなったり、占い師さんとイベントをしたりいろんなことをした。そんな中、2年生の秋に小学校へ観察実習という1週間の実習のようなものがありそこで本格的に小学生の実態を把握した。そこでもっと話を聞いてあげたり不登校などにもアプローチできる環境を作ってあげたいと考えた。